芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

日本の独自外交

2009年08月31日 | Weblog
総選挙が民主党の圧勝で終わった。
現在のこの閉塞感を打ち破り、夢と希望にあふれる政治をつくれるかどうか。それには、あまりに負の遺産が大き過ぎ、米国のオバマ政権同様に実行が大変難しいのではないか。日米同盟に基づいた植民地外交が刷新できるとも思えないが、それを少しずつ変えて行く第一歩を踏み出す機会にはなるのではないかと期待は出来る。
かつて、国連で居眠りしていた日本の国連大使が、隣の大使に、米国が手を挙げているよ、貴方も挙げるのでしょうと、言われたり、パーキスターンの国連大使から、Economic Animal と言われたりして、かつての後進国からすら日本外交は、独自性を全く認められないまま来ているのだから、それが逆に米国を始めとする他の国に安心感を与えていたのが、独自外交を選択すると他国にかえって警戒感を生むであろう。それを上手くかわしながらやって行けるとも思えない外務省自体が、前政権まで、一緒になって、日米同盟の秘密協定による米国の植民地支配を隠し続けてきたのだ。インド洋の給油を止めるのは、当然として、米国のアフガーニスターンからの撤兵を上手に完遂させる方法を考えて協力するのが、宜しいのではないか。

政治より文化

2009年08月30日 | Weblog
旧幕臣によらなければ明治維新後の政治の実務が出来なかったことだけではなく、戊辰戦争による武力で政権を取った軍部優先の政治が太平洋戦争で大敗北を喫して結局日本は米国の植民地になったことである。幕藩体制を崩壊させる目的は、外国の支配から免れることが大きな目的であり、「攘夷」と言うのが一つの大きな標語であった。しかし、実際に戊辰戦争そのものが、英国、米国の政府支援のもとに行われたのであり、外国の援助によって初めてなし得たことだ。日本の政変は、必ずと言っていいほど、外国の影響のもとにある。
『竹取物語』に出て来る5人の求婚者がすべて壬申の乱の勝ち組であることから、深読みすると、天武天皇が壬申の乱で政権を取れたのは、その前に天智天皇が白村江で新羅・唐軍に大敗北したためとわかる。
太平洋戦争に敗北してでっち上げられてこれまで続いた長期政権は、日米同盟が米国に一方的に都合の良いもので、米国の支配下にあることをいくら隠しても、隠しきれるものではない。イラークにしろ、アフガーニスターンにしろ米国は征服後は当然のことながら傀儡政権をでっち上げている。
しかし、政治がどんなものであれ、文化のほうは、大きく発展している。明治女学校のように文化面では、軍事優先の政権とは離れて一つの新しい時代を創り出してきたのだ。それが、自由学園などである。そこに救いがあると言えばあるのではあるまいか。

明治女学校の意義

2009年08月29日 | Weblog
明治女学校では、津田梅子を始め、星野天知、北村透谷、島崎藤村、大和田建樹、萩野吟子、若松賤子、新井奥邃らが講義をしている。第2代校長である巌本善治と親しかった勝海舟が後援会長を務め、発起人には、最古参の旗本の出身でキリスト教伝道社の植村正久、幕臣の田口卯吉、島田三郎らが名を連ねている。いずれも旧幕臣からの転身者が多い。
明治女学校は、明治18年(1885年)に木村熊二、鐙子(とうこ)夫妻を中心に、当初は飯田町に設立され、1892年に麹町に、麹町の学校が焼けて、1897年に西巣鴨の庚申塚に引っ越し、1909年に開校後23年にして閉校した。
私は、東京外国語大学に戸田のボート部合宿所から一年の殆ど合宿生活で通学したが、志村橋から都電で西巣鴨まで行き、そこから歩いて西ヶ原の大学まで通っていた。しかし、明治女学校が庚申塚にあったことをまるで知らなかった。それもそのはずで、私の通学路は、染井霊園の芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓の側を通っていたが、明治女学校は中山道を挟んで反対側にあったのだ。勿論、今はやりの、おばあちゃんの原宿とかいわれるとげ抜き地蔵尊にも行くことはなかった。
この明治女学校は、いわゆる女子教育の嚆矢であり、短い開校期間であったにもかかわらず、その影響は、多大なものがあり、その精神は、津田梅子の津田塾大学や羽仁もと子の自由学園に引き継がれているのだ。
現在元気なおばさん達の基を創ったのである。
明治維新は、薩長の下級藩士達によって引き起こされたが、結局、旧幕臣達の力によって日本の近代化が達成されている。

