芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

白シメジをまた採る

2009年10月31日 | Weblog
今朝遅い食事だったので、昼は軽くパンとお茶の昼食をしていたら、佐藤元大工さんが焼き芋を持って来てくれた。パンとお茶に彩りを添えられた。しばらく話しをしてから、「また白シメジを採りに行ってみすか?」と誘われ、前採ったところに行って見ると、中2日おいただけで、傘が開く程に白シメジが大きくなっていた。初めて採った時に比べると、一割程度しか採れなかったが、もう充分であるからと、帰ろうと言ったら、「もう一カ所行ってみすぺ、そこは遅くなってしか採れないとこだげんと」と言って帰り道の途中で雑木林に案内された。春にバッケ(蕗の薹)を取りに案内されたところで、そこから50メートルくらい入ったところで、見付けてくれて、自分は採らない。私ももう充分だからいらないといったが、「ひとに上げるだけだから、とらいん」と言われ、やむなく採った。そこの白シメジは5本だったが、丁度いい大きさにおがっているものだった。
ところで、イラークばかりでなく、アフガーニスターンについても米国は苦戦するであろうし、日本はその戦争に加担すべきでないとこれまでなんどか述べてきたが、その歴史に遡ってちょっと触れてみる。
アフガーニスターンがイスラーム教化してからインドを侵略して最終的にカーブルを故郷とするバーブルがムガル朝を打ち立ててインドを支配した。
それより数百年前になるが、アフガーニスターンのカーブルの南にガズナという都市があり、そのガズナのアミールだった奴隷出身の王がイーラーンのサーマーン朝から独立し、かつその王朝を滅ぼして北インドからイーラーン、中央アジアまでを支配した。ガズナ王朝である。
そこの出身で、インドをなんども略奪してインドの北西部を支配したムスリムの王にガズナ王朝のマフムードがいる。スルターンを名乗り、ガズナのスルターン・マフムードという名で知られている。
スルターン・マフムード(997~1030)は、インドのグジャラート州にあるソームナート神殿や北部州の大都市カナウジなどの財宝を繰り返し略奪してはアフガーニスターンに帰還している。
マフムードの父サブクテギーン(在位977~997)は、サーマーン朝イーラーンに仕えるテュルク系マムルーク(奴隷)出身のアミール(将軍)の子孫であったが、サーマーン朝から独立して、ガズナ朝を立ち上げた。
マフムードはそのサーマーン朝を滅ぼし、イーラーンから中央アジア、北インドにわたる広大な帝国を築いた。
私が1969年にペシャーワルから国際バスに乗ってカイバル峠を越えてアフガーニスターンに初めて行った時、ガズナを訪ねた。廃墟であったが、往時を偲ばせるに充分に立派な塔や建物が残っていた。
アフガーニスターンの民族は昔から強いのだ。

天井裏の工事で腰が痛む

2009年10月30日 | Weblog
一昨日の天井裏に断熱材を敷くので疲れたばかりでなく、昨日から腰が痛くなり、今朝起きる時には昨日よりもっと痛くなっていた。
昨夜、照ちゃん、守んツアン、秀夫ちゃんと久しぶりに飲んでいる時に、堀米さんから突然電話が掛かって来て、明日会いたいというので、仙台の駅中ドトールを指定しておいたが、これでは、仙台まで行くのが辛くて難しいのでないかと思いやられた。何でも花巻の国立病院で一週間近い心神耗弱についての研修があり、最終日の今日、急に午前中に終わることになったから研修を受けている人達は、宮沢賢治記念館に行くなどするようだが、久しぶりで様子を見たいということで逢うことになった。大阪の学校で殺人事件を起こした人物が心神耗弱だったので、それを治療する科ができたのだそうだ。それほど前の事件ではなかったように思うが、その殺人事件の犯人は、もう死刑を執行されたそうだ。
私の思いつくままに記すブログを見ていて、私がインドに行くことも、江田佳弘君が亡くなったことも知っていた。最近ブログの閲覧者が急増しているのが頷けた。
今日は、異常に暖かく、そのお陰で腰の痛みも改善した。仙台では、シャツの腕まくりをして歩くくらいであった。
昨夜の呑み会では、宮城県知事選で、照るちゃんは、「おら村井さんさ入れだよ。自動車工場を宮城県さもってきて、宮城県もよぐなっから」と言っているので、「自動車工場は、間もなく中国インドに持っていがれるよ」と言うと、「いや、日本の自動車産業は世界一っしゃ」と言う。「その技術は直ぐ中国インドに移転すっぺ」と言うと、「そう簡単に持っていがれねえ」と主張していた。宮城県は間もなく金持ちになると言っているが、間もなく破産しそうなことを知らないらしい。

