芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

補講に一人の学生も来ず

2012年09月30日 | Weblog
初級日本語certificate course of Japanese language の月火の授業時間が15分ずつ足りないので、1ヵ月2時間分を補講するため、学生たちの希望で指定された昨土曜日の11時に教室で待ったが、誰も来なかった。
外部の40キロ遠方からバスで通学して来ている学生は、仕事でムンバイに行くから出席できないとあらかじめ報告があった。
しかし、この大学の学生も外部のナーグプル大学ワルダ分校の学生も、自分たちで日時を決めておいて、無断で誰も来ないのは、なぜか。大学職員もどうしようもないのに、学生もこれでは、こちらもそれにあわせるしかない。1時間ほど待って、宿舎に帰った。
一応、警備に誰か遅れて来たら、宿舎に来るように話しておいたら、日本語を申し込んだのに語学技術に受け付けられていたが、日本語授業を受けたいという、おばさんが、1時から3時までと聞いたと言って、1時半頃来た。日本語授業を申し込んで、なぜ日本語の一字もない語学技術の授業料を払ったのか分からないし、授業を受けているわずか、数人の学生からなのか、時間を聞いたというのが、2時間も違った上、それにも遅刻して来ている。しかし、オートリキシャで来ているというのだから、金をかけている訳で、意欲は認めるが、頭がおかしいのではないか。授業時間は、翻訳の仕事を9時から5時半迄役所でしているから、月火の6時からしか来れないともいう。学生課で、授業時間を聞いたのかと聞いても、はっきりしない。もう一度、学生課に日本語科に変更するように掛け合ってみてはどうかと話した。仮に、変更できても、授業に出られないではないか。
熱心な、40キロ先から来ている学生に合わせて、彼の帰りのバスのために6時で切り上げているとも話した。この熱心な学生は、パーティルと云い、五十音の「あいうえおかきくけこ」を書けるが、この大学の学生たちに当てて書かせ、書けなかったので次回迄に練習してくるように話したところ、その次回を欠席した。

山肴会の登山仲間の近況を知る

2012年09月29日 | Weblog
昨日、食堂でくだんの日本語学生に遇ったが、挨拶されたあと、いつもなら、私のそばに座るのが、席が空いているのに離れたところに座った。
口数ばかり多い学生兼助教授で、座られても鬱陶しいから、離れてくれて、良かった。
このインドでも、季節の変わり目で、9月のお彼岸頃に強い雨が降ったが、その後、小雨程度になり、暑い毎日である。いよいよ、雨期が明けたのかもしれない。
外語ボート部の卒業生で作る「山肴会」という登山仲間が、その一人、斎藤攻兄の知り合いが八ヶ岳山荘を経営している関係で、その鉱泉に泊まって八ヶ岳を縦走したらしいが、1日8時間という歩行が2日続いたため、相当の太もも筋肉痛になったらしい。
私自身は、インド在住で参加できなかったが、私の体力の限界を超えているから、参加できなくてよかった。私自身の1日の歩行限度は、5時間である。それを超えると、今の年齢、体力から推して、大変であったであろうと、容易に推測できる。
どうも、この大学での対応が待遇、教授方法など、全てにわたって私の思いと異なる上に改善の見込みがないので、来年には、離職することになるであろうから、その時の日本での登山仲間との話し合いには、もっときつくない登山を申し込まなければならないであろう。
日本を出た時の登山能力より、さらに劣っているであろうし、まずは、足慣らしから始めなければならないであろう。八ヶ岳は、ずいぶん前に、茅野のほうから登って、鉱泉に泊まり、赤岳などを縦走して雄大な景色を眺めた記憶がある。深田久弥の百名山の六十いくつは登っているが、北と南アルプスには登っていないから、そこを少しずつ登れたら良いのではないかと思っている。
今回の風邪は治りかかっているが、無理はしないが原則になりそうだ。

