芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

マスコミのあり方

2009年06月30日 | Weblog
北上川の漕ぎ下りについて河北新報登米支局に連絡しておいたので、電話取材を受けた分が、6月28日付け河北新報「ワイド東北」の欄(p.25)に「北上川の景観ボートで満喫」と言う題で載った。翌29日(月)にも「みやぎ」欄(p.14)に[岩手・平泉~北上川~スィースィー~石巻 関東のボート部OB95キロ[完漕」]という題で載せている。こちらは、おそらく石巻支局の記者が書いたのであろう。と言うのも、トヨマには触れていないからだ。私としては、トヨマに立ち寄ったことを記してほしかったのである。石巻支局の貴社は石巻に安着したことを記せばそれで良いわけだ。また、登米支局は、登米市内に一泊したと記している。私としては、トヨマに一泊と記してほしかったが、記者は、トヨマと登米市の歴史までは知らないのだから、やむを得ない。
登米支局の記者は、「全国の大学のボート部OB」と正確に記しているが、石巻の記者は、「関東の大学のボート部OB」と記しているが、これは間違いである。この[良い会」には、京都大学ボート部OBや、東北大学ボート部OBもいるのだ。
また、岩手日々新聞では、「参加者は東京大や京都大、東北大、東京外大、早稲田大、慶応大などの各ボート部OB。全国各地から五輪出場経験者を含む34人が集まり、遠くは九州からも駆け付けた。」と平泉の高舘橋の下に取材に来て、正確に書いているが、[朝日新聞」と[[読売新聞」では、[東京外大」が抜けている。これは、朝日新聞ち読売新聞の事大主義で、メジャーばかりを追う性格が良く出ている。日本のボート発祥は、東京大学や東京外国語大学の前身である、開成学校時代に英国から来た英語教師ストレンジ氏が教えて始まった競技であるから、その草分けの歴史は知らないから書けないにしても、東京外国語大学からは4人ものOBが参加しているし、木の[良い会」の現在の会長は、東京大学OBであるが、初代の会長は、東京外国語大学OBであり、彼に私は、北上川漕ぎ下りを提案して、実現した経緯があるのだ。今回、NHKにも取材お願いしたが、やはり、事大主義で、内部で提案はしてもらっても、ボツになったという。理由は、良い会が、役所から認可されたものではなく、任意の団体だからだという。

次回の漕ぎ下り

2009年06月27日 | Weblog
トヨマ警察の菅原係長に、来年はいつ頃北上川の漕ぎ下りをするのですか?と聞かれたが、舟が北上川に直ぐ降ろせるところにないと出来ないから、今、国交省の北上川河川事務所に、日根牛堤防の工事に絡めて、艇庫を造るための敷地を作ってくれるように交渉しているところだが、それを提案するのは、個人では駄目だから、登米市の市長や北上連邦の幹部などに話しているところだと、応えた。今回は、良い会の会長が東大淡青会のOBだから、東大のナックルシックスを4杯借りられたが、その陸送費がかなりになった。登米市の長沼にもナックルフォアがあるが、漕手たちの管理が悪いので手を加えないと漕げる代物でないのと、陸送することになるから費用は、東京からと比べてもあまり変わらない。その手間も大変だ。
川の素人でも浮かべられるところに艇庫があれば、費用も手間もかからない。

北上川でボートを漕ぐ企画無事終了

2009年06月26日 | Weblog
清川で良い会のクルーに披露した岡谷地南部神楽は、翁と橋弁慶であった。翁の演舞中に、畳の上にござが敷いてあり、それに足を取られがちのせいもあったと思うが、舞い手が幣をおとしたので、私が提案したお車代で良いかと思っていた。しかし、そのあとの橋弁慶では、弁慶の演舞も良かったが、高校を卒業したばかりと言う、渡辺君という舞い手は、彼が中学生の時から私は観ていたので、その上達ぶりに大いに感心した。そこで良い会事務局にお車代を5割上げるように進言した。挨拶役の私の同級生の武ヤンを始めとする出演者たち6人は、過分のお車代に喜んで、そのあと私たちが帰る時に、清川の一階でウナギを食べていた。
皆が喜んでくれる結果になりよかった。私は、24日は、石巻まで行くと戻るのが大変なので、漕がないつもりであったが、石巻組に欠席者が出て、人が足りないと言うので、やむを得ず、脇谷閘門まで漕ぎ、閘門の通過風景を見がてら、守んツアンに迎えに来てもらうことにした。運転要員の足りないのは、住まいが水辺プラーザ船着き場の近くで見に来ていた佐藤元大工さんに代行してもらった。ところが、脇谷閘門に来るはずだった石巻組の一人がまだ来ていないと言うので、更に石巻に近い神取公演まで漕ぐことになった。神取公園では、清川が作ったおにぎりを佐藤元大工さんも分けてもらって食してから、邉見さんの車で佐藤元大工さんとともにトヨマまで、送ってもらった。24日の朝刊に続き、翌25日の朝日新聞にも記事が載り、皆無事石巻に着いたことが分かった。
今日は、水辺プラーザ船着き場に舟を置いている間、パトロールを強化してくれた登米警察の菅原雅浩係長にお礼に行って来た。

