芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

正月の準備

2009年12月31日 | Weblog
昨日、照るチャンから、「今から門松をとりさ行ぐがら」と電話がかかって来て、草木山に車で連れて行かれた。既に誰かが切って棄てた松の枝があったので、形が悪いから棄てたようだが、私はそれでも構わないから、それを拾って来た。門の両脇に若干左右が不揃いだが、松の枝をくくりつけた。やたら松の木を切るのもどうかと思うので、多少の不揃いでも、仕方ない。
年末の掃除をしていなかったので、そのあと、窓拭きをした。大正時代に改築して、やたら、ガラス窓が多いので、窓拭きは全部というわけにはいかない。台風のあとなどに汚れた窓をちょっと拭いていたから、いい加減な拭き方ではあるが、比較的に楽に終えることが出来た。
夕方に、守んツアンが、餅を届けてくれた。昨年は、買ったのだが、今年は、早くから、「ついてやっから買わねくていいがら」と言われていて、その言葉に甘んじて、貰うことにした。何回も、自分で切られるかと、念をおされた。去年は、自分で切ったから今年も大丈夫だと、言った。手を切らないようにと注意された。年末正月の過ごし方を手取り足取りで教えられている。今日は、八幡神社にお札を買いに行く。それでトヨマ流正月準備完了か。
今年は、このブログを見て下さる方が倍増した。百三十数万のgoo.blogerの100分の一以内にしばしば入って順位がついたりした。この一年間お付合い下さり誠にありがとうございました。
皆様、良いお年をお迎え下さい。

新宿の早朝の喫茶店は満席

2009年12月30日 | Weblog
新宿9:00発のバスなのに、6時半前に新宿に着いてしまい、喫茶店を探した。6時半から開店の小田急駅改札前の洋食とそば屋に10人以上の人が並んでいた。これは、長時間ねばれないと分かったので、新宿西口を探し歩いたが、ハルク裏の二階のマクドナルドだけ開いていて、中に入ると、20人くらいが席の空くのを待っていた。スーツケースを引いている人が何人も待っている。
夜行バスで着いた人達が、キャスター付きのスーツケースをひいて、やはり、喫茶店を探している。結局、新宿発のバス停に近い地下のマクドナルドが7時から開くので、20人程待っている後に私もついた。開店と同時にまた中に4列に並んだ。客は、私のようなバスの出発待ちや、夜行バスで着いた人、会社の始まるまでそこで過ごす人など、様々のようだが、中には、奇声を発するおばさんがいたりして、常連のようだ。携帯の充電器を持っていれば、充電できる電源も一部の席にある。7時半には100人程の座れる席が殆ど満席になった。これだけ客が多いのは、安いのもあるであろうが、もう少し高くてもゆったり座れる喫茶店なら、はやるのではあるまいか。私は8時半までねばって店を出た。年末ということもあるのであろうが、仙台行きのバスは満席だった。

逆縁の母上をまた見る

2009年12月29日 | Weblog
昨日、木野くんの通夜に出席の為、早朝のバスでトヨマを出た。私は、晴れ男で、滅多に雨に降られることはないのだが、昨日は、降られた。
木野くんは、ジャーナリズムの会社に入ることを希望して、なんどか失敗の上私達と入社試験を受けた同期の入社であるが、一番若かった。享年六十二歳であった。子供がまだ就学中であるはずで、当然奥さんも若い。彼女とは、私が源氏物語の仕事をしていた時に、瀬戸内寂聴さんとの対談相手などをしてもらったり、かなり、協力して貰った。
それであるから、仙台に向かうバスのフロントグラスのワイパーが、したたる雨滴をこするのが、なにか、涙をこすっているように感じて、残された母娘のことが思いやられた。
しかし、その雨も仙台に着くとはれて、仙台からのバスは雨に降られることもなく、無事、新宿に到着した。
代々幡斎場でのお通夜には、多くの参列があり、その中には、彼が早稲田時代にジャーナリズム研究会で一緒だったジャーナリスト大谷昭宏もいた。
木野くん自身は、漫画の仕事に長くかかわっていたから、里中満智子などの漫画家のは当然にしても、伊集院静の生花なども飾られていた。
ここでも彼の母がまだ存命で、逆縁の悲しみを見た。

おすばて

2009年12月28日 | Weblog
暮が迫っての葬儀に参加することになった。
29日の「おすばて」には行けないから、魚の類を買えない。
おすばてとは、三陸地方で、酒の肴を意味するらしい。おかずということでもあるのだろうか。
昨年は、佐藤元大工さんに乗せられて行って、おすばてで、片貝などを買って来た。正月の準備をするのだ。
今年も佐藤元大工さんに連れて行くといわれていたが、断る羽目になった。

