川向の日根牛に森林組合がある。先週そこに椎茸の菌を植えてあるほだを10本注文した。それが今日やっと届いた。たった10本で、かつ、総額5,250円だから、ついての時に届けてくれれば良いと言っておいたからだが。普通は、自家用の軽トラックで自分で取りに行くのかもしれないが、私は、全然運転しないし、車もない。私は、免許証はあるが、運転したことがないから、今から、運転を始めるのは危ないから止めておく。従って車は買わない。小型船舶の一級の免許もあるが、数年前にクルーザーを廃船にしたため、使わなかったらその免許証はどこかになくして、出て来ない。どうも、年のせいか、探し物ばかりしている。中々出て来ないと、なくすということは、最初から要らないと同じことかなどと考えている。瀬戸内寂聴尼にもらった広辞苑の電子辞書もたまたま出て来たが、一回で、文字が出て来なくなり、やはり、不用な物だったのだと思っている。同じく瀬戸内寂聴尼に貰った10着程のセーターは、これから夏になるとますます不用になるが、寒いこの土地では、来冬には必要になるから、ナフタリンを入れて保存しようかと思っている。しかし6月に一旦寒くなってから夏がくるこの土地ではまだ仕舞うのは早いだろう。面倒なことが嫌いなのに、毎日何か面倒なことが出てくるのは、この土地柄なのだろうか。椎茸のほだをなれない手で運んでいたら、手に擦り傷を作ってしまった。
今日の「芳賀邸」参観者の中に花泉町の人がいて、芭蕉の通ったと曾良旅日記で記されている花泉町の地名を私が書き間違えていることを指摘してくれた。私は、岩波文庫の大判『曾良旅日記』から桶津と間違ってしるしたのだが、涌津が正しかった。岩波文庫の大判『曾良旅日記』が間違ったのか、私が間違ったのか分からない。岩波文庫の大判『曾良旅日記』の『と今』のところで、注記が間違っているから、文庫版の間違いの可能性もなきにしもあらずだ。「といま」の注記は、伊達大蔵を仙台藩第三代綱村の子としているが、綱村は綱宗の間違いだからだ。今、その本が手もとにないから確かめられない。その本を東京の図書館で借りて、貸し出し期限になったので、わざわざ上京して返して来たのだ。登米にも佐沼にもない本というのは当然ながら山のようにあり、そういうときは、そのためだけのために上京せざるを得ないのだ。田舎住まいはやはり不便である。しかし、昨日仙台からいらっしゃった笠原さんは、その岩波版より、角川版の方が良いと言って下さった。確かにその監修者が尾形仂氏だから信頼性があると思う。かつて仕事をしていた頃、私の同僚がその学者と『蕪村全集』の仕事をしていて、その徹底ぶりを見ていたからだ。
笠原さんが、アッシーくんを引き受けておられる岡田喜秋氏は、私が、遠藤周作氏の担当をしていた時に、知り合った。「旅」の編集をしてから、旅行作家として独立して、雑誌や単行本で沢山書いていた。私は、『遠藤周作文庫』という文庫版の全集の編集を手がけていたとき、その一巻に解説を書いていただいた。そのおりに?氈A2回お会いしただけだから、私のことなどは覚えていないであろう。最近も『西行法師』について分厚い本を出したという。今も、精力的に執筆活動をしておられると聞いて、ご同慶の至りである。多生の縁というやつかもしれない。
