芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

やっといい天気になる

2010年04月30日 | Weblog
今日は、少し雨がぱらついたが、温かで、時々晴の天気であった。そこで朝は、ジャガイモの種芋を植え、朝食後は先日買った無花果の苗木を植えた。
午前中に佐藤元大工さんがほうれん草を畑から直接持って来てくれた。沢山獲れたので、一部を配っているのだそうだ。
昼食後、退院した母を施設に見舞いに行こうと思って出かけたら、登米総合支所の河内生活課長とたまたま遇った。
国交省から、艇庫用地を確保する件で芳賀さんにいじめられていると言って、相談に来たそうだ。私は、いじめてなんかいないのであって、前例がないから、できないというのに対して、新例を作れるように一緒にやっていきましょうと言っているにすぎないと説明した。
国交省北上川下流河川事務所の占用調整課長は、本覚寺駐車場にまだ拘っているようで、その話をしたようだが、それも、檀家が100人以上いて、中には亡くなったり、行方不明の人もいるから、許可など貰えないのだと、また説明した。以前にもそこに隣接する土地の持ち主と裁判になって、結局その人が立ち退いたという経緯があったのだ。数分の話ししかできなかった。
夕方、佐藤元大工さんがきたので、帰りに郵便局まで車に乗せてもらい、北上川の堤防に上がると、増水していて、水辺プラザの船着き場が冠水して見えなかった。そこに本覚寺の若和尚が散歩で通りかかって、私が3年前から勧めていた写経をやっと始めたから、案内を今度持ってくると言う。その時に、艇庫用地の話題に出ているという話しもしようと思う。

昨日に続いて、南方1000本桜を見る

2010年04月29日 | Weblog
午前中、佐藤元大工さんが来て、花見に行かないかというので、午後から行くことにして、13時過ぎに車で迎えに来てもらった。
昨日は、長谷川俊雄くんの車の乗せられ、平筒沼と加護坊山の桜を見た。どちらも1000本くらいの桜だ。
今日のは、南方の桜でやはり、1000本桜だそうだ。南方の高石のあたりから米山に向かって土手に咲いていた。生憎の雨で車の外には出なかったが、走り始めに佐藤元大工さんが距離計を0にして往復したら、12、2キロメートルあった。6キロ以上にわたる土手に咲いていて、所々桜のトンネルになっている。これは見事であった。
続いて、瀬峰駅の近くの五輪山公園に連れて行かれた。鎌倉時代以来、葛西氏と大崎氏の境界に当たり、藤沢館から直線距離で700メートルのところにある小野寺氏の館があったところだと説明板があった。
そこから北方のほうに行き、宮城県長沼漕艇場に寄ってくれた。一昨年来て、外語ボート関係者と漕いだ時は、ナックルフォアが雨ざらしになっていたが、今回は見当たらなかった。
チューリップやシバザクラが桜に混じって咲いていた。そこから登米に帰る途中で、岡谷地、大谷地の土手の桜並木を見せてもらった。昨日、今日と眼福であった。

平筒沼と加護坊山の花見そして吉野作造記念館

2010年04月28日 | Weblog
朝食後直ぐ、先ずは、平筒沼に向かった。高台の資料館から平筒沼とその岸伝いに咲く桜を眺め、資料館の中に展示されている20点ほどの窯神を見た。前回照るちゃんに連れられて来た時は、この窯神が素晴らしいと思ったので、今回は、長谷川俊雄くんに見せたかった。なまはげみたいだという感想であった。
平筒沼の岸伝いに車から桜を見て、田尻の加護坊山に向かった。何回か聞きながら登り口を探したが、一回は、車を丁度止めていた若者に聞いたら、首を傾げながら、戻って行くと、登り口の標識があるからそこを右に曲がるように言われた。しかし、それは変だと気付いたので、民家に入って聞くと若者に聞いた時の道をそのまま行けば良かったことが分かった。インドで聞くと良く反対方向の道を教えられたりしたことを思い出した。どうも日本の若者もインド的になって来たのだろうか。雨の中、やっと頂上に行けたが、まだ蕾であった。売店でせりとコゴミを売っていたので、買った。この売店のあるレストランからの眺めが良かった。
古川の吉野作造記念館には、11時過ぎに着いた。吉野作造は仙台一高の前身、宮城県尋常中学校の最初期の卒業生である。旧制二校、東大政治学科も主席で卒業している人だと分かった。後藤新平宛書簡や島田三郎に序文をつけてもらって表装した小山東助の遺墨書簡に興味を持てた。というのは、私の祖父、明に宛てた後藤新平と島田三郎の書が額装されて我が家に残っているからだ。