シーメンス事件を彷彿とさせる現在

2009年08月28日 | Weblog
明治女学校では、当時急速に入ってきたキリスト教系の学校に対して、その影響を受けながらも日本的徳育を重んじる教育をした。校長は旧幕臣で米国留学をした木村熊二や巌本善治、会津若松出身のその妻、若松賤子などの明治維新・戊辰戦争の負け組であり、教師には島崎藤村などがいた。その卒業生には、相馬黒光、羽仁もと子、野上弥生子などがいて、一つの時代をつくった。
シーメンス事件は、藩閥、軍閥に世論が批判的になっていた大正初期の時代に起こった事件であり、現在の郵政民営化に伴う、自民党町村派と三井住友系列の癒着は、薩摩閥、海軍と三井物産による汚職事件であるシーメンス事件を彷彿とさせる。
三井住友系列と繋がったその不明朗な郵政民営化を覆い隠すように、日本郵政取締役会長に内部昇格させて西岡喬・新三菱重工相談役を選任したという。
米国の軍需産業は、10年前後の間隔で、世界中に戦争を起こして、儲かる仕組みをつくっていて、それが日本にもそのまま応用されてきている。このまま米国化して行くと、日本の政治経済も米国方式をそっくり頂いて、にっちもさっちもいかなくなってしまう。今回の総選挙が、その米国化に風穴をあけて、日本を米国からの独立に向かわせると良いのだが。

明治女学校創立者たち

2009年08月27日 | Weblog
外語艇友会の中で、同期の立花栄治君が引率者になって、山肴会という登山愛好者が、この数年、立花君のつくった計画に従って登山をしている。
25日は、三浦君の車に、75歳の佐藤徹先輩をはじめ、同期の斎藤攻君、日本ボート協会の理事長で忙しい後輩の館次郎君が乗せられ、大磯から来る吉野毅君の車には、宮が瀬湖で漕艇協会の世話役をしている立花君が乗せられて、大王わさび園で落ち合った。わさび園は安曇野にあり、安曇野のアズミは愛知県の渥美郡などと同じ海洋民族に関係している言葉であることは知っていたが、広大な大王わさび園の中に、大王神社があり、そのご神体は、魏石鬼八面大王という、この安曇野を攻めてきた天皇の先祖と戦った王で、それを悼んで祀っているのだということは初めて知った。わさびそばを昼食に食べ、碌山美術館に行った。かなり以前に来たときは、中央の建物に、30歳で亡くなる前年の明治42年頃の作品が陳列されていたのを観たが、今回、第一陳列棟と第二陳列棟、杜江館が出来ていて、その中で、「明治女学校と荻原守衛--明治女子教育の精華とキリスト信教」という特別展が開催されていた。荻原碌山がその校庭に小屋を建ててもらって住み着いたという明治女学校の説明があり、その明治女学校創立者に木村熊二らと共に、島田三郎がいたのには驚いた。島田三郎の号は、沼南といい、我が芳賀邸の奥座敷に、「胸懐海闊」「芳賀君の為に清嘱、沼南」という額がかかっているからだ。島田三郎は、私の祖父、芳賀明と交遊があり、横浜毎日新聞の主幹で、代議士を14、5期務めた人だ。その代議士時代に、足尾鉱山鉱毒被害者の救済に尽力し、また今も、自衛隊に巣食っている武器輸入に絡んだ汚職の、当時の代表的な汚職、巡洋戦艦「金剛」発注にまつわるやはり海軍高官への贈賄、シーメンス事件を弾劾した人で知られている。

今日から蝶が岳、常念岳へ

2009年08月25日 | Weblog
今日は、蝶が岳の麓に三浦一政君の車に乗せられて行き、途中、碌山美術館に寄るかもしれない.明早朝に蝶が岳に登り、頂上のあたりの山小屋に泊まって、翌27日に常念岳に縦走して下山という山行計画を立花栄治君が立ててくれている。私はただ、参加すれば良いだけだ。仙台から東京までの長距離バスは、5時間あまりであるから、大したことはない.四十代でスキーを初めた頃に良く夜行バスでスキー場に行き、疲れたと感じたことがあるが、今の長距離バスは、だいぶ楽になった。
そういえば、トルコでやはり、長距離バスに乗って、イスタンブールからパムッカレ、カッパドキヤをまわったとき乗ったのは、ドイツ製の大型バスで、非常に乗り心地が良かった。
以前は、時間の関係で、新幹線で仙台、東京間を往復したが、最近はもっぱら、バスにしている。三社くらいが運行していて、新幹線の料金の三分の一であり、従って、毎年4000円掛かるジパングクラブには入っていない。新幹線もネットで買えば、二割引の料金で行けるからだ。
概して、鉄道は独占なだけに高料金の設定であり、年金生活者になると、一番大きい出費が交通費だ。国家政策も交通体系に関することで多くの税収とそれへの交付金をまかなっている。

