芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

パレスティナがオブザーヴァ国家に

2012年11月30日 | Weblog
パレスティナがオブザーヴァ国家として、国連で認められた。準国家扱いになるため、国連でこれ迄イスラーエルと米国に否定され続けた権利を主張できるようになる。これは、歴史的な決議である。
第2次大戦後の血塗られた米国とイスラエルによる殺戮の横暴を阻止する歴史的な変換をもたらすに違いない。
この決議は賛成138カ国、反対9か国、棄権41カ国の圧倒的な賛成多数で採択され、米国とイスラエルが強く反対していたというから、日本がこの反対か棄権に与していた可能性が高く、そのどちらかで、日本の米国に対する独立度が量られる。
ネットニュースでは残念ながら、日本の立場がどうだったかを知ることが出来ない。


パンタオー活仏に親しく参拝

2012年11月29日 | Weblog
16日(金) ホテルで軽食後、迎えに来たカマラ女史のいとこの運転する車でEちゃんの泊めてもらっているカマラ女史の家に一旦行き、そこで祈祷衣装に着替えさせられて、パンタオー活仏にお参りする。カマラ女史の指示に従い、みんなでパンタオー活仏に足を向けないように横座りし、手をかざしたり、息を吹きかけたりする祝福を受けた。親しく、お話をして下さり、願いを聞いてくれるというので、インドで気持よく生活できるよう願う。日本から来たというので、喜んでくださり、明日、また来れば、伝統的なマニプル舞踊を見せて下さり、食事もごちそうしてくださるというので、明日は、昼過ぎに飛行機に乗るので、その前なら来れると言うと、10時から始めるというので、再訪の約束をした。
パンタオー活仏は、マニプル州が、インドから独立する運動のなかで、ヒンドゥー教化されたマニプル州を元のメーテイ文化に戻す動きの中で復活した宗教のようだ。
活仏は、ネパールのカトマンドゥーにクマーリーという処女の活仏がいるし、ダライラーマなども活仏であり、この地域に多いのは、ティベット仏教系の宗教的影響が大きいのかもしれない。

竹取物語ウルドゥー語訳をデリーで出版のために行く

2012年11月28日 | Weblog
昨日は、11月30日が、日本語初級の試験なので、その準備のための最後の授業をした。
試験は、10項目あり、1項目ごとに10問、全部で100問作ってある。日本語を書くのは、1から10まで漢字で書くのだけで、あとは、答えを選ぶ方式である。
1項目から三項目までは、一般的な挨拶をひらがなで書いてあるのを、ヒンディー語のデーヴァ・ナーガリー文字で表記しているのから選ぶのと、ヒンディー語訳したのから選ぶだけだから、ひらがなを少し読めれば、簡単なはずである。
ところが、このひらがなを、中級の学生もいまだに、全部は読めないし書けない。カタカナに至っては殆ど出来ない。
とは言え、私自身、ヒンディー語は、独習であるから、ヒンディー語の文字のうち、組み合わせ文字はいまだに書けないし読めないのもある。独習書に、組み合わせ文字が出ていないせいもあるが、あまり、熱心にやらないせいでもある。
であるから、熱心でない日本語初級学生に大きなことはいえないから、出来るだけ簡単な試験問題を作っている。
私は、ウルドゥー語を東京外国大学で習ったが、この文字はアラビア文字を基本にしている。
近々に『竹取物語』ウルドゥー語訳をデリーで印刷するために行くことにしている。

インパールに入京して間もなく下痢と嘔吐

2012年11月26日 | Weblog
インパールでは、Krishtina Hotelというのに一部屋だけとれ、もう一部屋は夜に空くというので、投宿した。近くには、印刷屋、書店が多いので、私には好ましい環境だ。
ところが、ホテルに着くと直ぐに、下痢と嘔吐に見舞われた。同じものを食べて来た他の人達は何でもなくて、私だけが下痢したので、かつてもこういうことがあったことを想い出した。ヒロシマの原爆ドームのそばを通った時に気持ち悪くなり、直ぐに近くのホテルに戻って、トイレに駆け込んだのだ。どうも、前の大戦で不慮の死を遂げた人達が大勢いるところに来ると、私は、気持ち悪くなる体質のようだ。成仏できなかった大勢の日本兵の魂がいまだに漂っているということなのかもしれない。
同行の弘前大学大学院生Eさんが、インドの下痢止め薬を持っているというので、貰って飲んだ。私が教えている学生ではないが、同じ語学部の博士課程のカマラ女史が、やはり、帰省していて、いとこの車で案内すると言ってくれているから、観光中に下痢してはと思い、インドの薬は直ぐ効くということで飲んだのだ。
とりあえず、ホテルで昼食を摂っていると、カマラ女史が迎えに来てくれた。空き部屋がまだ取れていないE さんのために、カマラ女史が、Eさんを自宅に泊めるから、荷物を持ってくるようにというので、そうしてもらうことにした。
夕方にかけて、王宮の近くにあるゴーヴィダジーとハヌマーンという神社に案内された。
私が日本語を教えているアミートラ女史は、おじさんが最近亡くなり、その喪に服しているため、同行しなかった。

