台風十号は大型で被害が大きいと言い、東北に上陸して、大雨を降らせているというので、田舎の家が大丈夫か心配だ。とはいえ、秀夫ちゃんが時々見てくれているので被害があれば知らせてくれるであろう。こういうとき体が不自由なのは困る。何かあっても即応できないからだ。
子供の頃、大人との対局で二枚駒落ちでも負けるように弱い指し手だったが、そのうちやろうと思っていながら、すべての休みをインドに注いで来たため、将棋をする時間をとれずに来た。最近になって再度、始めてから、子供の頃に決まりきった打ち方がいやで定跡というのをまるで覚えなかったが、囲いというもののあることををネットで知り、簡単に覚えられそうな、美濃囲いというのから始めた。恐らくこの年齢と病身では、美濃囲いのとば口で終わるであろうが、外出しないで居るときは殆どこれに時間を取られている。しかし疲れやすいので、休み休みである。
数日前に記した中国や韓国の人名で、読みの間違いなどがあったのを訂正するのに手間取ったため、ここで訂正する。
米国占領軍総司令官マッカーサーに比定した唐の使者、郭務悰(かくむそう)の字は、パソコンで見つけられた。同様に、吉備真備を操ったと思われる唐僧、道璿は「どうせん」と読む。比叡山の偏と同じなので「えい」と音読したのは誤りであった。最近はもっぱらアイパドで作業しているので、難しい漢字が見つけられないのだが、久しぶりでパソコンを使ったため漢字を探せた。
もうひとつ、新羅から来た天照大神(あまてらすおおみかみ)に大御神とした御は除去した。尚、須佐之男命は概してカタカナでスサノオと書かれていることが多い。
米国占領軍総司令官マッカーサーに比定した唐の使者、郭務悰(かくむそう)の字は、パソコンで見つけられた。同様に、吉備真備を操ったと思われる唐僧、道璿は「どうせん」と読む。比叡山の偏と同じなので「えい」と音読したのは誤りであった。最近はもっぱらアイパドで作業しているので、難しい漢字が見つけられないのだが、久しぶりでパソコンを使ったため漢字を探せた。
もうひとつ、新羅から来た天照大神(あまてらすおおみかみ)に大御神とした御は除去した。尚、須佐之男命は概してカタカナでスサノオと書かれていることが多い。
江上波夫の騎馬民族征服王朝説は有名だが、掲題の本を読むのは初めてだ。著者には編集者時代にお目にかかったことがある。この本は晩年に「日経新聞」に連載の「私の履歴書」と書きおかれた「学問は探検である」の二部構成である。この本を読もうという気になったのは、天孫族の天照大神と須佐之男命が新羅から来たというのと騎馬民族との関係を知りたかったからだ。
それは第二部に非常に論理的に整理されていて、弥生時代後期に連なる高塚墳墓に代表される古墳時代前期(三世紀末か四世紀初~四世紀後半)と巨大な前方後円墳の応神、仁徳陵に代表される古墳時代後期(四世紀後半~七世紀後半)の出土品による考古学的推定。そして「魏志倭人伝」「魏略」「駕洛国記」「魏略逸文」「後漢書東夷夫余伝」記紀などの解読により、古墳時代後期が騎馬民族文化に当たるという。具体的な文章が載せられていたが、当時の語意を理解する読解力が養われていなければならないというのがわかった。
例えば韓国(カラクニ)のカラは朝鮮半島南部で馬韓(百済)、弁韓(任那、伽耶、加羅)、辰韓(新羅)であり、倭人がそれを支配していて始めに筑紫を崇神天皇が、続いて大和に応神天皇が来て日本を支配下においたと言うのだ。カラがxalaだとか、記紀の久士布流(くしふる)のフルが村を意味し、百済の都を所夫利(そふる)、新羅の都を蘇伐(そぶる)現在のソウルというように王都を意味することがわかり、昔、金達寿の本で伊勢のセはソウルのソと同じだと書かれていたのを思い出した。確かに綴りはSeoul だ。
それは第二部に非常に論理的に整理されていて、弥生時代後期に連なる高塚墳墓に代表される古墳時代前期(三世紀末か四世紀初~四世紀後半)と巨大な前方後円墳の応神、仁徳陵に代表される古墳時代後期(四世紀後半~七世紀後半)の出土品による考古学的推定。そして「魏志倭人伝」「魏略」「駕洛国記」「魏略逸文」「後漢書東夷夫余伝」記紀などの解読により、古墳時代後期が騎馬民族文化に当たるという。具体的な文章が載せられていたが、当時の語意を理解する読解力が養われていなければならないというのがわかった。