天井裏に断熱材を入れる

2009年10月29日 | Weblog
昨日も佐藤元大工さんが来て、白シメジを採りに車に乗せられて行ってきた。しかし、もう一昨日採っていたので、殆どなかった。採り残しておくと、誰か他の人がそこが茸の生えるところと分かって採られてしまい、次から採れなくなるから、生ったらできるだけ採りきって何もないように見せるのが良いのだそうだ。次に雨が降るまで茸は殆どおがんないであろう。
一昨日ワンファミリー仙台というのに米を送ったが、それがどのような団体か分からないので、一応ネットで調べた。政党や湯浅誠氏の言う貧困ビジネスの類いではなさそうだ。ま、失業者たちの空腹を満たしてくれれば、どんな団体でも構わないのであはるが。私のほうは、古米がなくなれば、新米を食べられるから良いのだし。
湯浅誠氏は、菅直人国家戦略担当大臣の相談役になったようだ。湯浅誠氏の運営する「もあい」には、最近は送金していないが、今年も年末に炊き出しをするのかどうか。それによっては、古米でよければ送るのだが、11月7日に仙台で講演をすると齋藤幸子さんに教えられたので、それを聞きに行きがてら、尋ねてみようかとも思う。
最近頓に寒さが身にしみるようになってきたので、部屋を温かく保ちたいと言ったら、佐藤元大工さんに、天井裏に断熱材を入れると良いといわれて買っておいたのを、昨日の午後に天井裏に登ってそれを敷いた。佐藤元大工さんの言うように、マスクをして良かった。マスクが真っ黒になるくらいにほこりが立った。おまけに、慣れない天井裏の仕事ですっかり疲れてしまった。

茸づくし

2009年10月28日 | Weblog
昨日は茸の日であった。
昼近くに照るちゃんが来て、「おい、茸採りさいぐべ」と誘うので、直ぐに応じて彼の車に乗せられ、彼の持ち場に連れて行かれた。以前にアミ茸を持って来てくれた時に、「オレも採りさ連れて行ってけろ」と言っておいたので、誘ってくれたのだ。道路から薮の中に入ると直ぐに左に曲がるように指示され、指示されるままに歩いたが、何も見つからない。
「ねえな」と言うと、「ほれ、そごさ、あっぺ」と言われて、よく見ると、落ち葉の色と同じ色をしたアミ茸があった。その色のを探すと次々と出てきたが、アミ茸は普通はもっと早い9月に採れるものなのに、今年は遅いので、虫が食っているのが多いから、割って中を見て虫の食っていないのだけを採るように言われた。時期遅れの栗が虫に食われているのと同じだ。
そう言って彼は、私のところを離れ、奥のほうに言って採ってきた。採りやすい場所を私に提供してくれたのだ。
相当棄てたが、彼のお陰で、それでもビニール袋に一つなった。
帰りがけ、「オレの採ったのをひとカタケ守んツアンさやっから」と言って守んツアンの家に寄って奥さんに渡した。家に帰って昼食をしている最中に、今度は、佐藤元大工さんが来て、「茸採りさいぎすぺ」と誘われた。先日、誘われて行って、全然なかったが、今日は大丈夫だがらと、自信ありげである。何でも彼の畑の近くに白シメジが出ていたから、これから行くところはそれと同じ時期に毎年獲れているからというのが理由である。
彼の車に乗せられて行き、彼の持ち場に案内されて示されると、白シメジが一面におがっている。期待していなかったので、小さいビニル袋を持って行ったのだが、四つにもなり、もう沢山だからと引き上げ、コーヒーを飲んでもらい、茸談義を聞いた。
佐藤元大工さんの帰りの車に運んでもらって、郵便局からワンファミリーという失業者たちに炊き出しをしている団体に米を半袋送った。河北新報に失業者が増えて炊き出しの米が足りないので、古米でも良いから送ってほしいという記事が出ていたから、古米が丁度余っていたのを送った。
夜は、当然、白シメジのおつゆ、我が家の椎茸のバター炒め、アミ茸と魚のムニエルであった。