岡谷地南部神楽、大好評

2009年06月25日 | Weblog
24日早朝起きて、畑をいじっていると、斎藤君が起きて来て、以前私がブログに書いた、「修復した祠」を見たいというので、中庭に案内した。先日工事した時は、基礎の御影石と土台の井内石の間に隙間があったので、私のいない時でも自由に庭に入ってモルタルを詰めるように言っておいたら、いつの間にかモルタルが詰められていたので、完成された祠に向かって斎藤君と2礼、2拍手、1礼をした。斎藤君はどのようにして知ったのか、私のブログを読んでいるのだそうだ。彼は、学生時代から一年に100冊本を読むことを自分に課していて、今でも読んでいると言う。私には真似のできない勤勉さだ。
立花君が起きて来たので、朝のコーヒーを飲んでから、清川に朝食に行った。そこで、稲門艇友会の芳野氏から、昨夜の岡谷地南部神楽が素晴らしかったので、彼が永年住んでいたスペインの保養地フェンヒローレンの祭りに招きたいといわれた。宿泊代食事代は持ってくれるが、往復交通費は持てないと言う。ありがたい申し出でであるから、私も岡谷地南部神楽を鑑賞してもらって良かったと嬉しい。この公演を申し出てくれた高橋真一氏に伝えねばならない。交通費をどうするかが問題であるが、そのように言って下さる人がいるというほどに評価されたととるべきであろう。

平泉から漕ぎ下る

2009年06月24日 | Weblog
昨23日早朝6時半に邉見清二氏が迎えに来て、平泉まで車に乗せてくれた。途中で、松尾芭蕉が通った金沢の村の旧道を走ってくれた。邉見氏は芭蕉について詳しく書いている。
「良い会」の泊まった大沢温泉にはすでにボート関係者は一人もいなくて、高舘橋の下の船着き場で、船出の準備をしていた。岩手日々新聞平泉支局の千田昭彦氏と朝日新聞気仙沼支局の記者と岩手めんこいテレビの記者が取材に来ていた。
私は、4杯中しんがりの舟、「堀切」の4番であるストローク側を割り当てられた。私は、普段バウ側を漕いでいるが、学生の時の東京オリンピックの前年に全日本新人レガッタの舵手付きフォアーで優勝したのちの、国際スポーツ(プレオリンピック)大会に舵手付きペアで整調(ストローク)を漕いだので、ストローク側も漕げる。しかし、トヨマまでの55kmを漕ぐのは辛いので、中田町の歌舞伎船着き場で弁当を食べたあとで、伴走車の運転者と交替した。邉見清二氏は、水先案内をするので、一号艇のコックスの後に座っていたが、辛いだろうから、横石の難所も邉見さんの友達にモーターボートで先導してもらって無事通過したので、降りてもらい、彼の車で一足先に登米に着いた。クルーの到着は予定より遅れて、4時近くになったので、町の見物を取りやめ、ヴィーナスの湯のバスの迎えも遅れたので、とりあえず、旅館にはいってもらい、バスが来てからカクヤマ旅館と海老武旅館に寄ってクルーを拾い、ヴィーナスの湯に行って入浴した。疲れが取れたと好評だった。
岡谷地南部神楽を19時に来ることになっていたので、そのちょっと前に清川までバスで送ってもらい、子鮎の唐揚げを肴にビールを飲み、うな重を食して、岡谷地南部神楽を観た。一段と腕を上げていて、鑑賞者は大いに拍手をおくり、好評だった。
宿に泊まる人はそれぞれの宿に向かい、外語大ボート部時代の同期生、立花栄治、斎藤攻の両君は、我が家の離れに泊まり23時近くまで呑みながらしゃべった。