今日は、「芭蕉『おくのほそ道』トイマに一宿と歌枕」第二回目を開催した。前回は、芭蕉曾良が歩いた石巻から一関までの道をおおざっぱに解説したが、それを今日は詳説した。歌枕と枕詞の違いを質問されたりしたが、同じ枕が熟語の中にあっても全然違うのだ。仙台からワザワザお越こし下さった笠原弘邦さんは、東北の文字通り、みちのくを岡田喜秋氏と全部歩いたというのだ。笠原さんがアッシーくんをして、相当調べたそうだ。笠原さんの先祖は、岩切だというので、岩切の付近が奥の細道だといわれているが本当かと尋ねたら、東光寺付近のデイリーから岩切郵便局までの道だと教えてくれた。それと、そこから北にある勿来川近くに勿来の関があったのだともいう。確かに、勿来の関は、菊多の関のことだともいわれるが、はっきりしないといわれている。勿来川近くの惣の関がそれの可能性もあるのだ。ともかくよく調べていらっしゃるので大変参考になった。
昨日来た、植木屋に中庭との間のブロック塀を竹垣に作り替えるように頼んだ。子供の頃は竹垣だったのだが、祖母が年寄り、面倒になったので、ブロック塀に変えたのだ。竹垣は、クレオソートで洗えば、20~30年は持つらしい。祖父母が作った当時は、表の生け垣も竹垣だったのだが、小学校の給食室に出入りするトラックにぶつけてこわされて、知らんぷりされ、その元になっている化粧コンクリートもブロックに変えたのだ。竹垣造りは、来年になってからとりかかるがその前に、ブロックに寄りかかっている梅の老木に支えをしてくれるという。梅の老木は、木の皮一枚でまだ生きているし、その梅の実はほかの梅に比べても美味しい。花も美しい。この梅の老木が倒れないようにしてもらい、かつ、元のように竹垣にしてもらうと、大正時代に作り替えた江戸時代の邸も見栄えするであろう。ただ、ブロック塀を10間分壊してもらうのは大変な手間であろうから、その工事は若い土方にしてもらいたいということだ。
つい先日、同級生の野村くんのお父上が亡くなったばかりなのだが、また今度は、同級生そのものが亡くなり、焼香に同級生一同出かけるというお知らせんが来た。あす土曜日の19:00に農協前に集まるようにという事だ。親しくない同級生なので、その確認をしに照ちゃんや守んツアンと会っての帰りに、知り合いの家のお葬式に出会った。やはり、この町は、葬式ばかりが多い町であるという認識が深まった。祝儀袋はさっぱり出て行かないが、不祝儀袋だけが、毎週のように出て行く。まとめ買いしておかなくてはとても追いつかない。この町の家を継いだ若者もとなりの中田町に移り住んでいるというし、とよまの人口減少は、思ったより急速度なのかもしれない。町中に以前は見られなかった、売り地が出ているが、昨年から買い手がついていない。これから、この調子での人口減少にともなって空き家がどんどん出て売り地も増えるであろうが、病院廃院だし、学校も縮小であろうから、町にくる人はいなくなるであろうことは目に見えている。あすのお通夜も隣りの佐沼で執り行われるという。トヨマの空き家を葬儀場にすれば、当分のあいだ経営が成り立つのではないか。
仙台の各書店で『登米物語』がまた、売れだしたようだ。まだ、補充して間もないのにそれぞれの店で、半分くらいに在庫が減っているようだ。春になったので、旅行にでる人や行かない人が買っているのかもしれない。『登米物語』に続いて、出す本は、第一章をまた、昔話にして、残りを芭蕉関係にしようと思う。その勉強をかねて、「芭蕉『おくのほそ道』トイマに一宿と歌枕」という講演をするのだが、今日も、仙台の専門家を称する方から電話があり、先週の日曜日に仕事で参加できなかったが、来週と再来週の日曜日の講演は聞きたいと言って、電話で問い合わせて来た。今、芭蕉の事を執筆中で、すでに西行法師に関しては本を東京で出版しているという。教わる事が多いのではないかと話しておいた。
先週の日曜日にも出席するかのごとき電話が仙台の女性からあったが、おこしでなかった。今回もどうだか。ただ、卿問い合わせの笠原さんという方のは、かなり具体的なお話だったから、突っ込んだ討議が出来るかもしれない。