間もなく天気晴朗

2009年10月27日 | Weblog
昨日から今朝にかけて、土砂降りに近い雨だったので、椎茸が急におがってもう食べられる。佐藤元大工さんに貰って食べたのが初物ではあったが、自分で作ったのでは、初物である。嬉しい。
雀、シジュウカラ、ヤマガラが啼いているから間もなく晴れるのだろう。少し明るくなってきたのがその兆しだ。
イラークとアフガーニスターンの米国による侵略はさっぱり明るくなる兆しがない。そもそもこの戦争をおっぱじめたFoolish Bush の政権を構成したラムズフェルドやチェイニーは、今、一体何をしているのであろうか。
この戦争で大もうけして左うちわであろうが、その政権のゲイツ国防長官がオバマ政権でもそのまま国防長官で鳩山政権にアフガーニスターン侵略の支援を続けるよう求め、かつ、沖縄の米軍基地のお陰で日本の防衛が只乗りできてきたように言っている。
米軍基地が日本を守っているのなら、中国も守ってやるために中国に基地を置いてもらえば良いではないか。しかし、中国やインドは外国の侵略を嫌うから基地など置かせないであろう。基地の最大の目的は、その国に対する脅しであるからだ。日本に基地を置くことがなぜ日米同盟に重要なのか。対等な同盟なら、日本でも国防(防衛)省ができたのだから、米国にも日本軍の基地を置かせてもらえば良いのだ。その基地に、米国の敵を追っ払うという名目で、核を持ち込んで、睨みをきかせてもらえばいいのだ。
パーキスターンは、その米国にアフガーニスターンを侵略するための,という名目で基地を置かせている。実際にはパーキスターンは米国の軍門に下ったということだ。パーキスターンの北部、ペシャーワルからラーホールにかけては、かつてのムスリムによるインド侵略の道筋であったから、アフガーニスターンを逆に攻めるのには、ペシャーワルが基地になる。
パーキスターンに最後に行ったのは、もう十年以上前のことになるであろう。米国は蜂の巣を突ついたために、パーキスターン、アフガーニスターンは、今や大混乱である。
折角『竹取物語』のウルドゥー語訳ができても、今のパーキスターンの政情不安ではその出版社を探しにも行けない。
今回、行くインドの北部は、そのパーキスターン、アフガーニスターンと関係の深いところである。世界のイスラーム教徒、ムスリムの統一運動があるが、その発祥地の一つがインドにある。インドのムスリムの歴史を知ればそれが当然のことである。先日書いたアーグラにあるバーブルの仮埋葬地に加えて、やはり、アフガーニスターンからインド侵略をしたスルターン・マフムードの故地、カナウジ見学もしたい。

久しぶりの慈雨

2009年10月26日 | Weblog
久しぶりの雨で、畑や椎茸のホダ木に水やりをしなくていいから助かる。
これからの地球気候異変で雨が少なかったり多すぎたり、それに応じた種が開発されると農業も楽かもしれない。何と言っても宮城県は工業よりは、農水産業を前面に立てて推進して行かなければ成り立たない地方である。
昨日の宮城県知事選で現職が圧勝している。
トヨタ系自動車工場を大衡村に誘致したのが評価されているようだ。国家や地方自治体の税収も自動車産業や電機産業に頼り切っているから、目先の収入はそれで良いであろう。
しかし、自動車工場は、米国から日本に移ったように、遠からず、中国、インドに移るであろう。
これまで宮城県で誘致や財政再建に消費された金とエネルギーを取り戻すのは難しいのではあるまいか。
同じ誘致するなら、将来を見越した新しい産業にこれからは力をいれなければならないであろう。
地球環境改善や脱石油エネルギーなどこれからの日本を支える新しい産業を誘致できるはずである。
ただし、原発の更なる開発は頭に入れていない。というのも、女川原発は直ぐ近いにもかかわらず、それの放射能漏れが起きた時の対応は女川と石巻では考えられているが、登米市ではまるで考えられていないからだ。
原発も結局は、それを誘致した町には安全も含め、全ての面で貢献しているが、周辺は取り残されている。工場の誘致も同じであろう。周辺がおこぼれにあずかれるのは難しいであろう。
そうであれば、周辺にある農水産業に波及させる安全な技術が導入されるのが望ましい。
特に農業に直結した産業を誘致できれば、それに越したことはない。そういう将来像を持った知事に当選してほしかった。