トヨマのディジタルアンテナの試験放送をいの一番に視聴

2009年06月22日 | Weblog
今日は、朝一番に役所に北上川とよま町水辺プラーザ船着き場の鍵を借りに行き、海老武旅館、カクヤマ旅館にそれぞれ明日の宿泊者数を12名ずつ割り振り、清川で23日夕食と24日弁当36食、朝食27食を確定し、昨日事務局から頼まれた酒持ち込み無料を主人のマー坊に頼んだ。そこで仙台放送やミヤギテレビに取材をたのんであることを云うと、東北放送には、野村紘一郎さんを通して取材お願いするようにいわれたので、帰宅して仙台のご自宅に電話した。急だから分からないが、報道に通してくれると言われ、直後に東北放送の川村氏から電話があった。急なので、決まれば、明日出かけている私に連絡するとのことであるが、私が携帯電話を持っていないのでちょっと難しそうだった。
夕方になって、NHK石巻支局から電話があり、今回は取材が出来ないとのことであった。事務局が東京になるのがいけなくて、地元の事業だといいとのことであった。発案は私がして、良い会が食らいついて来たのではあるが、金集めなど、確かに良い会の事務局がしているので、主導権は私にはないわけであるから、やむを得ない。
しかし、河北新報登米支局からは、電話で、取材をすることにしたから、写真を撮るのにいい場所と正確な時間を教えてほしいと言われた。彼の携帯番号を聞いて、それに電話することにした。一日電話待ちと来客、昼前後は、テレビの移動とそれに引っ張るアンテナからのコード引きとディジタルの設定を阿部ラジオ屋にしてもらった。丁度今日から館山に立てられたアンテナによるディジタルの試験放送が始まり、トヨマでは、阿部ラジオ屋に次いで、我が家がそのディジタル試験放送を初めて視聴したのだそうだ。電機専門店ではない一般視聴者では一番目に視聴したことになる。と言うと、たわいない話しではある。ディジタルでは、アナウンサーの皺や毛穴までが見えるのが、いいような悪いようなである。

北上川を漕ぎ下る直前の問題

2009年06月21日 | Weblog
23日と24日の北上川を漕ぎ下る事務局に正確な参加人数を今日問い合わせたら、今夜になって、石巻組の9人は、朝食が要らないが、弁当だけはいるということと、一旦石巻に帰ってシャワーを浴びてからまた、登米に戻り、清川で夕食を共にすることが分かった。従ってヴィーナスの湯にも行かないということだ。
日本の最高学府である有名大学を出ていても、こういう、世話役にはなれていないらしく、いちいち問い合わせても、聞いたことにしか答えが返って来ない。それにこちらは、幹事ではなく、お手伝いしているのであるが、トヨマに関しては、任せっきりのつもりか、旅館も清川も連絡をとっていないらしい。電話番号を聞いて行ったから、逐一旅館や清川と連絡をとっているのかと思っていたら、全然とっていないことが判明した。それならそれで私には報告すべきであるのに、それもない。任せるなら任せてもらえば、もっとやり方もあったのだが、ま、明日は、悪天候のようであるし、我が家は一日中来客が予定されているので、船着き場の鍵を役所に借りに行くのなどと併せて、旅館2軒と清川を短時間でめぐって来なければならない。この大学ボート部のOBの集まりは、昭和41年ころに卒業した人ということで、[良い会」と命名して、東京では時々集まっているようだ。私自身は、自分のインド・西アジア関係の集まり「ダルマサンガ」を主宰しているので、他にまで手は伸ばせないから、その良い会には、夕食会でイスラーム関係の話しをさせられた時に、参加しただけだ。今回は、北上川を将来どのように利用していくかという一つの切っ掛けになるので、積極的に参加した。しかし、一日目の55kmを漕ぐのも最近は畑仕事以外身体を動かしていないから、漕ぎたくないのが本音だが、ちょっと経験しておくほうがいい程度で参加することにした。しかし、この町も登米市もコチラから働きかけても迷惑そうなだけで、余計なことはしてくれるなという態度が見え見えだ。つい最近では、高倉勝子美術館の建設についてもその親戚から相談に来ると言っていながら、市長に話しておいたのに、市からも何の連絡もないまま、建設だけは進んでいる。この北上川のことも同じ結果であろうから、単なる漕ぎ遊びになるようなら、あまり疲労をしないように、平泉からトヨマまでの55kmを楽しんで漕がなければならない。

