芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

登米町の独居老人所帯数

2008年02月29日 | Weblog
2月29日夜7時からの公民館での座談会に、市立病院再編・改革に係る登米町域座談会資料というのが配られていた。
わたしは、別の会議に出ていたから、それには、10時近くなってから覗くことになり、資料だけ貰って来た。
平成20年1月31日現在の登米町の人口は5,664人(男2,694人、女2,970人)
高齢者人口 65歳以上 1、763人(31、1%)
75歳以上979人(17、3%)
登米町の所帯数 1,537所帯
独居老人所帯数 198所帯(12、9%)
意外なのは、商店街の三日町に独居老人所帯数が13と多いことだ。駅前、荒町、後小路とかつての繁華街もそうだ。
登米町の人口は昨年末からは、女だけが1ヵ月で18人減少している。これから見ると、数年で人口は、4,000人を割るであろう。
来年の市会議員に一人も当選しない可能性もある。そうなると、現在も登米の市会議員が登米町の代弁をしていないのだから、ますますそうなるであろう。
今登米にある国や県の役所もなくなるであろう。
かつては、登米にあった保健所もなくなった。人口の少ないところに役所などがあっても他の人口の多いところからすれば不便なだけだ。
折角の勤め人もいなくなることになる。人口激減となるのだ。そうなれば、何年後かに小学校も中学校もなくなる。
政治の不在だ。


伊達宗弘出版記念パーティー

2008年02月28日 | Weblog
伊達宗弘さん(宮城県図書館長)が『伊達八百年の歴史絵巻ーー時代を切り開いた先人たちの知られざる偉業ーー』という本を出版した。
殿さまやお姫さまの物語、異国に夢を馳せた人たちの物語、たくさんのきらめく人たちの夢とロマンの物語だ。
そこには、ふるさとをこよなく愛する伊達宗弘さんの熱い思いがいきいきと込められている。
伊達さんが迫地方県事務所長時代に『みちのくの和歌、遙かなり』を出版されてからちょうど十年の節目の年にもあたる。この間数多くの本を出版し、また月刊誌などでも活躍をしておられる。
本の紹介もかねて出版記念パーティーを4月19日(土)に開催することにした。伊達さんを囲んで楽しいひとときを過ごしたいと考えてのことだ。
場所は、佐沼のホテルを借りて5000円会費(本代2000円を含む)で、大勢の人に集まってもらおうと思う。伊達さんにスピーチをしてもらうが、彼の識見の高さにはみんな感じ入ると思う。当日は、彼が『河北新報』に連載した政治社会論をパンフレットにまとめて、配ろうとも思う。
彼の識見の高さを知らない人があまりに多いから、登米市全体の人々に声をかけて集ってもらおうと思う。伊達家の代々の中では、伊達宗弘氏は、伊達政宗以来の大物とわたしは見ている。

イージス艦あたご、清徳丸と登米の泥水道水

2008年02月27日 | Weblog
千葉県房総半島野島崎南42キロ沖の太平洋上で、海上自衛隊のイージス艦「あたご」(艦長・舩渡(ふなと)健1等海佐、排水量7750トン)と、新勝浦市漁協(千葉県勝浦市)所属の漁船「清徳丸」(全長約12メートル、7・3トン)が衝突したのは19日午前4時7分ごろだったという。その直後に、「あたご」から救命ボートをおろして清徳丸に乗っていた漁民を探したが見つからなかったという。
さらに、その後のイージス艦あたご側の説明ばかりが報道され、最初は、青い灯りが右方向に見えた。イージス艦に回避義務がないのだから漁船側がよけると思ったと言い、それが、新勝浦市漁協の漁船団に否定されると、その灯りを発見した時間をくるくると変える挙に出た。
海上自衛隊側の説明は、隠蔽の綻びが出るたびに変更している。これでは、見つからないという漁民を、救命ボートで探す振りをして実は、海底に沈めたと思われても仕方ないのではないか。死人に口無しである。都合のいい説明をしようとしても、沈められた死霊が、黙っていないのかもしれない。首相と防衛大臣は、たたりに遇わないうちに直ぐ、吉清神社を造ったほうが良い。そうすれば、内閣も崩壊しないですむというものだ。
そのイージス艦事故のテレビ新聞報道が、毎日大きく扱われているときに、米国で三浦和義が突然理由もはっきりしないまま逮捕され、もう終わったと思っていた事件が蒸し返され、テレビ、新聞報道がそれを追いかけ始め、イージス艦の記事、報道が小さくなり始めた。
米国としては、海上保安庁にイージス艦を捜査してほしくないだろうし、報道もしてほしくないであろう。日米同盟を推進する日本政府も同じ立場だ。
つい最近起きた米国兵のまだ年端も行かない沖縄の娘に対する婦女暴行事件で、日本政府が、あまり、騒ぎ立てなかったので、その返礼に三浦事件を蒸し返して、日本国民の目を米国製の秘密兵器イージス艦からそらせようとしているのではないかと推測できる。
日米同盟は、両国政府に取って不都合な報道はしてほしくないのだから、お互いに助け合うのは当然である。
防衛大臣と、艦長の去就も気になるが、長とか大臣とか責任のあるものが、このごろあまりに無責任で、皆、地位にしがみつくものがなぜ多いのだろう。身近では、登米市長も失態続きでありながら、責任の取り方を知らない。泥水の水道水を流して、食品関係に大きな損害を出させていて、次回の水道料金を15%割引だそうだ。損害賠償もしないということか。登米市の人たちは、登米市に対して損害賠償請求などしないらしい。やはり、日本国民だ。実に寛容である。病院廃院、小学校廃校、好き放題してもそれですむのであろうか。