珍客来訪

2009年10月25日 | Weblog
昨夜、10時過ぎに、インドに一緒に行きたいと言っていた中村さんから電話が掛かって来た。もう寝ていたが、あまりしつこく鳴るのでやむを得ず起きたら、ヴィザの用紙をもらったが分からないところがあるというので、結局私が書き込んで返送するから送ってくれるように話した。HIS で聞いたら、エコノミー、デリー往復で8万円前後だそうだ。サチャージという燃料代の追加料金を入れても十万円以下であろうから、それを自分で買うように指示して、また寝たが、なかなか寝付けないことになってしまった。
今朝はそれでも6時前に起きられ、午前中に橋本さんのヴィザ申請用紙に書き込んで、産業祭りに手押し車を押して行ったが、ナメコのホダ木は、駒菌がなくなったといってもう売り切れていた。昨日、さくらのホダ木だったから、今日は、クルミのホダ木にしようと思っていたのに、残念。
会場で伊藤哲朗さんに遇った。以前彼にナメコの原木で育てたのを貰った事があり、今回、桜の原木にナメコを植えて買ったのだけれど、と言うと、クルミは出るのも早いが、原木が腐るのも速いそうで、午後からお茶を飲みにきた佐藤元大工さんも同じことを言っていた。最近は雨が降らないから、ホダ木に水やりを毎日するようにも言われた。
今日は、昼過ぎにも珍客が来て、午後は来客に追われて終わった。珍客とは、佐々木達治さんで、『宇宙戦艦ヤマト』の佐々木功さんのはとこだ。40年以上ぶりの再会であったが、玄関前に来て、私に向かって、だれか分かる?と聞くので、ちょっとして直ぐに面影が残っているので思い出し『タッちゃん?』と言ったらまぎれもなくタッちゃんであった。タッちゃんとは、小学校入学前からの遊び友達だったが、トヨマには疎開できていて、東京に越して行ってからは、私が大学の時に駒込の彼の家にお邪魔したっきりであると、覚えていてくれた。同級会に来て以来の登米訪問だそうだ。
タッちゃんと佐々木功さんと幼い頃一緒に遊んだ時、私が、当時には珍しい三輪車にイサちゃんが乗っていて、私がその三輪車に乗って家に帰ってきた時、イサちゃんが返して頂戴と大騒ぎしたという話しをして当時を懐かしんだ。

ナメコのホダ木を買う

2009年10月24日 | Weblog
昨夕に続き、朝6時に起きて、椎茸のホダとタマネギに水やりをした。先日、風呂のふたの上であっためて芽を出さしたほうれん草を植えてなんどか水やりをしているのにさっぱり葉っぱにならない。芽が一センチほど伸びたのが返っていけなかったのか。
昔応接間で使っていた絨毯が蔵から出てきたので、水洗いして干した。デッキブラシでこすった後、水をたっぷり吸った絨毯はとても重くなり、抱えては運べないので、押し車に乗せて運んで干した。その押し車で、今日は、トヨマの産業祭りなので、ナメコのホダ木を運んで帰った。産業祭りの宣伝にナメコのホダ木を自分で菌を植えて持ち帰れると出ていたので、それを楽しみにしていた。一本200円と安いが、私の押し車では、3本をやっと運べる程度だ。ナメコのホダ木は、桜の木で、直径15センチくらいの太さで結構重いものである。
インドに行く時にいつもインドヴィザの申請の手伝いをしていたので今回も関西の橋本さんから、ヴィザの申請用紙が届いたが、書き込む余力がもうなかった。今日は、力仕事をしたせいか、疲れて夕方まで昼寝をした。産業祭りは、明日もあるから、明日も買いにいこうかと思う。
どうも茸に夢中になってしまう性質らしい。
明日は、ヴィザの申請用紙に書き込むのと、インド旅行の日程表を作らなければ。