長谷川くんとたらの芽採りに

2010年04月27日 | Weblog
午前中、長谷川俊雄くんと裏山にたらの芽を採りに行った。思っていたところになくて、ここならと思うところも、刈り払われていて、かなり苦労したが、十個ほど獲れたので、長谷川俊雄くんのお土産に持って行ってもらうことにした。
前回、来た時に椎茸のホダ木を2本上げたが、今回もう1本上げた。今日帰るというのをとどめ明日は雨のようだが、途中桜を見ながら、古川の吉野作造記念館に行くといことになった。
午後は、雨の予報であったから出かけなかったが、雨は降らなかった。
結局午後一杯、政治談義をしていた。民主党政権から米国政権まで、時にオランダ政権について、また、長谷川俊雄君が赴任していたエジプト政権にまで、話しは及んだ。
昨夜遅かったので、夕方にちょっと眠くなったが、それでも話し続けた。彼は良く読んでいて、創価学会の司法警察とマスコミに入り込んでいることを知っていた。
昔わたしが住んでいた近くの風呂屋の主人から貰った創価学会の折伏集というのを彼に求められてくれたというのを彼は覚えていたが、私は興味なかったせいかすっかり忘れていた。その内容が、キリスト教の都市、長崎市にキリスト教の米国が原爆を落としたのは、キリスト教に問題があるからだというような下らない言い方だったので、大した宗教とも言えない団体と当時思ったと言う。

午前中は照るちゃん、午後は長谷川くんの車に乗せられる

2010年04月26日 | Weblog
午前中、照るちゃんが来て、また、タラの芽を採りに連れて行ってくれた。先日より少し芽が開いていたが、既に誰かに採られているものが結構、多かった。照るちゃんが連れて行ってくれるのは、八幡山の裏山で、内山と言っている。途中で、タラの芽を採りに来ている人と車ですれ違った。
採ったたらの芽は午後から来る仙台の長谷川俊雄くんに食べてもらうつもりだったが、予定より一時間以上遅れて着いて、そのまま、佐沼に行って喫茶店に入ったり、首壇を見たりして、その足で石巻に行ったりしたら、夜遅くなったので、石巻で寿司を食うことになり、たらの芽はお預けになった。
首壇は、豊臣秀吉によって滅ぼされた葛西氏と大崎氏の残党が佐沼の城によって伊達政宗に皆殺しにされたと言われる人達の首をうめたところだと言う。わたしの書いた『登米物語』では、「首塚」と記している。葛西氏の最後の殿様、葛西晴信は、秀吉の命令に従って越前のほうに客分として幽閉された。葛西の城はトヨマにあったが、その家来たちの一部がそこから佐沼に移動して、そこに籠城して最後には皆殺しにあったらしい。見せしめであろう。
葛西については、その墓が菩提寺の龍源寺になかったが、昭和13年になってから初めて龍源寺にその供養塔が造られた。遠慮して作らなかったようである。伊達政宗は、トヨマから下流の北上川の沿岸にある飯野川に、葛西晴信の弟に領地を与えている。その後も葛西の残党の抵抗が続いたからであろう。しかし、トヨマ伊達は、葛西の残党をかなり召し抱えたようである。
戦争で勝利したあとの戦後処理が成功したのは、天皇を処刑しなかった米国と日本の間でくらいであろう。その基地問題が今マスコミに騒がせている。