バールティー教授とのやりとり

2012年11月25日 | Weblog
大学宿舎に戻り、昼食時に、食堂で会ったバールティー教授にアッサームの旅はどうだったかと聞かれたので、ご紹介の運転手は安全運転で良かったが、最後に言われた請求額が、12,800ルピーは高いと言うと、同意して、その計算書を見せるように言われた。昨日、その計算書を見せると、距離が200キロ余計に加算されているだけでそれほど高くはないと、紹介した運転手とその会社をかばう意見を言うので、私は、これまでインド中を旅して、どこそこまでいくらという、計算のときは、その中に、運転手の食事宿泊代も含まれていて、今回は、その他に、全行程を783キロとして、それに1キロあたりガソリン代5、5ルピーを掛けている。距離計算のときは、距離計算だけで計算するのがインドのほかの地域のやり方で、目的地シロング、チェッラプンジーまでの5、100ルピーという車代は、宿泊代、食事代こみなはずなのに、その運転手の分を支払わされてから、最初に距離メーターの確認もさせないでいて、迎えの空港から、帰りの空港まで含めて計算したというのでは、出鱈目も良いところである。最初に行き先に応じて、いくらかかるか言うように言っているのに、言わないでおいて、帰って来てから、計算書もなしで、計算が出来た12、800ルピー払うようにでは、キツネに鼻をつままれて気分で、納得できないから、North East Region Tour's & Travel の計算書と領収書を持ってくるようにと言うと、翌日別れる時に、それを持って来て、12,917ルピーは、毎日の車代のほかに、距離計算もいれて、尤もらしい数字にしている。デリー、ジャイプル、アーグラで4泊約800キロの旅行をしても4,000から5,000ルピーだというようなことを私が言うと、デリーは車代が安い、使った、タタのインディゴは、高級車だから、高いのだと、全面的に、私の良い分に反論して来た。これがインド流である。非を認めないのだ。
確かに非を認めれば、紹介した自分の立場が悪くなる。しかし、私は、もうこれは支払って終わったのだから、これから、返金など求めない、と言って、別れた。
バールティー教授は、旅先のことは任せなさいと言って、今まで私の行ったことのない州に行く機会を作ってくれただけで感謝しているのだ。

いよいよインパールへ

2012年11月24日 | Weblog
14日は、バーザールで銀行を探したり、アッサーム茶を買ったりしてから、前回満室で泊まれかなった、アッサーム州政府経営の宿舎ASTD. Guest House に予約しておいて泊まった。
15日 (木) Guest HouseでNorth East Region Tour's & Travel のTaxi 込みの請求書R12,916に対してR13,000を払い空港に送ってもらい、旅行社の運転手とおさらばした。
Guwahati 発10:35 6E127 便でほぼ時刻通り Imphal に11:30 に着いた。
この日は、女性を自宅に招いて馳走するマニプル最大の祭りの日だそうで、午前中いっぱい祭りで、見られるかもしれないと期待したが、バールティー教授紹介の スチという人物の電話が分からないと入京できないため、インパール空港外国人登録に手間取り、係官と一緒に空港の外を探したが見つからなかった。
バールティー教授紹介は剣呑なので、これ幸いと、帰省中の日本語授業を受けている Ms. Amitraに電話 して、父君とバイクで迎えに来てもらい、ホテルを探したが、全インドバドミントン大会のためどこの宿も満室で4つ目のHotel で、やっと、部屋が取れた。点々と宿を探して歩いたオートリキシャ代を父君が払ってくれた。

受け入れ態勢の出来ていない大学の学生募集

2012年11月23日 | Weblog
学バスがバーザールに着いたとき、後ろにベルギーからの留学生が座っているのが見えたので、私が、この大学はお知らせなしにバスの時間を変えたり、常にこの調子だと言った時、拍手したのは彼女達だと分かった。彼女達も大学側としょっちゅう折衝しているが、効果がないので、この大学に批判的だ。
そもそもが受け入れ態勢が出来ていないのに、ヒンディー語を学ぶ留学生をどんどん呼び込んでいる。ベルギーの留学生達は、2年ヒンディー語授業を自国で勉強して来ているから、かなりできるのに、北京で1年しか学んでいない学生たちと机を並ばせたため、語学部の責任教師がベルギー留学生から抗議を受けて、北京からの留学生のうち、出来る学生と出来ない学生を分け、北京のできる学生とベルギーの学生、西安で2年学んで来た女子学生をひとつにまとめて今はヒンディー語授業をしている。そうなったのが、すったもんだの末、つい最近のことだ。嫌気がさしたドイツからの留学生は、プネーの大学に様子を見に行き、この大学は、閑静な所にあって良いと言いながら、結局、近いうちにここを出てそちらに越すらしい。
そもそもが、フランス語の講師がいないのに、フランス語の学生募集をしているのだから、話にならない。