オリオン座流星群を眺める

2009年10月23日 | Weblog
今朝は、4時に起きてオリオン座流星群を眺めた。夏なら、もう明るい時間だが、この季節になるとまだ、暗い。
薄雲がかかっていたが、冬の星座オリオン座を囲むおおいぬ座、双子座、御者座の付近に明るい流星が見られた。都会ではこうははっきり見えないであろう。
寝間着にチョッキを羽織っただけで外に立ち尽くしたので、すっかり冷えてしまい、暖をとるため二度寝したら、結局起きたのは、8時だった。
田舎での生活は、都会のように夜遅くまでは起きていない。8時頃になると眠くなり、朝は明るくなると起きる。今朝はいつもより遅く起きたがまずは、だんだん大きくなってきた椎茸のホダと昨日秀夫ちゃんに貰って植えたタマネギの苗に水やりをした。今は、タマネギを植える時期のようだ。昨年は、秀夫ちゃんにネギの苗を貰って植えたが、それなりに食べられたものの、大事に育てればずっと食べられるのに、増やすこともなくいつの間にか雑草の中に入り込んでなくなった。昨日その話をしたら、秀夫ちゃんは、ネギは雑草に弱いから、雑草をはびこらせてはならないと教えてくれた。6月だったか、ちょっと留守をして帰ったら、出かける前に雑草を取っておいたのに、畑と庭中に雑草が伸び放題で、その時にネギも見えなくなってしまったのだ。農業をする人は、土地に定着している人でないと無理のようだ。あるいは、年中行事をちゃんと頭に入れれば良いのかもしれない。がしかし、今のところ種を買っては、その袋に記された播種期に植えるという、いきあたりばったりの農業である。
私のような旅好きには農業は無理のようだ。

椎茸がホダ木におがり始める

2009年10月22日 | Weblog
椎茸のホダに椎茸がおがり始めた。一本のホダ木に5個ついていて、ほかは一個ずつちょっと顔を出しているのが、3本、合わせて8個だ。ホダをタンクの水に4日ほど浸けた効果がやっと出てきた。佐藤元大工さんに教えられ、かつ、コンクリート・タンクの漏っているところに、シリコンで穴を塞いでまでしてもらったのに、なぜ、出ないのだろうかと、諦めかけていたのだから、喜びもひとしおだ。
畑に植えたなっぱの種が成育する以上に、茸が出るほうが嬉しいのはなぜか。茸はオガクズでも栽培できるらしいが、ホダ木の原木で栽培するほうが美味しいらしい。椎茸の幹と傘が肉厚であるのも、好ましい。
午後から佐藤元大工さんが、またサツマイモを焼いたのを持って来てくれたので、報告したら、帰りがけに見てくれて、ホダ木に水をかけないと乾涸びてしまうと言う。今日は、裏の家との境の生け垣を刈っていたので、それが終わって、暗くなってから、水をかけた。生け垣の木が屋根のスレートを傷めていたので、梯子をかけて予備に取っておいたスレートで補修したので一日仕事になってしまった。
86歳の、トヨマに唯一残るスレート職人、高橋哲郎さんがまた屋根から落ちてリハビリ中なので、いつ補修してもらえるか分からないから、自分で応急措置を講じた。先日、トヨマの天然スレートの会社を倒産させた後藤くんという元専務に会ってその話をしたら、志津川から職人を呼ぶことが出来ます、と言われた。数枚の補修にそんな遠くから来てもらったのでは、出張料だけで相当になる。実に高い補修費になる。以前に彼に、天然スレートの会社が事実上休眠なのだから、少なくてもトヨマに若い職人を養成しなければならないと申し入れたが、笑って誤魔化された。社会的な責任を感じない専務である。