登米の武家屋敷は、『登米物語』に記したように、まだ相当数残っているが、殆どが、現住建造物だから、それを『登米物語』に載せることの掲載許可書と書き上げたた説明文をそのお宅に持参して、読んでもらい、ひと月ほどしてから再訪して、それで良いか、或は書き加えたいことがあれば、資料を貰ってさらに書き加えたものだ。いくつかの文章は、理由は云われなかったが、掲載を断られ、その結果空いたところには、『芳賀邸』の文章を膨らませて載せることになった。それまでは、芳賀邸を『登米物語』に載せる考えなどなかったのだが、折角修復成った家をどうするか考えていた矢先だったので、公開することの面倒を敢えて引き受けて、登米の町起こしのための観光本『登米物語』を出版する立場としても公開することに踏みきった。最終的に余白を放置するわけにはいかないから、自分の家のことを書いた。自分の家の資料はふんだんにあるから、いくらでも書けるが、あまり書くと、「自分の家のことについてばり詳すぐ書いで」という、そしりを免れないので、ほかの武家屋敷の説明の倍くらいにとどめた。登米の観光を振興して、登米の発展に寄与したいということで、「芳賀邸」を公開することにしたが、その公開中は、そこにいなければならないということであるから、インド旅行にしょっちゅう行っている身としては、その束縛は、かなり大きくなるであろう。現住建造物で『登米物語』に載っている他の武家屋敷は、公開しているわけではないから、建物の中を見られないが、「芳賀邸」は中に入れるから、甚だ不用心でもあり、公開することに逡巡はした。そこで、年間で、公開する日を、ゴールデンウィーク中と、秋祭りの2日間の二つの期間に限定することにして、急遽作ったパンフレットにもそのようにうたった。従って、その公開中は、『芳賀邸』に張り付けられ、これからはインドには行けないことになってしまった。
『登米物語』の編集が終わり、やっと印刷所の平河工業社に渡して、ほっとしている。おそらく今週末には刷りだし、見本が出るであろう。
「第1章」とよまの昔話、「第2章」登米の歴史、「第3章」登米の観光、の3章立てにした。読者が取り付きやすいようにと思ってのことである。また、そのため絵と写真をふんだんに入れた。写真や絵は、気に入らないと、なんども撮り直し、描き直しをしたものだ。
「第1章」とよまの昔話
登米に伝わるキツネやタヌキと登米の人々が交歓する昔話の中から、ほのぼのとした温かいながらもおそろしい5話を選び、それに大澤和泉さんの絵を添えて、各話にわたしの創作部分も少し加え、標準語と、登米弁を交えて、分かりやすい文章で日本中の人に読んでもらえるように工夫した。
「第2章」登米の歴史
「とよま」という読みの由来から書き起こし、明治維新の混乱期まで、あたれる資料を手当り次第に見たので、これだけで1年かかってしまった。中央政府の政治史は沢山書かれているが、登米のような一地方の歴史が書き残されているのは、登米伊達以降のことだ。
「第3章」登米の観光
町起こしの基幹部分であり、大半は、『登米町誌』を参考にした。これも、前後の記述が違っていたりしたため、その整合性を調べるのに手間取った。特に和風と洋風の建築の専門用語が多いので『登米町誌』の著者たちの苦労のほどが伺われた。登米市に属する建物の観光案内の説明は出来たが、登米にはいまだに相当数の武家屋敷が残っているにもかかわらず、自分の家については書いてくれるなという人が多く、掲載許可書を提出して許可されたものだけを本書では扱っている。現に居住しているのだから、見物のため家の内外をうろうろされては困るのだ。丁度修復が竣工した我が古屋を観光に提供することを思いつき、自宅故、それについての説明が結果的に詳しくなった嫌いがある。
「第1章」とよまの昔話、「第2章」登米の歴史、「第3章」登米の観光、の3章立てにした。読者が取り付きやすいようにと思ってのことである。また、そのため絵と写真をふんだんに入れた。写真や絵は、気に入らないと、なんども撮り直し、描き直しをしたものだ。
「第1章」とよまの昔話
登米に伝わるキツネやタヌキと登米の人々が交歓する昔話の中から、ほのぼのとした温かいながらもおそろしい5話を選び、それに大澤和泉さんの絵を添えて、各話にわたしの創作部分も少し加え、標準語と、登米弁を交えて、分かりやすい文章で日本中の人に読んでもらえるように工夫した。
「第2章」登米の歴史
「とよま」という読みの由来から書き起こし、明治維新の混乱期まで、あたれる資料を手当り次第に見たので、これだけで1年かかってしまった。中央政府の政治史は沢山書かれているが、登米のような一地方の歴史が書き残されているのは、登米伊達以降のことだ。
「第3章」登米の観光