例えば韓国(カラクニ)のカラは朝鮮半島南部で馬韓(百済)、弁韓(任那、伽耶、加羅)、辰韓(新羅)であり、倭人がそれを支配していて始めに筑紫を崇神天皇が、続いて大和に応神天皇が来て日本を支配下においたと言うのだ。カラがxalaだとか、記紀の久士布流(くしふる)のフルが村を意味し、百済の都を所夫利(そふる)、新羅の都を蘇伐(そぶる)現在のソウルというように王都を意味することがわかり、昔、金達寿の本で伊勢のセはソウルのソと同じだと書かれていたのを思い出した。確かに綴りはSeoul だ。
20日土曜日に鳴島兄が音頭をとって神保町で「呆け防止会」を開いてくれた。穴子どんぶりの昼食後、ラドリオで話を楽しめた。松井夫妻に梅津氏が加わり五人で話がはずんだ。私が大化の改新と言うと、読書家の松井夫人が、今はその言葉は使われず、乙巳の変と言うのだそうだ。確か、最近読んだ本でも大化の改新とは明治維新の頃に紀州藩士だった人が提唱した言葉だと言っていたから、明治維新という言葉にはくをつけるため使われ始めたことばなのであろう。
遣唐使の帰国後の役割として天武天皇のあとの遣唐使の吉備真備が連れ帰った天竺僧、菩提僊那と唐僧、道璿(せん)は東大寺造立のために派遣されたのであったが、一方でこの派遣された二人は吉備真備を使って日本の間接支配をしたのが主目的であったという点で、現在の日本を官僚によって代理支配下に置いているのと全く同じ構造である。
前の大戦で米英の連合軍に無条件降服した日本は、白村江で唐・新羅連合軍に敗れた時とその後のありようがそっくりである。
マッカーサー占領軍が天皇を象徴として占領政策に利用した。
敗北した天智天皇は近江に退却したが、占領された百済から天智三年と四年に唐の使者、郭務悰(かくむそう)が続けて来日、更に天智十年には二千の兵を伴って来てその年末に天智天皇は崩御した。
翌壬申の年に天智の皇太子大友皇子が弘文天皇に即位したが、天武天皇の皇子が編んだ「日本書紀」にはもちろん記されていない。ここで使者、郭務悰(かくむそう)は天武天皇擁立に関わったと見られ、そのあと帰って行っている。その後の百年は自民党政権下で米国金融マフィアに支配されているのと同じ、唐と新羅の支配下にあった。それを暗に批判したのが「竹取物語」である。
要するに唐の使者、郭務悰(かくむそう)は米国のマッカーサーなのだ。
マッカーサー占領軍が天皇を象徴として占領政策に利用した。
敗北した天智天皇は近江に退却したが、占領された百済から天智三年と四年に唐の使者、郭務悰(かくむそう)が続けて来日、更に天智十年には二千の兵を伴って来てその年末に天智天皇は崩御した。
翌壬申の年に天智の皇太子大友皇子が弘文天皇に即位したが、天武天皇の皇子が編んだ「日本書紀」にはもちろん記されていない。ここで使者、郭務悰(かくむそう)は天武天皇擁立に関わったと見られ、そのあと帰って行っている。その後の百年は自民党政権下で米国金融マフィアに支配されているのと同じ、唐と新羅の支配下にあった。それを暗に批判したのが「竹取物語」である。
要するに唐の使者、郭務悰(かくむそう)は米国のマッカーサーなのだ。
メーチニコフの「回想の明治維新」(岩波文庫)を読んだ。メーチニコフは東京外国語大学でロシア語を明治初年に教え、フランスで日本語を学び、スイスで出会った後の大山元帥に日本語を学び招かれて来てロシア語を教えるかたわら日本の研究をして「日本史」を書いている。革命家の見た見識のある日本史でいい本だった。
11日が山の日とかで休日だそうだ。全く知らなかった。以前にも書いたが日本の時代変革は常に外圧によって惹き起こされている。大化の改新のあと天智天皇は即位する前に白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた。そのあと壬申の乱で天武が天皇になった。明治維新のあと太平洋戦争で天皇は現人神から人間となり、象徴天皇という訳の分からない存在になった。唐王朝の中国が替わって、ユダヤ系の金融マフィア米国に支配される国になったのだ。
仙台に行ってきた。その先の故郷にはまだ足に自信がないので行かなかった。広瀬川で打ち上げられる一万六千発の花火を見た。七夕は何度も見ているので今回は藤崎デパートと仙台駅のそばを通ったときに見ただけだ。秋保温泉の奥にあるかんかね温泉に二泊して温泉三昧であった。石神弁護士に会って久しぶりに話ができた。今回は、長谷川氏には留守中で会えなかった。彼はリハビリ病院から退院したてに和久井氏と一緒に見まいに来てくれたので話を充分に楽しめた。かんかね温泉は若夫婦に経営が譲られていたが、一泊六千円強という安さは変わらなかった。温泉の効果で背中の痛みが軽減した。料理は以前にもまして美味しかった。しかし、湯疲れしたのか帰りの新幹線では寝入ってしまった。田舎まで足を伸ばさなくてよかった。