北上川でボートを漕ぐ日近づく

2009年06月20日 | Weblog
昨日の朝、カクヤマ旅館の主人が、宿泊者は、素泊まりでなく朝食をとるのかどうかと、人数、宿泊日を聞きにきた。宿泊者数はまだ分からないので、その主人が下見の人達に話した朝食代が1500円と夕食代より高いので、やはり素泊まりにすると言っていたと伝えた。朝食代1500円といわれた下見の人たちは夕食代が1000円になる計算なのでその異常さに呆れて、朝食は頼まなかったと言う。そもそもが、折角他を差し置いてカクヤマ旅館にお客を紹介したのに、6,500円からの食事付き宿泊代を7,000円と言ったり、あまり多い人数だから、芳賀邸に泊めてその宿泊代だけはカクヤマ旅館で全額貰うとしたりするので、最終的に便所と風呂が少ないこともあり宿泊者に迷惑のかからないように素泊まりにして、海老武旅館と分宿にしたのだ。自分の身の長けにあった営業をすればいいのに、高いことばかりいうのが登米の商法だ。松尾芭蕉がトヨマで宿を貸して貰えなくて往生したのはこんなところにあったのではなかろうか。
メールで東京の事務局に問い合わせると、全部で36名の参加者だそうだが、私の友人は我が家に泊まって久しぶりに夜を話し明かそうということになり、また石巻からの参加者8名も泊まらないので宿泊者は24名なのだそうだ。
今日清川からも夕食の時間と人数の問い合わせがあった。


黒田杏子さんのこと

2009年06月19日 | Weblog
瀬戸内寂聴尼の文化勲章受賞記念碑建立の祝賀会の席で、私のカメラで瀬戸内寂聴尼と一緒に撮った写真を送ってほしいと黒田杏子さんに言われていたので、遅ればせながら送ったところ、黒田杏子著[俳句の玉手箱」を送って来た。
ももこさんは、まだ俳人として有名になる前に、私が案内して、瀬戸内寂聴尼や横尾忠則さんと南インドに行った時の旅に参加したので、その後親しくしていて、彼女が編集長をしていた「広告」という雑誌に寄稿させられたこともあった。そのうち、かの女は、毎日新聞の俳句欄の撰者になり、一躍有名になり、俳句を作っていたことを知った。この本で山口青邨に師事していたことも知った。
この[俳句の玉手箱」は飯塚書店というところから出ていて、その出版社は俳句関係の本を出しているところらしい。冒頭に池内紀との対談が載っている。二人ともワープロをしないで、手書きに拘っている。ももこさんは、着るものに拘っていて、いつも藍染めのもんぺなどを来ていたが、最近は自由が丘に店を持つ岩立広子のインドから取り寄せた生地で作ったもんぺを着ているのだそうだ。
池内紀さんは、東京大学大学院修士課程を修了して、その大学で教授になった人だが、元は、東京外国語大学のドイツ語科を出た人で、その同級生の友人に、私のボート部の先輩、池田孝至氏がいる。この同級生はご両人共に文学の素養があり、池田氏は、阿川弘之氏のファンで、かつて、私が阿川弘之氏と親しかったので、お引き合わせしたことがある。その時に池田孝氏は阿川弘之氏と撮った写真を阿川弘之氏に手紙を添えて、送ったと言っていた。礼状を頂いたかどうかは聞いたいない。
この阿川弘之氏は私をパーティーなどで遇って呼ぶ時に、[オーイ、インド」と言って話しかけてくる。阿川弘之氏は、遠藤周作氏とも親しかったので、私が遠藤周作氏をインドヘ案内したことも知っておられたのだ。

吉日

2009年06月18日 | Weblog
神道は、日本古来の宗教ということになっているが、原始的な部分はそうであろうが、殆どが借り物でなかろうか。キリスト教自体が、インドの宗教の影響が大きいと思われるが、神道もインドや中国の思想の影響が大きいのは、やむを得ない。
二十八宿、大安、仏滅などの六曜や、干支のなかにもインドから中国を経て伝わって来たものがある。暦や方角が、権力によって規定されるのだ。
宇宙の天体の動きと地球上の天候などの自然現象との関係を研究することで、行事が決められている。