町起こしの基幹部分であり、大半は、『登米町誌』を参考にした。これも、前後の記述が違っていたりしたため、その整合性を調べるのに手間取った。特に和風と洋風の建築の専門用語が多いので『登米町誌』の著者たちの苦労のほどが伺われた。登米市に属する建物の観光案内の説明は出来たが、登米にはいまだに相当数の武家屋敷が残っているにもかかわらず、自分の家については書いてくれるなという人が多く、掲載許可書を提出して許可されたものだけを本書では扱っている。現に居住しているのだから、見物のため家の内外をうろうろされては困るのだ。丁度修復が竣工した我が古屋を観光に提供することを思いつき、自宅故、それについての説明が結果的に詳しくなった嫌いがある。
「芳賀邸」と『登米物語』のお披露目式は、「遠山の里」という町の物産館で開催することになった。このような私的な催しものは、軽い飲み物もだして、公共の場で開き、小中学校の同級生に手伝ってもらうのが、この町のしきたりなのだ、と中澤弘前町長の助言である。
わたしとしては、伊達宗弘君に来賓挨拶をしてもらい、彼の存在を登米町だけではなく、登米市全体に知らしめる事でもあった。
町起こしを始めると、個人的な思いだけではなく、行政をも絡んでくるので、宮城県立名誉図書館長で、宮城県の幹部に顔が利く彼を登米の顔にして、登米の観光を振興しようと思ったのだ。
その意味では、我が家『芳賀邸』だけでのお披露目式であるよりは、公共性を帯びたお披露目式になり、わたしの意図と合致するが、一層金のかかることになりかねない。乗りかかった船だから、もう、とことんやるしかないと思っている。
問題は、登米の人達が、町起こしにまるで興味を示さないばかりでなく、「なーに、登米の人口が減って、他の町が発展しても構わねえごった。若い人は便利なほがの町さ引っ越していげばいいごった」という意見である事だ。
これでは、わたしが労金をつぎ込んでもマッタク無駄なことになるが、わたしとして出来る事はするだけして、行政面の方向付けもするということでしかない。
これまで、町から遠ざかっていて、ちょこっと帰って来て「町起こし」と言っても、訴える力がない事は確かにない。「今まで考えられるだけのいろんな事をしても何の効果もなかった」と言うのだ。「今頃何語ってんのだ?」というわけだ。
わたしの勝手な思いつきだから、町の人々にとってはご迷惑かもしれない。
とは、いっても、もうすでに船は碇を上げて大海に向かって進んでいる。
マスコミにもその宣伝を頼んで歩いている。どれだけの報道がなされるかによって、成否が決まるのだ。
その前哨戦が、大澤和泉さんの共同通信に連載した『おしゃれモダン』であり、その中の『レトロな町・登米』だ。
わたしとしては『登米物語』の文章には、英語訳も入れてあるから、韓国、中国を始めとする海外からの観光客の来町にも大きな期待を寄せている。
本来なら、韓国語、中国語訳も入れれば良いのだが、そこまでは出来なかったから、英語で代用した。
そう言えば、台湾大学の日本語科から、先般ハガエンタープライズで発行した『竹取物語』の中国語訳をしたいというお話が来ている。許可はしたが、それをどんな形で出版するのかまだ分からないから、そのうち台湾に行かねばならぬであろう。
わたしとしては、伊達宗弘君に来賓挨拶をしてもらい、彼の存在を登米町だけではなく、登米市全体に知らしめる事でもあった。
町起こしを始めると、個人的な思いだけではなく、行政をも絡んでくるので、宮城県立名誉図書館長で、宮城県の幹部に顔が利く彼を登米の顔にして、登米の観光を振興しようと思ったのだ。
その意味では、我が家『芳賀邸』だけでのお披露目式であるよりは、公共性を帯びたお披露目式になり、わたしの意図と合致するが、一層金のかかることになりかねない。乗りかかった船だから、もう、とことんやるしかないと思っている。
問題は、登米の人達が、町起こしにまるで興味を示さないばかりでなく、「なーに、登米の人口が減って、他の町が発展しても構わねえごった。若い人は便利なほがの町さ引っ越していげばいいごった」という意見である事だ。
これでは、わたしが労金をつぎ込んでもマッタク無駄なことになるが、わたしとして出来る事はするだけして、行政面の方向付けもするということでしかない。
これまで、町から遠ざかっていて、ちょこっと帰って来て「町起こし」と言っても、訴える力がない事は確かにない。「今まで考えられるだけのいろんな事をしても何の効果もなかった」と言うのだ。「今頃何語ってんのだ?」というわけだ。
わたしの勝手な思いつきだから、町の人々にとってはご迷惑かもしれない。
とは、いっても、もうすでに船は碇を上げて大海に向かって進んでいる。
マスコミにもその宣伝を頼んで歩いている。どれだけの報道がなされるかによって、成否が決まるのだ。
その前哨戦が、大澤和泉さんの共同通信に連載した『おしゃれモダン』であり、その中の『レトロな町・登米』だ。
わたしとしては『登米物語』の文章には、英語訳も入れてあるから、韓国、中国を始めとする海外からの観光客の来町にも大きな期待を寄せている。
本来なら、韓国語、中国語訳も入れれば良いのだが、そこまでは出来なかったから、英語で代用した。