土地の付き合い

2008年02月26日 | Weblog
嵯峨立と増淵の小学校の閉校式が市長、教育長の出席の下に、24日両校で行なわれた、と26日の河北新報に載った。
錦織小、米川小に統合されるというが、その錦織小、米川小も児童数は多くないのではあるまいか。
それでありながら、佐沼には、耐震建築という名目で、学校、病院、消防署を次々と建設している。
市の人口は、とりあえず佐沼、中田を除くそれぞれの町が、毎年1000人を超える減少を続けてるが、さらに加速度的に人口減少するであろう。
近いうちに学校も病院も佐沼に通うことになると、スクールバスでということになるのだろうか。
病院に行くバスは、一日5本程度で、12時過ぎのバスを逃すと、3時台か最終5時台で、病院に通うのは、あさ9時台のバスで出かけて一日がかりということなる。体が弱って病院に行くのに一日がかりでは、いっそう体を悪くすることになる。
近所付き合いが歩いて直ぐにできるのが田舎の特色であるのに、これでは都会と一緒になってしまうということだ。
都会は、まだ電車があるから、ちょっと逢おうかと言っても10kmくらいは直ぐ行けるが、ここでは、車がないと行けないし、ちょっと呑んだら、もう、代行車というタクシーで帰ることになる。
良く家でも呑み会をするが、後藤昌信君は、田舎の田んぼ道を走るわりに立派な高級車で来て帰りはいつも代行だ。これでは、気安く呑み会に誘いにくい。
わたしの場合は、免許は持っているが、運転したことがないから、車は持たないことにしている。当然、呑み会は近所でだけだ。だが、近所の飲み屋でうまいところは無いに等しい。ところが、一軒しかない寿司屋の寿司がうまいうまいと言って誘われるが、冷凍マグロの解凍してかたちが崩れたのを食すると、もう、それ以上食う気になれないのだが、わたしの舌がおかしいように土地の人は言う。
土地の飲み屋で食するのは付き合いでだけになる。だんだん、つきあっていると、やむを得ず、つきあわざるをえない事が出てくる。
小学校もなくなり、病院もなくなるような田舎の政治につきあうのもちょっと大変だ。それでいながら、防災無線では、今月は、健康保険税を払う月だから、忘れないようにと放送している。病院をなくしておいて、病気になってもかかれる病院がないのに健康保険料を健康保険税という税で徴収する政治が理解できない。全て、付き合いでやるしかないのだ。
思い出すと、そういういきかたが、いやで、故郷を離れたように思う。