くだんの男子学生が昨日の授業を台無しに、今日は欠席

2012年09月27日 | Weblog
昨日の日本語授業で、くだんの男子学生が、私の説明を気に入らないことが分かったから、これからは、全部日本語で説明すると宣言し、『登米物語』の中の「イタチ沢のキツネ」と「専称寺むかしむかし」を朗読して聞かせた。学生は3人いたが、男子学生はもちろんのこと、女子学生達もどこを読んでいるかも分からない、チンプンカンプンの情況で、その男子学生が、自分のせいで、他の学生たちに迷惑かけたくない、自分の言い方は、同級生同士では普通で、年寄りにだけは失礼に当たるから謝ったと、ほぼ1時間しゃべりまくったので、授業は事実上出来なかった。
私は、男子学生に君は謝ったけれど、人の部屋に来て、まるで自分の部屋に私を請じ入れて座らせるようにして、話し、文化の違いによる誤解だと言ったではないか。君は「イタチ沢」が場所だという説明を一度でもしたかと私に迫ったが、そんなのは、次の文の冒頭で説明されていて、それを聞いても、失礼しましたでもなかった。そもそもが、題というのは、そのお話を全部読んで初めて、その題の意味するところを理解できるのだ。話すことより、実行することが大事なのだ、君は口数が多すぎる。と言って、授業を締めくくった。
今日になって、くだんの男子学生は、欠席したので、授業は快調に進んだ。しかし、女子学生達も相変わらず、ひらがなが読めない。昨日、図書館で、物語の中の1行で良いから、和英辞書で訳してこいというのも、してこなかった。ひらがなが読めないのだから、出来なくて当然かもしれない。

インドと日本の助教授任命の仕方

2012年09月26日 | Weblog
ここでは、というより、インドでは、公立大学は、というか、大学はと言って良いのかもしれないが、修士課程を終えていれば、助教授募集の試験を受けられ、試験に受かれば、まだ、大学院の学生でも助教授に任命される。逆に言えば、助教授になるには、最低、修士課程を終えていなければならないことになる。
私の日本語授業を受けているヒンディー語技術博士課程の男子学生は、試験を受ける前から、自分は面接だけで受かると自信を持っていたので、どうしてなのかと、ふしぎに思っていたが、恐らく、アウトカースト枠で受かることが最初から分かっていたのであろう。
日本の大学の仕組みを知らないが、学生からいきなり、助教授任命がありうるのかどうか。少なくても人物を見てからでないと、難しいのではないか。
私自身は、大学院に残って、そのまま、研究室に残るつもりでいたが、当時、大学紛争というのがあり、外語大も、学部、大学院とも封鎖され、それに伴って、私は、はじき出される形で、インドのカルカッタの博物館にアルバイトを紹介されて来た。結局、大学には、私と同期の学生が残り、私は、彼が落ちたマスコミの試験に受かり、そこに勤めることになった。狭い、研究室だから、助教授に気に入られていても、教授に嫌われて残れなかったことが、後日と言っても数年前に分かった。

私に暴言を吐いた日本語学生兼助教授と再会

2012年09月25日 | Weblog
数日前、昼食時に、食堂で、私に暴言を吐いた学生でかつなりたてほやほや助教授に遭った時、彼に、一昨日、私に失礼な言い方をしたが、謝らないのか、と聞いたら、なんのこと?と言う。
教科書の「イタチ沢のキツネ」という題の説明を聞かれるままに説明して、分かったか聞くと、まるで分からないと言うから、イタチ沢という場所のキツネだと言うと、「場所という説明は、一度でもしたか?一度もしなかったではないか」と色めき立つので、次の文の冒頭で「イタチ沢というところに」という意味をヒンディー語で説明したのだ。
冒頭の文章を読みもせず、というより、読めもしない力で、よくもそんな口がきけると思うが、次に進もうとしている人の話しをちゃんと聞いていれば、失礼なことを云わないで済んだものを、謝るかと思ったが謝らなかった。
男子学生は、黙って食堂から逃げるようにして出て行った。そばで、話しを聞いたスペイン語教師が、後で彼に言っておくと言ったので、言っても分からないであろうから、言わなくていいと言っておいた。
しかし、夕ご飯の支度中に我が部屋に来て、いきなり椅子に向かって行って座り、私を招いて、座りなさいと言う。人の部屋に、「入っても良いか」とも聞かずに、自分が先に椅子に座ってから、部屋の主に座れと言い、それから謝るということが、おかしいとも思わないのだから、直しようがない。一体どういう育ちなのだろう。ここは、アウトカーストの巣のようなところだから、それなのではあるまいか。
しかも、謝っておいてから、文化の違いであるなどと、尤もふうな理屈を並べ立てたので、日本とインドの文化の違いも知らないくせにと思い、彼我の言葉の違いについて詳しく説明してから、「来たのだけは良かった」と言って、送り出した。別れ際に、「自分は、年寄りを大事にしているし、まだ子供だ」というので、「もう、助教授にもなっているのだから、いつまでも子供ではない」と言ってやった。外で、スペイン語教師が待っているようだった。
日本人女子学生が私と学長の間に写っている写真は、ヒンディー語新聞「Lokmat Samachar」(公論ニュース)にも載ったので、それも載せてみる。