バーザールで食糧買出し

2012年11月22日 | Weblog
東北インドから帰って来て、冷蔵庫の食品がなくなっているので、一昨日、学バスでバーザールに行こうとして、語学部発18:00のバスに乗ろうとしたら、18:00前なのに既に出てしまったといい、昨日あらためて、バスでバーザールに行こうとして、バスに乗りに行った。日本語中級の女子学生が、今日は休講にして欲しいというので、どうせ女子学生が休んでいた分の補講でもあり、休みにしたので、早めにバスに乗りに行ったら、1分前に出たと言われた。バスは、山の上から大回りして宿舎まで行くから、走れば、宿舎の前で乗れるかもしれないと思い、近道をして、走って階段を下りて行くと、宿舎の前にバスが止まっている。大声を出して、バスに停まっているように呼びかけて、走り続け、何とか乗れた。
運転手に抗議すると、試験中は、17:30発に変わったと言う。そんなことは聞いていない、この大学は、いつもこの調子だと、言うと、バスの後の席から拍手が起こった。満席だったが、席を譲った学生に聞くと、語学部のあるコンピュータ関係の人に聞いて知ったと言う。
何しろ、今日食べる食品がないのだ。バーザールで米5キロ、鶏肉2キロ、卵15個を買って来た。締めて1000ルピーちかく掛かった。約1キロ以上を走ったため、バスで宿舎に帰るまで汗が出続けた。

ディーワリーの祭り当日

2012年11月21日 | Weblog
翌13日(火)はディーワリーの祭り当日である。
ShilongのTraveller's Nest Guest House を 09:30 に出て、Cherrapunji に向う途中でElephant Fall を見た。元々は3段滝と言われていたが、英国統治時代に滝の一部が象の形に似ているので、そう命名されたが、その後、地震で形が崩れたため、象の形は今は見られない。入場料50ルピー+駐車料10ルピーである。滝への降り口に、カシ族の衣装を着けて写真を撮る所がある。滝壺迄降りると結構な上下をしなければならない。
12:30にチェッラプンジーの Mawsmai Caveに着いて。まずは魚の 昼食 一人当たり100ルピーと高いが採った。入場料はR15+駐車料10ルピーに撮影料15ルピーがかかる。
私のカメラは、なぜか真っ白に写るようになり、夜はまあまあ写るが、昼間は写らないので、役に立たなくなった。
シロングへの帰途、 Mawsmai Nongthymmai 地域のNohsngithiang Falls を道路から見たが、しっかり駐車料R10を払わされた。
チェッラプンジーは、数年前迄、世界一年間降雨量の多いところであったから、興味があって来たが、雨が降り始める12月以降に来れば、滝も良かったのかもしれない。鍾乳洞も、100メートルほどくぐり抜け、ちょっと冒険という所であった。
シロングからチェッラプンジーは、南インドみたいに、教会がやたら多い。カシ語は文字がないため、キリスト教が入りやすかったのだ。
シロングのゲストハウスは、旅行中高いほうの宿泊代で一泊 R1,000であった。運転手は宿泊代500ルピーの部屋にした。
ディーワリーの祭りで一晩中花火があげられていた。
日本のようなきれいな花火ではないが、町中の色々な所で上げられるから、その消費量は相当な経済効果であろう。
14日は遅めに出かけ、グワーハティーへの戻りは1時間短縮して、3時間であった。

メーガーラヤ州の首都シロングの空軍基地

2012年11月20日 | Weblog
12日、メーガーラヤ州の首都シロングに行った。驚いたことに、日本によくある松林と同じ松林が街の至る所にあり、その緑を背景に、桜が咲いている。ソメイヨシノのように、花だけが咲いている。これを見ただけでも満足である。バーラティ教授は2時間くらいと言っていたが、実際には、道路は広いものの、工事中で、4時間かかった。この地域は、カシ族の住んでいる所で、言葉もカシ語だと言う。タゴールの住んでいたというしゃれた家があり、その前に最近造られたタゴールの像が建っていた。この建物は、インド政府が奨学金を発行する事務所になっている。この街は、首都であるにもかかわらず、空港が小さくて、週に数便しか飛んでいないのに、空軍基地が広い。街を見下ろす所に、空軍が、有料で一般人を入れていて、我々も運転手を含む4人分の40ルピーを払って入ったが、切符は発行しないで、金だけ取られた。恐らく、その係のポケットマネーになるのであろう。そこには、土産物屋が数軒店を開いていて、この場所代は、空軍幹部の小遣いになっているに違いない。こんな山間の狭い場所に空軍が幅を利かせているのは、前の大戦で、インパール作戦の日本軍に対して空輸によって敵対したからであろう。山道をここからインパールに行くには相当大変な悪路であろうが、飛行機ならすぐだ。気候は、夜には、セーターがいるほどに冷えるのは、標高1,800mくらいあるからだ。
英軍のこの空輸作戦に対して、牟田口司令官率いる日本軍は、英軍が逃げて置いて行ったものを使うことを前提にしているから、前線から求められた補給をまるでしなかったと言う。そのため、飢えとマラーリヤで多くの兵士が死んで行ったようだ。