『登米物語』の販売に明け暮れ

2008年02月25日 | Weblog
ジュンク堂書店仙台ロフト店から、また『登米物語』の追加注文をいただいた。今日は、2月25日で、前の注文が8日であり12月末からこれで4回目だ。1ヵ月に2回という非常に速いペースでの注文だ。
しかも、仙台文学館の「みやぎの昔ばなし」展は昨24日に終わり、ジュンク堂書店仙台ロフト店でも『昔話フェアー』は今日で終了なのだそうだが、昔話フェアーの中で『登米物語』が一番成績が良かったので、これは、常備とさせていただきますとのことだ。
勤めている頃に編集した本は、書店に常備されるのが当たり前であったが、この『登米物語』はザックにいれて担いで歩き、あちこちの大手書店で断られていたから、昔の当たり前の頃とは違って、何か、誇らしい気分がするのも不思議である。
今日は、「かほく・上品の郷」からも本が売れ出しているから、契約を急いでくれるよう言われ、車がないため、行けないので、ファックスで契約を交わした。
仙台のかたが、「仙台文学館で『登米物語』を買ってよかったので、もう2冊ほど欲しいと、仙台文学館でまた買おうとしたらもう置いていないと言われた」と言って電話して来た。仙台で扱っている書店では、紀伊国屋書店が近いから、そこで買って下さるということなった。
今日は、登米の郵便局に『登米物語』の見本を置かしてもらいに局長に掛け合いに行って来たら、置いてくれ、自分も1冊買いたいと言われた。
営業というものをしたことがないので、何やら煩わしくもあるが、お客さんにはちゃんと対応せねばならないとまた思い直している。

仙台文学館の「とよまの昔話」大澤和泉挿絵原画展成功裡に終了

2008年02月24日 | Weblog
仙台文学館の「とよまの昔話」(『登米物語』所収)大澤和泉挿絵原画展が2月17日をもって成功裡に終了することができた。
芳賀邸を訪れて下さったかたがたと、マスコミ各社の大々的な報道の御蔭だ。
扱ってくれたマスコミは、ミヤギテレビ、仙台放送、河北新報、朝日新聞である。
本展の「みやぎの昔ばなし」展のほうは、引き続き24日まで開かれたが、館員からの説明によると「短歌、俳句のような組織がない分、入館者が思うほどでない悩みがありましたが、『とよまの昔話』挿絵原画展を報道していただいたお蔭で、それ以後は画期的に入館者が増えた」とのことだ。
「みやぎの昔ばなし」展フェアーをしてくれたジュンク堂書店仙台ロフト店での『登米物語』の売れ行きも好調で、「昔話フェアー」を東京の新宿店でもコーナーを作って開くことになったという。
東京で『登米物語』を売る店は、紀伊国屋書店新宿本店、書泉グランデについで、ジュンク堂書店新宿店が加わった。仙台で扱っている紀伊国屋書店、丸善、金港堂なども全て売り切れ店続出となっている。
『登米物語』という題材を掲げて田舎の文化を中央に進出させる目的で始めた企画だから、思惑通りの展開に大いに気を良くしている。
それもこれも、昨年4月に『登米物語』を出版して以来協力して下さったマスコミ各社のひとかたならぬ協力あって初めて出来たことである。
とかく、政治経済文化の全てが中央から発信されて来がちであるから、こちらから発信して行こうとの目論見である。それにより、地方の過疎と中央との格差の解消の一助になれないものかとひそかに思うところでもある。
今後も発展的企画を思いつくままに発信していきたい。
『登米物語』を扱う店の中に今までとひと味違う店ができた。道の駅「かほく・上品の郷」だ。道の駅の駅長兼社長、太田実氏が、本を見ながら、扱うことを承諾してくれた。この太田社長は、石巻市から一切の補助を貰っていないで、全く独立して営業しているのだそうだ。登米の物産館「遠山の里」の社長は、店にいるのを見たことがない。登米市から毎年、900万円の補助を貰っている第3セクターで経営している。そのせいか、初め『登米物語』をおいてもらおうと思って店に持って行ったときに、館長という人に断られ、何度も説明に行ってやっと置いてもらったのだ。最近、伊達宗弘氏が、出版したての『伊達八百年歴史絵巻』を置いてもらいにいったら、やはり、わたしと同じように「売れるか売れないか分からないから、扱わない」と館長に言われ、それならと持ち帰ったそうだ。「わたしは、1000万円近くかかった伊達政宗の鎧を物産館の玄関を入ったところに置いてあげているし、やはり物産館の経営する懐古館にも展示品を沢山貸してあげて協力しているのに、あの館長は、一体なんだろう」と物産館の経営そのものにも不信感を表していた。
石巻市という隣町のほうが積極的に、個人で持って行った品物でも、それを売ってみようという姿勢を見せるのに、売れるかどうか分からないものは置かないという態度なのだ。尤も、わたしも東京で、『竹取物語』『登米物語』を背負って歩いて、多くの書店の店長に頼んで歩いたが、殆ど断られた。ジュンク堂書店もその一つだった。神保町の書誌アクセスは、即座においてくれ、『登米物語』は売り切れ、感謝されたが、店そのものが不振で昨年11月に閉店した。
道の駅「かほく・上品の郷」には、伊達宗弘氏の『伊達八百年歴史絵巻』も置いてくれるよう進言してみる。