サンデー・モーニング年末スペシャルに幻滅

2009年12月27日 | Weblog
今朝のサンデー・モーニングに、金子勝や、寺島実郎、涌井雅之が出ていたのは良かったが、そのあとのスペシャル版で、価値観の大転換について、関口宏が意見を聞いていた編集工房の主宰者は、私が最も唾棄すべき人物に上げている者の一人であった。要するに、新自由主義を日本で押し進めた学者・政治家たちと同じくらい信頼できない、その場その場で流行に乗って、流行の言葉を操って人をけむにまく類いの人物だ。ひところ、オーム事件の時にもそういう自称宗教学者がいて、オームから金をもらって、オームとティベット仏教との関係を、あたかも自分が麻原にティベット仏教の教えを垂れたかのようない話していたが、事件になると、たちまち、麻原こと松本の教師気取りを辞めて、それとは関係のないような顔をして、オームの信者を救うような素振りを見せていた。今は、某美術大学の研究所長をしている。要するに、この類いの人物は、流行に敏感で、流行の横文字を並べ立てて編集者や、ディレクターをけむにまき、自分を最先端の学問をしているように見せかけ、それを真に受けた編集者やテレビ・ディレクターに取り入るのが上手なだけの類いである。ついでに言うと、この自称宗教学者の大学院時代に、私に、「ネパールに行くが、怖いことはないか」と、私と良くインド方面に旅をしていたそのおばさんの紹介で、相談に来たことがある臆病な人である。その後、ネパールで入手したティベットの知識を本にして、有名になり、自信家になったようだ。今回の関口宏の対談相手も、おそらく、関口宏が選んだのではなく、ディレクターかテレビ局の人間がお膳立てしたのであろう。

先の者があとになり、あとの者が先になる時代

2009年12月26日 | Weblog
冬至を過ぎたばかりのせいか、6時は、まだ薄暗い。それでも起きだして、畑をシャベルで起こした。佐藤元大工さんに、冬のうちに畑を起こしておくと、畑の土中の虫が凍死するから、土を起こしておくと良いと言われていたのだ。この⒉、3日温かで土は凍みていなかったので、作業は文字通り朝飯前の楽さだった。
秀夫チャンが牛乳を届けにきたので、今夜、都合良ければ、呑み会をしないか、照チャン、守んツアンにも声をかけるように頼んで、誘った。
以前勤めていた会社の同期の木野君が亡くなったので、通夜に28、29日に行くことになった為、今夜くらいしか、もう忘年会のできる日はなくなったからだ。会社の同期入社では、木野くんが一番若いのに、数年前から肝臓がんの治療をしていたから、あまり老い先長くはないのではないかと懸念していたが、現実になってしまった。後から来て、先に行ってしまった。誠に寿命というのは分からないものだ。
つい昨日も、母の見舞いに行ったが、その送迎バスの運転手が、死んだと思っていた運転手であった。運転手が一人亡くなって、その代わりの運転手に一度乗せられた時に、二人の運転手のうち一人が亡くなったのだというので、歳をとったほうが亡くなったのだと勝手に思い込んでいたのだが、どうも、二人のうち若いほうのが亡くなったようである。物事順序よくは行かないもののようだ。
昨日そのバスに乗った時に、その運転手を見て、死んだ人が生き返ったのかと一瞬我が眼を疑った。


仙台のマンション

2009年12月25日 | Weblog
昨日から良い陽気になった。これが、12月11日だと良かったのだが、その日に仙台二番丁通りの吹きっつぁらしで、不動産屋の車を待っている時に、5分で来ると言っていたのに、30分も待たされた。先日の風邪の原因は、その時の寒さも風邪を悪化させた原因に思う。
長谷川俊雄くんのマンションに一部屋買おうかと思い、その日にもう一度、マンションの中を見せてもらい、頭金を払い込んだ。前回見た時に、天井に亀裂が入っているのを指摘したが、それについての答えが、今回示されたのは、ペンキのひび割れだと言う。ちゃんと調べたかきいたら、調べていないから、確かなことではないという。それについてやり取りした為、重要事項をきかされずに、契約書に署名捺印させられたが、あらためて、もう一度、契約書を確認することで、それを昨日したが、それに気付かせたのは客である、私なのであるから、何らかの対応をすべきでそれを文章に反映するように求めたが、押し問答になって、私ガ、田舎の不動産屋といったのに頭に来た不動産屋社長に頭金の60万円を返すから、この契約はなかったことにしてほしいと言われ、金を返された。その奥さんの専務というのが、間に入って色々言ってくれたが、その短気の社長は、強情に突っ張るので、このマンションを買うのはできそうもなかった。

