芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

瀬戸内寂聴『デスマスク』最終校正のインド人の第2候補

2013年10月30日 | Weblog
瀬戸内寂聴『デスマスク』を校正してもらう候補の一人、女医のジョーティさんが、夕べ、診療に来ていたが、患者が少ないので、「あとがき」を見てもらった。関係代名詞を使った私の文章は、長すぎるから、文章を短くわかり易くするように、短文に直された。
彼女に本文を見てもらうかどうかの判断のためにも、あとがきを見てもらったのだ。
本文を彼女に見てもらうと、原文から相当離れて、かなり直しを入れられるかもしれない。今から見てもらうとかなり時間がかかりそうだから、躊躇してしまう。
それと、寂聴尼の文章は、比較的長いが、わかり易い日本語である。ジョーティさんの性格からは、竹を割ったような、ぽきぽきした文章になるであろう。

明日からデリーへ

2013年10月29日 | Weblog
明日から夜行列車でデリーに行くので、御土産を買いに行った。
デリーのような都会に対して、ここジャバルプルは地方都市だから、なかなか好いものがない。いつも食パンを買うオヴンクラシッックでチョコレートを買った。好みもあろうし、一つ130ルピーのを8個である。沢山では、甘いものの嫌いな人がいるかもしれないし、この町にしては、味のいいほうだからそこそこの量を選んだ。
瀬戸内寂聴尼の『デスマスク』は、印刷所、ゴンダールスプレスに校正も出来るか問い合わせ、明後日、直接行って確認することにした。校正と言っても原文を読める訳ではないから、ヒンディー語訳がおかしくないかだけを見てもらうのだ。

文化祭タラング

2013年10月28日 | Weblog
先日の電話は早とちりで、最高裁弁護士ヴァルマー博士は、ジャバルプルには来ないと分かった。
となると、瀬戸内寂聴『デスマスク』の校正を誰に見せるかだ。
今までのインド人に見せた経験によると、かなりそれぞれの力に問題があり、ヒンディー語を出来るという人は意外と少ない。依然住んでいたワルダの大学で、ヒンディー語を教えている教師でもヒンディー語の博士課程を終った学生でも、私が見ても明らかな間違いをしていたりする。
翻訳というのは、原文があるので、それに引っ張られたヒンディー語訳になるから、ヒンディー語としては、あまりこなれない訳もあるが、それを面白いと感じられるかどうかも、その人の性格にもよって、認める認めないが起こる。であるから、本来は、共訳者と一緒に討論しながらするのがいいのだが、それには相当の時間もいる。ワルダにいる間にその共訳を討論しながら、翻訳したビールパールシン、ヒンディー文学科教授が、最終稿を見せたら、かなり間違いがあるから、共訳者から外してくれというので、私自身がもう一度見たら、確かに彼の訳したところに間違いがいくつかあり、それは私が直したが、さらにそれを文学の素養のあるインド人に見てもらいたいのだ。
昨日は、文化祭タラングを見て来た。写真は、路上絵画競技で一位の作品だ。色々な競技があった。

瀬戸内寂聴『風景』の中の『デスマスク』最終校正のインド人

2013年10月27日 | Weblog
先日、最高裁の弁護士ヴァルマー博士から電話があり、お嬢さんの嫁ぎ先であるジャバルプルに今日来るから、電話すると言われた。
彼は、私がハガエンタープライズから出版した『現代日本語ヒンディー語訳竹取物語』のヒンディー語訳を改訂訳し、デリーのBOOKS INDIA INTERNATIONAL から"BAANS KAATNE WAALE KI KAHAANI"という題で、竹取物語のヒンディー語版を出版するのに尽力してくれた。
デリーの彼の家になんどか招かれて、彼の作詞による歌をお抱え音楽士の演奏で聞かされたりして、趣味人で文人である。
今回の瀬戸内寂聴『風景』の中の『デスマスク』も、彼に見てもらい出版しようと考えている。近々、逢ってそれを依頼しようと思う。

試験問題用紙の体裁を作る

2013年10月26日 | Weblog
昨日授業に行こうとしたら、車の運転手から今日は授業がないから、行かないと言われた。
大学学生課からのメールに、体育館がタラングで、使用中のため使えない。授業は全部休み。とあったので、体育館を使う授業だけかと思ったら、後半の文章は独立していたのだ。事務的な用事はあるのだが、行かないと言われれば仕方ない。大学側からの休講ということだから、宿舎で、学期末試験の手直しをして、完成させた。
学部長から試験問題を見せるように言われているので、これを印字してみせればいい。日本語を分からないのだから、見ても、体裁を見るだけであろう。この大学では、それぞれの教師が勝手に問題を作るから、体裁が統一されていない。学生の解答用紙が、白紙にそれぞれまちまちに解答すると言う。
アップルのパソコンで作っているのをウィンドウズのパソコンにメモリーをいれて印字すると、文字化けや、ページが変わってしまい、ウィンドウズのパソコン内でまた作り直さなければならないので、PDFに固めてから印字することにしている。しかし、雷のせいか、大学は良く停電し、開いているメモリーの中身が全部吹っ飛んでしまったりする。