伊達宗弘氏の考え

2008年02月23日 | Weblog
登米市東和総合支所の二階大ホールで、「美しき国 日本の文化・歴史絵巻展」が2月25日まで開かれていて、伊達宗弘氏の「宮城のかたちーー歴史と文化の基層を訪ねて」という基調講演が23日(土)10:30から12:00まで開かれた。伊達さんに電話してまた彼の車に乗せてもらって、聞きに行って来た。
帰りに、「中田のお母さんの所に寄りますか」と聞かれたが、遠慮して、真っ直ぐ帰ってもらった。
マイクがないため、1時間半立ちっぱなしで話して下さったのと、大きな声で話したので、相当お疲れだったのでないかと思ったからでもあった。
昨年末に出版された伊達宗弘著『伊達八百年歴史絵巻』に書いておられることでわたしはゲラで読んでいるのではあるが、それをさらに詳しく補ってくれていた。
現在宮城県と云われる部分と元仙台藩の一部だった岩手県の水沢を含めて、みちのくの謂われから説き起こして下さった。
北上川と阿武隈川沿いに縄文時代からの住居が発掘されていることや、平安時代の歌枕を和歌で紹介しながら、立て板に水を流すようにすらすらと語って飽きさせなかった。能因法師の歌枕では、みちのくは、京都、奈良に次ぐ3番目に歌枕の多い土地であると云う。
これだけ文化水準の高い講演をよどみなくできる人も中々いないであろう。
行きと帰りの車の中では、世界の中での日本、宮城、ひいては登米市がいかにあるべきかを話し合った。
彼も登米病院の廃院が現在市議会で進められていることに心を痛めている。
あさ彼に車に乗せて行ってもらおうと電話したところ、ご夫人から、「今、登米病院に母の朝食の手伝いに行っています。帰ったら電話させます」と云われた。
昨日も、県庁で、「宮城のかたち」という講義をして来て、お疲れではないかと思うのだが、お母さんの介護もしているのだ。その登米病院も3月で閉鎖だから、伊達さんのお母さんも追い出されるであろう。
わたしの場合は、それを見越して、「老健なかた」に母をいれているが、車がない上に、自転車でも40分かかり、往復すると、汗だくになってしまうから、先日も、伊達さんに車で寄ってもらったのだ。
登米市を含め、政治家に病院をなくすことに対する深い考えはないようだ。ただ、市や国の財政基盤が危ういという理由で、廃院にするのだ。
教育と医療は、政治が保持しなければならない最も大事な行政だ。ところが、登米市では、明日、嵯峨立ちと増淵の小学校の廃校式をするという。3月には、登米病院の廃院式でもするのであろうか。
伊達宗弘氏は、県の幹部職員であったから、行政のあり方にも詳しく、病院を維持するために何をしなければならないかもよく分かっていて、車の中で大いに盛り上がった。

ゴーストタウン化する登米市

2008年02月22日 | Weblog
登米市の人口構成は平成17年、男43、037人、女46,279人合計89,316人だ。
先日、登米私立登米病院の廃院説明会で、関係者が平成20年現在の人口は9万人と言っていたのは、さばを読んでいたのだ。
平成17年出生、死亡はそれぞれ、634人、1,187人で差し引き-553人。転入、転出はそれぞれ1,963人、2,394人で差し引き-431人だ。984人の人口減少だ。
その前年の16年の人口減少は、724人だから、平成18、19年には、各年平均で1,000人を超えていると思われる。このペースで人口減少すると、平成20年には、85,000人台になっているのではないか。
その1月の登米私立登米病院の廃院説明会で、意見を述べたときに、このような市長の政治では、登米市の人口は、加速度的に減少して、間もなく、市として成り立たなくなるという意見を述べた。
その時の私の意見に対する答えは、中期長期に亘って、病院を改善して行くというものだった。
市になる前の昭和60年から10年間では、-2,350人の減少、平成7年からの10年間での人口減少は、-7,516人だから、既に人口減少は加速度化していた。
登米市全体の平成19年の人口は分からないが、登米町の人口は、5,688人で、平成9年の6,500人から10年間で1,000人近く減少している。
さらに10年前の昭和63年の7,057人からは、557人の減少だから、これも合併して市になってからの人口減少は加速度化している。
この人口減少に手を打たずに、逆にそれを加速度化させる政策が、今の登米市だ。
郊外型の大規模店舗を佐沼の近くに集めて、周りの小規模店舗を枯渇化していると、人口減少によって、そのうちに大規模店舗も閉店して、何も残らないであろう。残っている老人も死亡して西部劇のゴーストタウン化するのだ。