そう言えば、台湾大学の日本語科から、先般ハガエンタープライズで発行した『竹取物語』の中国語訳をしたいというお話が来ている。許可はしたが、それをどんな形で出版するのかまだ分からないから、そのうち台湾に行かねばならぬであろう。
芳賀エンタープライズのホームページが2005年に開設されて、3月10日で丁度2年になる。閲覧数が25,145打になった。この間インド旅行に行く事が少し減ったが、文化的な活動が増えた。ホームページを作ったきっかけが、『竹取物語』の出版であった。今、故郷の町起こし本『登米物語』を制作中で、間もなく出来上がるが、印刷所との打ち合わせで、前回と同じ轍を踏んでしまい、インデザインの機能に合わせ直したり、印刷所にない活字を打ち直したり、という段階だ。来月のお披露目式には、結構ギリギリで間に合いそうだ。たかだかB6版96ページの小冊子と云えるものだが、手間ひまは相当かかった。続日本紀、日本後記、吾妻鏡などの原書から、「日本の歴史」に至る歴史書を読んだから、それらの参考図書を『登米物語』で紹介しようと思ったが、それを書き留めていたメモやら、文書やらがでて来ない。大澤和泉さんの絵も入るが、レイアウト、地図作製といった、画像・装丁関係は皆おまかせした。小冊子の割に内容の濃い本になる。これを片手に町を歩き回ってもらうと役立つ本である。この内容は、登米だけではなく、蝦夷の時代からの東北全体に及ぶ事を記している。安倍現首相もルーツが東北である事はいろいろ書き進んでいるうちに分かった。田舎の物産館を中心に売る予定だが、年間20万人の観光客が訪れると言ってもこの本を買う人はその3%程度いればいいほうで、物産館の売り上げ方を見ている限り、そこまでもいかないかもしれない。幸い、友人で、この本に広告を出してくれた人がいる。岩手県を中心とするコカコーラの会社みちのくコカコーラの社長、谷村邦久氏の口添えで仙台コカコーラ、亀戸でちゃんこ相撲料理の栃東を経営する店主早川勤助氏、千葉県と東京で電気工事をする会社、江伸電設を経営する江田佳弘氏である。それに、登米では、登米三業組合と芳賀邸の復旧工事をした工藤建設も広告掲載に応じてくれた。おかげで定価500円という安さで売れる。
四月二十八日(土)11:00開催の芳賀邸、『登米物語』お披露目式に参加するためわたしの田舎に行くという人達が次第に増えて、私の家だけでは収容しきれなくなっている。小学校同級の江田佳弘君が車を出してくれ、同じくヨーガに来ている斎藤英武君が運転して、かつ登米の別荘を宿に提供してくれるという。私は準備があるから、ふた足も早く行っているが、彼らは、27日に来て、28日は、温泉に泊まりたいと言う。鳴子温泉郷の川渡温泉の従兄弟の藤島旅館を予約した。十数名だから、なんだか、インド旅行みたいなことになった。ほとんどが、インド旅行に一緒に行った人達だ。このごろは、あまり疲れるインド旅行は、しないことにした。今回コナーラクに一緒に行った高柳正幸氏とは、かなり前のこと(20年以上前か)になるが、デリーのニザームッディーン駅からインド最南端に近いトリバンドラムまで車中2泊の旅をしたなあと、今回の旅行中には回顧談になった。今は、そのような長旅はもう体力的に出来ないのではないだろうか。その代わりというわけでもないが、国内の旅行は、やはり、楽であるからか、募集したわけでもないのにいつの間にか、大勢で観光地・登米の国内旅行に来てくれることになった。元々が、登米の町おこしのために始めた『登米物語』制作に加えて折角修復した芳賀邸だからこれを公開して見せようかということになってのお披露目式で、大勢の人が登米に来てくれれば、幸先のいい出だしとも云える。今回、登米を訪れるのは、殆どインドへ同行した人達だから、泊められるだけ芳賀邸にお泊めするが、本来の目的は、登米の古い旅館に泊まってもらい、登米を少しでも経済的に潤わせるということである。そもそもが、私自身この黄金週間は登米に詰めていられるが、年中いられるわけではなく、芳賀邸開館は、全く恣意的に1年のうちわずかに二回くらいしか出来ない。母の介護もあるから登米に毎月帰っているが、母が老人ホームに入るようになったら、また、あまり帰らなくなるかも知れない。今のところ、老人ホームに入れるようにケアマネージャーに云われながら、空きがないからやむを得ず私の留守の間は病院に入院させている。母は昨年卒寿で百までいきると頑張っているから、その意気や良しというところだ。田舎の公立病院は老人病院の態を来している。どの病室もチューブを鼻につけた年寄りばかりだ。過疎と老人の町をなんとかしなくては、と観光資源を生かして町おこしに寄与したいと考えてやってみることにしたことだ。お披露目式当日は多くのマスコミに来てもらうように今から宣伝をして、その効果が出れば私の役割は終わりだ。後は、町の人達の受け入れの問題であるが、今まで、私の意図をちゃんと受け止めた人は実に少なくて心もとはない。それでも先鞭だけは付けようと思っている。