先週の日曜日にも出席するかのごとき電話が仙台の女性からあったが、おこしでなかった。今回もどうだか。ただ、卿問い合わせの笠原さんという方のは、かなり具体的なお話だったから、突っ込んだ討議が出来るかもしれない。
登米は今,梅に続いて桜が散り始め,我が家の庭と畑に水仙とチューリップが咲き乱れている。今年は,梅も桜も花が沢山ついていた。梅の実が沢山採れるかもしれない。今食べている梅干しは一昨年漬けたやつだ。同級生との家での呑み会で評判よくて,焼酎の梅割によく出る。漬け方というより梅が良いせいだと思う。昨年末ニンニクを植えたので,今年の夏はニンニクが沢山採れるであろう。毒餃子が出て始めて,中国産が嫌われ,青森産のニンニクも品薄になっていて、店にあるのは殆ど中国産ニンニクになっている。どうせ,その内また中国産を買うようになるであろう。中国産のを嫌うのも一過性だ。このところの首相を嫌って,また、小泉首相を望んでいると世論調査の結果が出ている。年金も医療も防衛も皆日本を悪くした首相をまた待望するのが日本国民なのだ。中国産もそのうちやはり好ましくなるのは間違いない。
平安末期の金葉和歌集をまた調べていたが,以前気づかなかった面白いのに出会った。最後に連歌が出ていて,東北弁を評しているのだ。泊めてもらっていた家の奥方がどうも東北弁か新潟弁らしくて、なまっているというのだ。東国で育てられた人の話し方はだみているというのが、拾遺集にもあり、誰がそれを言っているか分からないのもおかしい。しかし、「みちのくの訛りなつかし」いというように、大いに訛りを誇りたい。
(金葉和歌集巻十雑下)連歌
居たりける所の北の方に、声なまりたる人の物言ひけるを聞きて
永成法師 「東人の声こそ北にきこゆなれ」
権律師慶範 「陸奥によりこしにやあるらん」
(拾遺集・物名・読み人しらず)「東にてやしなはれたる人の子は舌だみてこそ物はいひけれ」
(金葉和歌集巻十雑下)連歌
居たりける所の北の方に、声なまりたる人の物言ひけるを聞きて
永成法師 「東人の声こそ北にきこゆなれ」
権律師慶範 「陸奥によりこしにやあるらん」
(拾遺集・物名・読み人しらず)「東にてやしなはれたる人の子は舌だみてこそ物はいひけれ」
昨日は、第一回の「芭蕉『おくのほそ道』トイマに一宿と歌枕」の講義をしたので、それまでの準備不足もあり、毎日かかりっきりだったため、やや、疲れ気味で、今日はほっとしたのか、気楽になった。本来なら、もっと早くから、準備して、登米市の広報にも載せてもらうとよかったのだが、何かに田舎政治に関わって、すっかり出遅れて、宣伝が行き届かなかった。そのせいで、参加者がすくなそうなので、元ちゃんと照ちゃん、秀夫ちゃんに来てさくらになってもらった。案の定、2名しか来てもらえなかったので、桜のお陰で助かった。河北新報も来なかったから、来週も少ないであろう。河北新報は、私が伊達さんの名前をなんども出してくれるように、頼んでいたのだが、別の問い合わせ先の幹事が掲載を断ったりして、不快感を与えたせいで、私の取材を見送ったのかもしれない。最初頼んだ時は取材にくると言っていたのだから、それ以外に考えられない。今は、また頼む元気は失せていて、少し休憩してから、だとその元気もでるかも知れない。
歌枕を調べていて、多いのは、末の松山と宮木のの萩、それに塩竈だ。この3つがしょっちゅう出て来て、かなり京都などの中央にまで知られていたことが分かる。
歌枕を調べていて、多いのは、末の松山と宮木のの萩、それに塩竈だ。この3つがしょっちゅう出て来て、かなり京都などの中央にまで知られていたことが分かる。