毒で殺菌して飲食する

2008年02月21日 | Weblog
登米市が垂れ流した汚泥の水道水を飲んだわたしは何でもなかったが、その水道水を飲んだ照ちゃんは、強烈な下痢をしたそうだ。
わたしがなんでもなかったのは、インドのガンガーの川水を沐浴をしながら飲んでも何でもないからであろうか。
今回、入浴の翌朝になると、汚泥がいくつもの固まりになって大量に浴槽の底に沈んでいた。泥水を水道で流したと報道されて初めてその固まりが泥の沈殿物と分かった。
しかし、少量なら、以前から浴槽の底に固まりになっていて、それは、前日に入浴したわたしの垢だとばかり思っていた。
しかし、今回その泥の固まりが大きくかつ多かったので、泥水の水道水のせいだと分かった。しかし、しばらく前から入浴した翌朝になると泥の固まりが出来ていたので、以前から泥水を流していたが、少量だったのであろう。
要するに水道水には、若干ではあるが、泥が入っているものなのだ。その量の過多の問題なのだ。あとは慣れの問題だ。
そもそもが、殺菌に大量の塩素を使っているのだから、それだけでも水道水は好ましくない。
以前、プールに通っていたことがあるが、その水も塩素殺菌されていて、髪の毛がだんだん薄くなった経験がある。中国の毒餃子だけでなく、消毒・殺菌のために人体に有害なものが沢山使われているのだ。

危機管理

2008年02月20日 | Weblog
危機管理がまるでない国家の政策を判子を押したように進める登米市の危機管理のない箱もの行政について書いたばかりのところで、またまた、自衛隊という海軍の軍艦が漁船にぶつかった。まだ10年足らず前にも海上自衛隊の潜水艦が東京湾の横須賀港近くで遊漁船に衝突して、釣り客30人ほどを殺したばかりであり、その数年後にハワイ・オアフ島沖で宇和島水産高校の実習船えひめ丸が米原潜に衝突されて10名近く殺されている。今回も米国からお仕着せのイージス艦という軍艦である。米国軍のたるみまで自衛隊は戦闘機、軍艦とともに頂いているのだ。
軍隊における最も重要な報告がその度に遅れているのは、自衛隊を動かす防衛庁の、たるみそのもので、それを防衛省に格上げしても変わらないことがこれで証明されたようなものだ。
なだしお事故のときは、竹下首相、小渕官房長官。えひめ丸事故のときは、森首相、福田官房長官のときだ。
この官邸コンビたちは運が悪かったのだろうか。
小泉首相のときに米国詣でをして命令されるまま、自衛隊の軍隊化をして、米国軍の支援をして、米国の石油政策でつり上げられた高価な油を相変わらず国際貢献という名目で米国の艦船に供給して、日本の油の高騰を抑える努力もしていないのが、これまでの政権だ。米国のイラークやアフガーニスターンへの攻撃に使う無駄な油の消費を止めれば、石油価格も安定するであろうに、海上自衛隊の船に小泉首相のお膝元の横須賀から油を積み込ませて派遣しているのだ。近い将来には、横須賀に米原子力空母を寄港させて、それに必要な莫大な物資をまた積み込ませるのだ。
ヴィエトナム攻撃のときもそうだったが、今回のイラーク、アフガーニスターン攻撃も、まるで、正当性がないのだから、従軍する軍人たちが消極的になり、志気が上がらないばかりか、たるむの当然だ。
早々に引き上げれば、石油の価格も下がり、軍人も攻撃される国々の人々も犬死にしないですむのだ。
こういう戦争に駆り出される軍人、自衛隊員も気の毒でしかない。
もし、米国の真の友を自認する政治家なら、米国に戦争から早々に撤退を勧告すべきである。
そうでないと、危機管理のない国家のたるみが軍隊、自衛隊から惹起される。
しかし、米国詣でをする首相たちが、米国への参勤交替から帰るたびに、国際貢献を求められるままに帰国してから実行しているのは、外務省のお膳立てのせいもあるのだろうか。