梅と桜が咲いている

2010年04月25日 | Weblog
庭の梅が散りかけ、向かいにある小学校の桜が満開に近く、濃い赤味を呈している。
朝、門前を通りかかった「遠山の里」の横沢マネージャーと立ち話をした。先日、葛籠淵コミュニティーで話しをさせてもらった北上川の沿岸に艇庫用地を確保するための国交省北上川河川事務所にした要請は断られたことを話した。そして、占用調整課長が登米市に土地提供を交渉すると言っていることについて、既に去年、私が市長にも話して無視されていることも占用調整課長に伝えて、登米市も新しいことをする気がまるでないことを話したら、横沢さんも市がなかなか動かないし、指定管理者制度がありながら、管理者をがんじがらめにして、市の職員がしなくていい仕事をしていると言っていた。
私は、占用調整課長に北上川で漕艇をすることになれば、その艇庫用地の管理を国交省が市にさせたとしても、結局民間人がすることになると説明しておいたことも話した。
市が手放して、指定管理者に任せられない現状で、市に艇庫用地を求めても、民間人に任せる決定をするだけの意欲がないであろう。

寒さはいつまで

2010年04月24日 | Weblog
今日は、降ったりやんだりのお天気雨であったが、夕方になってやっと晴れて来た。このところ寒かったため、ストーブを良く焚いてなくなった灯油を買いにコメリに行って来た。先月リッター70円だったのが、74円に値上がりしていた。昨年はリッタ-63円であった。需要が異常気象で増えたのと、石油が値上がりしているせいであろう。米軍のイラーク侵攻作戦による緊張はなくなったのだが、これまた米国発の世界的不況による金融緩和で、だぶついた金が商品に流れているのであろうか。日本の不況の時は、金融機関を救うために、0金利政策を続け、今は、米国の金融機関を救い、ひいては米国そのものを救うために、またまた、0金利に下げている。これは、皆、一般預金者の金利収入を削っての、金融機関救済であり、米国救済である。その上で、石油などの商品値上げを惹き起こし、市民特に年金生活者を踏んだり蹴ったりの仕打ちである。小泉政権以来、この政策は続き、年金は減らされ続けた。さらに、健康保険税の他に、昨年から後期医療の保健税が追加された。宮城県では保険料ではなく、保健税である。
こういう米国に有利で市民に迷惑な政策に終止符を打たせるために政権を変える選挙をしたのではないか。
しかし、NHKを始めとする今のマスコミは、国民を誘導しておいて、アンケートを取って政治を不安定化させ、必要な政策を採らせなくしている。

母の入院を見舞う

2010年04月23日 | Weblog
今週の火曜日に、国交省北上川下流事務所の人たちと電話で話をしていたとき、その合間を縫って母のいる施設から電話がかかって来て、母が黒血を吐いているから入院させたいと言われた。施設は市立であり、その施設の親である市立病院に入院となった。施設の係の女性からは、ヘモグロビンが通常の半分で、輸血と点滴をするため、入院しないと助からないかのような言い方をされたが、母はこれまでも施設で良く吐き、血を吐いた事もある。水曜日は、母がトヨマ病院で診てもらっていた時の石井院長にあって、石井院長(今は廃院になり診療所なので所長)が木曜日に母の入院先の病院に応援に行く日だから、今回の担当の院長に、かつての病歴を話してくれるよう頼んだ。その日も艇庫用地問題にかかわり合っていて、さらに、翌木曜日は、国交省北上川の担当者が二人来宅したので、今日金曜日になって、初めて母の入院先に行った。施設の担当の女性が言うほどには、悪い状態ではないのではないかと思っていたら、今日、病院に行って担当の院長に話しを聞くと、案の定、血液検査の結果は良好でヘモグロビンと栄養がちょっと足りない程度であり、胃カメラの用意をしたから、一応受けてもらうが、施設に退院させるということであった。
この老人ホームは、市立のせいか、その担当の太ったギョロ目の女性のせいか、面倒な仕事を忌避するのだ。昨年母が便所で座る時に足が痛そうだから、オムツにしたいと言ってきて、許可もしないうちにオムツにしていた。夜のオムツは、なんども便所に起こされるから仕方ないが、昼間もオムツをさせて便所に連れて行く手間を省いているのだ。今回は食事を食べても吐くので、面倒だから、点滴である。ゆっくり食べさせれば良いのだが。病院から施設に行ってそのギョロ目嬢に退院してくるそうですと報告すると、食事はできるのですかと聞かれた。食事が一人で食べられるかという意味なのか、のどを通るかという意味か分からないので、分からないと応えた。ウィロウを食べさせて来たことは言わなかった。要するに迷惑そうな顔をしていたから、言えなかった。自分でできることもできなくされ、退化がどんどん進んでしまう。院長は、使節のベッドの空きを見て退院させると言っていたので、母にもうすぐ退院だと言ったら喜んでいた。