弘前大学から学生達が来た時の新聞記事

2012年09月24日 | Weblog
先月、弘前大学から学生達が来た時の、学長と一緒に撮った写真が、Times of India に載ったと教えられたので、その写真入り切り抜きをスキャンしてくれるように、広報課長ミルゲー氏に頼んでいたが、今日やっとそれを貰った。私についても記されているかと思ったら、まるでなく、写真が載っているだけであるが、一応載せてみる。
私と学長の間にいる女子大生が、留学生で、右にその教師と別の学生がいる。

斑猫また部屋に入り込む

2012年09月22日 | Weblog
昨日、早朝4時半頃目覚めた。
こんなに早く目覚めるのは、古希を過ぎている歳のせいかもしれないなどと仰向けのまま考えていると、居間のほうで、何かを引き裂くような音がする。
そっと、居間に行って、カーテンの隙間から覗くと、1メートル半ほどの高さの冷蔵庫にぶら下がって先日の斑猫が食べ残した食べ物をゴミ袋から漁ろうとしている。
カーテンから踊り出た私に気づいた猫は、前と同じ、入って来た窓に向って逃げたが、その窓には、網戸がはめてあり、それを破って入って来たため、狭いので、逃げ切れず、網戸とカーテンの間を天井近く迄登って行った。
近くにあった箒の柄でカーテンの上から叩くと、床に落ちたので、もう一度叩いた。すると反対側の窓に向って走り、やはりカーテンと網戸の間を上に登ったので、また、これをカーテン越しに叩いて、落とし、下に落ちたのを叩いた。箒の柄だから、さっぱり、叩いた効果がなく、部屋の椅子の下を逃げ回る。ついには、寝室に迄逃げ込み、寝室の窓のカーテンと一緒に落ちて来た。そこをまた叩くと、また、居間の窓に戻り、カーテン越しにそれを叩いているうちに、カーテンがレールごと落ちて来た。
夢中になっているから気づかなかったが、あとで、そのレールが鼻に落ちて、血が出ていることが分かった。
部屋の戸を開けてやってもそこからは出て行かず、猫は結局、破って入って来た狭い網戸の穴から出て行った。
網戸は、今年6月に戻って来た時に入れられてあった。網はテープで貼付付けるように出来ているので、それをベリベリと剥がして、窓を開閉しなければならない。昨夜は、網をはがして窓に錠をかったのだが、網のために十分に鍵を差し込めず、しかし窓自体は、きついので、それを開けることは出来ないだろうと思ったが、この斑猫は、窓を引き開けた上に、網を破って入って来たのだ。
班目を始めとする原発村の住人達も、この猫が鶏肉に執着するように、「同じ穴の狢」で、狭い窓の穴から出入りしているようだ。
今度政府によって任命された原発を監視する機関の長は、原子力村の田中という人物である。彼を国会で指名しないようにavaazの運動が起こされている。わたしもavaazの呼びかけに応じて、署名した。
鼻の上に絆創膏を貼って食堂に行ったので、会う人ごとにどうしたかと聞かれ、斑猫との格闘、その後、斑猫がひり残して行った小便と大便の悪臭で、係に2度掃除をしてもらっても部屋にいられないことを話した。

