今朝遅い食事だったので、昼は軽くパンとお茶の昼食をしていたら、佐藤元大工さんが焼き芋を持って来てくれた。パンとお茶に彩りを添えられた。しばらく話しをしてから、「また白シメジを採りに行ってみすか?」と誘われ、前採ったところに行って見ると、中2日おいただけで、傘が開く程に白シメジが大きくなっていた。初めて採った時に比べると、一割程度しか採れなかったが、もう充分であるからと、帰ろうと言ったら、「もう一カ所行ってみすぺ、そこは遅くなってしか採れないとこだげんと」と言って帰り道の途中で雑木林に案内された。春にバッケ(蕗の薹)を取りに案内されたところで、そこから50メートルくらい入ったところで、見付けてくれて、自分は採らない。私ももう充分だからいらないといったが、「ひとに上げるだけだから、とらいん」と言われ、やむなく採った。そこの白シメジは5本だったが、丁度いい大きさにおがっているものだった。
ところで、イラークばかりでなく、アフガーニスターンについても米国は苦戦するであろうし、日本はその戦争に加担すべきでないとこれまでなんどか述べてきたが、その歴史に遡ってちょっと触れてみる。
アフガーニスターンがイスラーム教化してからインドを侵略して最終的にカーブルを故郷とするバーブルがムガル朝を打ち立ててインドを支配した。
それより数百年前になるが、アフガーニスターンのカーブルの南にガズナという都市があり、そのガズナのアミールだった奴隷出身の王がイーラーンのサーマーン朝から独立し、かつその王朝を滅ぼして北インドからイーラーン、中央アジアまでを支配した。ガズナ王朝である。
そこの出身で、インドをなんども略奪してインドの北西部を支配したムスリムの王にガズナ王朝のマフムードがいる。スルターンを名乗り、ガズナのスルターン・マフムードという名で知られている。
スルターン・マフムード(997~1030)は、インドのグジャラート州にあるソームナート神殿や北部州の大都市カナウジなどの財宝を繰り返し略奪してはアフガーニスターンに帰還している。
マフムードの父サブクテギーン(在位977~997)は、サーマーン朝イーラーンに仕えるテュルク系マムルーク(奴隷)出身のアミール(将軍)の子孫であったが、サーマーン朝から独立して、ガズナ朝を立ち上げた。
マフムードはそのサーマーン朝を滅ぼし、イーラーンから中央アジア、北インドにわたる広大な帝国を築いた。
私が1969年にペシャーワルから国際バスに乗ってカイバル峠を越えてアフガーニスターンに初めて行った時、ガズナを訪ねた。廃墟であったが、往時を偲ばせるに充分に立派な塔や建物が残っていた。
アフガーニスターンの民族は昔から強いのだ。
ところで、イラークばかりでなく、アフガーニスターンについても米国は苦戦するであろうし、日本はその戦争に加担すべきでないとこれまでなんどか述べてきたが、その歴史に遡ってちょっと触れてみる。
アフガーニスターンがイスラーム教化してからインドを侵略して最終的にカーブルを故郷とするバーブルがムガル朝を打ち立ててインドを支配した。
それより数百年前になるが、アフガーニスターンのカーブルの南にガズナという都市があり、そのガズナのアミールだった奴隷出身の王がイーラーンのサーマーン朝から独立し、かつその王朝を滅ぼして北インドからイーラーン、中央アジアまでを支配した。ガズナ王朝である。
そこの出身で、インドをなんども略奪してインドの北西部を支配したムスリムの王にガズナ王朝のマフムードがいる。スルターンを名乗り、ガズナのスルターン・マフムードという名で知られている。
スルターン・マフムード(997~1030)は、インドのグジャラート州にあるソームナート神殿や北部州の大都市カナウジなどの財宝を繰り返し略奪してはアフガーニスターンに帰還している。
マフムードの父サブクテギーン(在位977~997)は、サーマーン朝イーラーンに仕えるテュルク系マムルーク(奴隷)出身のアミール(将軍)の子孫であったが、サーマーン朝から独立して、ガズナ朝を立ち上げた。
マフムードはそのサーマーン朝を滅ぼし、イーラーンから中央アジア、北インドにわたる広大な帝国を築いた。
私が1969年にペシャーワルから国際バスに乗ってカイバル峠を越えてアフガーニスターンに初めて行った時、ガズナを訪ねた。廃墟であったが、往時を偲ばせるに充分に立派な塔や建物が残っていた。
アフガーニスターンの民族は昔から強いのだ。