土地改良区の不明朗性が氷解

2009年12月24日 | Weblog
農水省は土地改良を含む農業関係の公共事業に4889億円の概算要求をしている、という。
以前に、土地改良区というものの、存在自体が、怪しいことをこのブログで記したが、その時は、農水省が土地改良区に税金をつぎ込んでいることを知らずに、単に、土地改良区に払わされる、水利費というのが、減反している田んぼの分まで払わされしかも異常に高く、かつ、土地改良組合という団体の経理が不明朗で、しかも、飲み食いにやたらかかっていることを記した。
その時は、農水省から税金が投入されていることを知らなかった。
しかし、今回の民主党政権の事業仕分けで、農水省は土地改良を含む農業関係の公共事業に4889億円の概算要求をしている、ということが分かり、事業仕分けで民主党がそれを半減するように要求したことが分かった。我が家の田んぼなど、小作や減反などを併せても一町歩くらいしかない。それなのに、土地改良区からの請求は十万円を超えている。小作の分は、おそらく小作人が払っているのではないか。いや、そうではなく自分で払っているのかも。その辺は、まだ私も詳しく分からない。何しろ、農協を通しての稲作は、沢山の書類が舞い込んできて、何がなんだかわからず、お金の出入りも、いろいろな名目で複雑に仕組まれている。今回の稲作農家個別保証で、土地改良区ばかりでなく、農協の稲作農家に対する複雑な仕組みにもメスが入ると良い。
全国土地改良事業団体連合会の会長を野中広務元自民党幹事長が務めていて、21日、政府、与党の土地改良事業費半減方針をめぐり、予算の復活を民主党に陳情するとともに、来夏の参院選に向けて自民党からの団体推薦候補の擁立見送りも検討する考えを示した、というから、土地改良組合というのは、稲作農家と農水省から金を引っ張りだして、選挙資金にしていただけの団体だったことが分かった。

昔話の世界

2009年12月23日 | Weblog
太陽光電池の街灯は、仕組みが簡単らしく、中心部のねじを締め直して、また地面に指したら、灯りがつくようになった。それで、他にも灯りの着かなくなっている街灯を解体してみると、中に水がたまっていて、これを拭き取って、差し戻した。おそらくこれで灯りが着くであろう。
太陽光電池の街灯は、良く飲みにくる同級生たちの為に着けたのだが、足許を照らす程度の灯りなので、表門と裏門に併せて10本通路に沿って挿してある。通路の幅は1メートルばかりであるから、酔っぱらいが歩くには、狭いというのは、予想外であった。酔っぱらいにとっては、、千鳥足であれ、表の道路に出られればいいのだから、灯りなど必要なかったかもしれない。ただ、そこまで酔っぱらう同級生は今までいなかったので、予想外の出来事であった。
これからもダルマサンガの会員が増えて行くと、思いがけないような人が入ってくるかもしれない。東京での会員は、インドに行くような人達で、面倒なことはなかったが、土地柄であろうか。
何しろ、前町長のように、町の病院を廃院にする裏契約して合併を推進していたり、市会議員の定数が減っても、減る前の給与全体を新議員で割って、40万円から60万円の月給になるのを当然として選挙している人達であるから、何でもありかもしれない。ちょっとインド的と言えば言える。もっと入り込むと、昔話になる面白い話しが一杯あることであろう。

呑み仲間の広がり

2009年12月22日 | Weblog
⒉、3日前の夕方、伊藤哲郎氏と高橋信太郎氏がいきなり訪れてきた。何でも、防犯協会の忘年会の帰りだそうで、かなり酔っぱらっていて、高橋信太郎氏のほうは、くどくなっていて、殆ど話しにならなかった。しかし、話しが北上川の活用に至ったとき、宮沢賢治が北上川を下ったことで、賢治の下った北上川という題で川下りの運動を、カッパの会でやりたいのだと、伊藤哲郎氏が言ったので、カッパの会には提案したが、何の反応もないので、ダルマサンガという名前で国交省の北上川事務所に、日根牛堤防の側に艇庫を造る場所を提供してほしい旨、カッパの会にも断りを入れて、要請していると話した。すると、カッパの会の実際の立ち上げは自分がしたのだと伊藤哲郎氏が言い、ダルマサンガの会員にしてほしいというので、高橋信太郎氏も併せて歓迎した。二人の酔っぱらいは、我が家でさらに酔っぱらって、19時頃になって帰って行った。
翌朝、高橋信太郎氏の奥さんが、ご迷惑をかけましたと、イチゴを持って来た。そのあと、庭に出ると、アプロウチの足許を照らす太陽電池の街灯が、2本折れて吹っ飛んでいた。昨日の酔っぱらいで、特に高橋信太郎氏の足許も覚束なかったから、倒したのを伊藤哲郎氏に告げられたのかもしれなかった。そして、今日になってご迷惑をかけましたといって、伊藤哲郎氏が夫妻で大きなケーキを届けにきてくれた。やはり、気付いていたのであろう。伊藤哲郎氏は前にも飲みに来ているが、高橋信太郎氏は初めてである。そのお父さんは、すいっちょというあだ名の中学の先生だった。