指導者を失った日本

2012年09月21日 | Weblog
関東軍による柳条湖事件に続く、謀略事件は、昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件である。この謀略事件を引き起こした当時の幹部は
支那駐屯軍司令部(天津):司令官 田代皖一郎中将
支那駐屯歩兵旅団(北平):旅団長 河辺正三少将
支那駐屯歩兵第1連隊(北平):連隊長牟田口廉也大佐 
であった。
この幹部のうち2名の、河辺正三がビルマ方面軍司令官、牟田口廉也がインパール作戦の司令官になった。無責任な謀略が露見しているのに、インパール作戦の幹部になり、数万の日本兵と、数千のインド国民兵を飢えとマラーリヤ、赤痢で死んで行くのを見殺しにして、自らは、退却命令も出さず、先に安全地帯に撤退している。多くの敗残兵は、先に死んだ兵の死肉を食べながらも逃げ延び切れず、日本兵の死体が街道を埋め尽くしたため、英国軍は、伝染病を恐れて、死体に油をかけて燃やしたと記録されている。その白骨死体を標識にして逃げ延びたものもいるようだ。遠藤周作『深い河』の人物の一人がそれだ。そのため、日本にとってはありがたくない呼称の「白骨街道と」呼ばれている。無責任な指導者を頂くと不幸を呼ぶ典型的な例である。8万強の兵士のうち傷病にかかりながらも、まがりなりに潰走できたのは、1万と言うが、無責任は、この上の参謀本部も同じで、責任を取らないために、問い質すことも調査もしなかったから、実際の数字がまるで分からない。未だに成仏できない数万の魂が、インパールからラングーンの白骨街道を浮遊していることになる。

満州国独立から80年

2012年09月20日 | Weblog
満州事変の発端となった柳条湖事件から81年を経た一昨18日、中国全土の125都市以上で反日デモが行われたという。デモとは名ばかりで、日本の商店企業に対する略奪と破壊だと思うのだが、日本のマスコミは、デモと表現している。こんなところに、日本の対中及び腰が目立つ。このような態度を取らざるを得ない政府マスコミにしたのは、そもそもが、明治維新によって西欧化=帝国主義化を選んだ明治維新政府が、欧米列強と競って中国を植民地にしようと、派遣した軍隊が天皇の統帥権を笠に着て、統帥権を勝手に解釈、自己増殖し、関東軍の謀略によって、柳条湖事件をでっち上げて、翌1932年、満州国を中国から独立させ植民地にした。
この一連の謀略に対して、日本のマスコミは、正確な報道をせず、大衆に迎合、煽動した結果が、米軍によって広島長崎に原爆を落とされ、沖縄戦で、多数の民間人を道連れにして殲滅されて、大日本帝国の無条件降伏とあいなった。
当時の新聞を読む機会があった私は、大本営の常勝の発表を垂れ流し続け、敗戦を迎えた時、米国に教え込まれた民主主義をそのごずっと一つ覚えのように世界をそれで統一するのが良いように報じ続けている。
私からすれば、民主主義の内訳をもっと報道すべきと思うのだが。そして、中国の歴史の底流をもっと報道すべきとも思う。
日本が中国を侵略したのは事実だが、鎌倉時代に元寇が、日本の侵略に失敗したことをもっと中国に対して報道すべきであろう。やたら、軍事力に頼る政権を頂くと、国民が迷惑を被る。お互い様である。


インドにもきちんとした人がいることに驚く

2012年09月19日 | Weblog
明日は、ガネーシュ祭で、大学が休みだと言うが、大学のカレンダーには、休日を表す印がない。授業は休みということになり、学バスもないので、今日のうちに野菜などを買っておかなければならないから、授業が終ると出かけた。
今日は、ナーグプル大学ワルダ分校の学生が来なかったので、授業を早く終らせることが出来た。その一人が、3歳の子連れで授業の終わりに出席して、大学の授業の都合で他の学生が来れないのだと教えてくれた。
先日、外科の医者にかかった時のレントゲンや、石膏代が、700ルピーになったので、正規雇用なら、大学がその費用を出してくれるかもしれないといわれ、その証明書を書いてくれるように、ガーンディー外科病院に用紙を先週おいてきた。今週の月火頃に取りにくるからそれ迄に書いてくれるよう、受付に頼んでおいたが、まだ出来ていないのではないかと疑いながらも、学バスを降りてから15分歩く病院に行ったら、ちゃんと出来ていた。このところ、マハートマーガーンディーヒンディー語大学で、何をしてもすぐに出来ないのに慣れていた身には、驚愕と言って良かった。
医者だからということなのか、インドにもこういうきちんとした人がいることが分かった。