石巻の占用調整課長と米谷事務所長が来宅

2010年04月22日 | Weblog
昨日、石巻の国交省北上川下流河川事務所の佐々木占用調整課長が今日22日に、米谷事務所の桜井所長と説明に来ると電話して来たので、直ぐに佐藤弘元大工さんと伊藤哲朗さんに電話して今日13:40の約束時間より少し早く来てもらって、事前打ち合わせした。佐々木占用調整課長と桜井所長は14時近くに到着し、16時近くまで話し、折角だから、我が家を見物して行ってもらった。
話し合いでは、佐々木占用調整課長が準則集というのを持って来て、許可できない例を頻りと述べた。河川法を実際に適用する時の細かい例を準則にあげているのだが、準則集が必要なくらいに、専門の仕事の人達がそれに照らして判断しなくてならないのでは、私にそれを見せても私には分からなくて当たり前だから、見せてもらってもしようがない。今、河川を利用しようという目的が、公共的なことと認めるなら、時代も変わって来ているのだから、その時代に合わせて適用するように河川法を権限を持っている課長や石巻の事務所の所長に裁量を発揮してほしい。そう話して、帰ってもらった。佐藤元大工さんと伊藤哲朗さんは、可能性が低いかもしれないと、否定的であったが、夜になって、呑み会をして、集まった守んツアン、照るちゃん、秀夫ちゃんにその話しをしたら、守んツアンは、可能性があると楽観的だった。いずれにしろ、今の石巻事務所の所長課長の時に準則集に拘って、不許可を通したら、異動を待って次の裁量できる人が所長課長で来るまで、待ちますとも話した。時代が変われば、準則も変わるのだから。

一転、艇庫用地利用不許可

2010年04月21日 | Weblog
昨20日、国交省北上川米谷事務所の桜井所長から先日実地検分した艇庫用地利用の不許可という電話を貰った。
民主党の桜井充参議院議員に電話してもらったことに対する国交省の反民主党の表現としか思えない。群馬県川原温泉の民主党政権による工事差し止めによって、民主党政権に対する国交省の反発がこんなところにも表れて来た。桜井充参議院議員は、宮城県における国交省の工事予算減額に反対抗議している人である。
その電話のあとで、昨日夕方に権限を持っている、石巻事務所の佐々木占用調整課長に電話して、話し合いしたが、
1、国交省北上川事務所が逆提案したところは、重要防水地区になっているので大洪水の時にそこを使うことになるから許可できない。堤防がまだ若干低いのでかさ上げ工事を予定している。
2、逆提案したのは、その隣りの民有地を利用してもらおうと思った。
3、個人ではなく、市町村にしか許可できない。
という理由を米谷事務所と同じように再三いわれてこれ以上話しても無駄だと終わった。
3の個人では駄目だということについては、昨年、米谷事務所でいわれて直ぐ、ダルマサンガという団体で、その規約とトヨマの会員名簿を提出もしてある。その団体名での交渉で今まで話し合い、現地に大勢ダルマサンガ会員も集まって検分したのである。
以上の不許可理由は、取ってつけたものであり、納得いかないから、これからも少なくても、大洪水を想定した工事を始めるまでの時限的許可でも良いと反論しておいた。その線でも押してみる。早速、新聞社や、国交省の上部にいた友人にメールした。
私としては、東京方面からの支援もあり、これで諦めるわけにはいかないので、引き続き要請を強めて行こうと思う。