夏野菜が値上がり

2013年10月25日 | Weblog
昨日は大学に行かなかったので、良くはわからないが、現在、大学で学生達が、文化祭を開いているらしい。その文化祭の名前がタランというのだそうだ。さざ波の意味かもしれない。理系の大学にしては、文学的な命名だ。詳しくは今日、授業に行った時に学生に訊くしかない。
このところ急に朝晩寒くなって来たので、秋になったのであろう。雪は降らないから、冬と言えるほどの冬はなく、秋からそのまま春になるような気候だ。一昨日の授業の帰りに強雨に見舞われたが、昨日も雷雨があり、このジャバルプルというところは、雨の多いところだ。そのせいか、トマトが、数週間前までは、1キロ20ルピーだったのが、昨日は50ルピーに跳ね上がっている。それでも日本に比べれば、キロ80円くらいであるから、ここの給料からすれば高いが、日本的感覚からすれば安い。玉ねぎもキロ80ルピーもし、普段の3倍以上である。これからは秋の野菜を食べる時期なのであろう。



瀬戸内寂聴『デスマスク』のヒンディー語訳

2013年10月24日 | Weblog
瀬戸内寂聴『デスマスク』を印刷の前にもう一度見ると、まだ直すところがあり、結局、今日までかかって取りあえず、直したという感である。
どうも見るたびに、直したくなるから、切りがなさそうだ。
これをワルダのビールパールシン、マハートマーガンディー国際ヒンディー語大学教授に見て貰って、直したので、もう一度見てくれるように頼んだら、まだ誤りが結構あり、直すのは難しいから、自分の名前は共訳者から外してくれるように言われた。これを別のインド人に見せたら、また直されそうだ。
これで良いと言うところにはいたらないのだから、妥協してくれるといいのだが、仕方ない、私も印刷所に渡すぎりぎりには手放さねばならない。

瀬戸内寂聴尼の『風景』から『デスマスク』のヒンディー語訳完成へ

2013年10月22日 | Weblog
先日、デリー大学のウニタ日本語教授から、お嬢さんの結婚式に出られるかと携帯にメールがあったので、31日夜のその結婚式に出席すると返事した。ただ、ジャバルプルからデリーに行く汽車は、遅い時間にはなく、30日の出発日と、11月1日の2日を休講にしなければならなくなった。この時期は、ディーワーリーの祭日の期間で、日本の年末年始のように帰省する人たちが多いので、帰りの汽車が、3日までとれなかった。
デリーに行くことになったので、瀬戸内寂聴尼の『風景』の中からヒンディー語訳した『デスマスク』をいよいよ出版しようと、もう一度見直したが、結構直しがあり、10日ほどかかり、土曜日におわった。
この角川学芸出版から出た、『風景』は原書を改めて見ると、エッセイの手記の分類コードがついていて、私は、私小説と思って訳していたので、見解の違いということになるが、小生のハガエンタープライズからは、日本文学の小説の分類コードをつけて出版する。この『風景』には他にもいくつか短篇が載っているが、翻訳に時間がかかるので、取りあえず、この『デスマスク』だけを出版することにする。

日本からの荷物を大学宛にしたら、盗まれなかった

2013年10月21日 | Weblog
先週一杯ダセーラで休みだった。今朝は、肌寒く、長袖を着なければならないほどだったが、外にわずかの時間いるだけだったので、半袖で通した。
夕方、講義に行く車が、街から荷物を運んできたと言って遅れて迎えにきたが、日本からの荷物が来ていないか聞きに郵便部に行くと、その車から、日本から送られた荷物が運ばれて来た。今回は、荷物を宿舎ではなく、大学宛にしたので、中身を盗られていなかった。
個人の住所宛だと、馬鹿にして、荷物を抜くのではないかと思ったので、大学気付で送ってもらったら、公用の荷物ということと、留め置かれた郵便局が遠いけれども前の荷物を抜かれたのとは違う郵便局だったのが良かったようだ。

ボーパール動物園のジャッカル

2013年10月19日 | Weblog
ボーパールは、州都だが、西のほうにあるインドールのほうが人口の大きい街のようだ。ボーパールは英国支配かに入る前は、隣のハイデラーバードに従属していたので、ハイデラーバードのほうが格段に大きな王国だったのだ。だから、ハイデラーバードの動物園がアジアでいちばん大きいと言うから、それより小さいのは当たり前である。しかし、そこにいたジャッカルは、遠藤周作の『深い河』のチャームンダ像の足元にいた動物だ。これはハイデラーバードの動物園にはいなかったのではないか。
このインドールのある地区とボーパールを中心とする地区が合併して中央インド州になったのだ。
ボーパールは中央インド州の州都としてより、 1984年12月3日の米国の化学会社Union Carbide インド子会社による毒ガス漏れ事故で、2週間で2万近くの人が亡くなったことで有名である。その後もその後遺症で亡くなる人が絶えず、私がワルダからデリーに行った時に、汽車で一緒になった医者が、その後遺症のひとを診にナーグプルから乗って来たのに出くわしたことがある。
どこの国もこのような事故は原発事故と同様、隠したいらしく、インド政府も大したことないように見せるようにして、なるべく触れないようにしている。
先日ビームベートカに行ったとき、ぼられたオートの運転手もその親が被害者だと言っていた。