岩手日日新聞の千田さんが来宅

2009年08月24日 | Weblog
昨日の午後に佐藤元大工さんが来て、お茶飲み話で総選挙に関連した政治談義などをしていたら、岩手日日新聞の千田さんがご夫人同伴で突然に訪ねてきた。日曜日などの休みの日は、トヨマが好きなので、時々来ることがあると言う。登米に来て、芳賀邸に寄らなくては失礼に当たるからと、拙宅を訪れたのだそうだ。
千田さんご本人にはすでに説明してある、後藤新平が私の祖父、芳賀明の為に書いた「清節」という書の額や斎藤實の書を掛軸にしたのなどを奥さんに説明した。沼南の号で島田三郎がやはり、祖父のために書いた「胸懐海闊」という書を額にしたのは、先日千田さんが来られた時に説明したら、千田さんは島田三郎が元新聞記者で代議士であったことを知っておられた。ということは相当の知識人である。
千田さんご夫妻は直ぐ失礼すると言っているのに、佐藤元大工さんが、遠慮して帰られたので、湯浅誠君の「もやい」から取り寄せたコーヒーを千田さんにも飲んでもらった。
先夜、千田さんがブログを見たと言って、電話してきて、良い会の北上川漕ぎ下りを総括したCDに千田さんの写真を無断で使ったことについて気にしなくていいと言ってくれていたのを、わざわざ今回訪ねてきて気にしないように又言ってくれた。

役人天国は変わるか

2009年08月23日 | Weblog
昨日は、以前に買った植木用の生け垣バリカンでヒバの生け垣を刈った。この生け垣バリカンは、佐藤元大工さんにその存在を教えられて入梅前に買ったのだが、まだ刈るのは早いと元ちゃんにいわれて、梅雨明けに刈ろうと思っていたところ、梅雨がさっぱり明けないのと、税理の用で他のことが何もできなくなり、税の収納が終わってやっと植木の仕事にかかれた。生け垣は蔦に絡まれ、その蔦が、コウヤマキなどの植木にまではい上っていた。ヒバの生け垣の上部は、梯子をかけないと届かないくらい伸びてしまっている。生け垣バリカンは、南側だけで片面50メートルくらいのヒバの生け垣を刈るには、今までの、刈り込みばさみよりはずっと楽だ。情報を提供してくれた佐藤元大工さんに感謝である。昨年までは、庭の手入れは、植木屋に頼んでいたが、叩き上げの職人でなく、高齢者になってからのにわか職人のため、植木の下に植えている花や灌木を踏みつぶしたり、コチラの重い通りに刈ってくれないので、今年からは頼まないことにした。こんなところにも、国の政策に大学進学ばかりではなく、職人養成の重要性を認識してほしいと思っているのだ。職人が食べていける仕組みを作るのは、国家政策次第だ。税を取りやすいサラリーマンばかりを育てる今の政策は、役人本位なだけである。
今朝も早朝5時に起きて、八幡山に登る散歩に行ってきた。長い階段が109、その上の中くらいのが40ほどであるが、そこまでで戻ってきた。その上には、20段ほどの階段があって神社だが、今日は、賽銭を持ち合わせていなかったから、そこまで行かなかった。それでもいつもよりは急ぎ足で上っても息切れがそれほど激しくなくなってきた。明後日から行く、蝶が岳と常念岳の縦走にはこれで自信がついた。帰途、前小路でやはり散歩中の元ちゃんと出会った。殺されて生き返った人に会ったようでおかしかった。
帰って直ぐ刈り込みばさみで生け垣の仕上げをした。畑から伸びたカボチャの蔓を引きずり降ろしていたら、ずっしりと重いので、生け垣の中を見ると、直径20センチもある白カボチャが地面まで垂れ下がっていた。カボチャ畑と化した我が畑から伸びた蔓は、生け垣をも越して、隣りの小学校の実習農園まで伸びて行っている。これまで税理の仕事で忙しく、畑も植木も伸び放題なのをただ眺めているしかなかったが、去年棄てたカボチャの種から、思いがけない収穫である。税理とは結局、国税、県税、市税を払わせるための仕事を押し付けているだけであり、濡れ手の税収を無意識に享受している公務員たちは、確定申告などのご面倒をおかけさせられている庶民に何らのお返しもしないお役人さまである。
それで思い出すのは、北朝鮮に米の援助をした見返りに貰った何十億というリベートを、金丸信が選挙などの裏金に保管していたのが発覚した時に、単なる脱税ということで、罰金十万円で終わったことだ。わずかな脱税でも逮捕収監される庶民と、公務員の汚職に甘い法律が、今回の総選挙を切っ掛けに、平等な法律に代えられ、役人中心の日本が変わることを期待するが、そこまで行くかどうか。

私のぼけと報道のあり方

2009年08月22日 | Weblog
昨日、菅勘町家ミュージアムが土曜日で開いていると思って行ったが、昨日は、金曜日であった。一日一日が過ぎるのが速いので、つい先先と思ってしまうが、勤めていないので、曜日の感覚がなくなり、ぼけてきているようだ。毎日、何かやることがあり、それを何日かにわたって終わらせるのだが、木曜日は、照るちゃんの車に乗せてもらって佐沼にある税務署に会社決算の書類を出してきた。簿記も税理も、その素養がないため今月はそれだけに係っきりで終わってしまった。
好きなことばかりをしてきたので、経理や法律とはまるで関わりなくやって来られた。しかし、今の総選挙は、どのような法律を作るかが焦点になっていて、作られた法律がざる法かどうかなど判断する能力は私にはまるでないから、いざ、官僚の権力を押さえる法律ができたとしても、彼らは、法律を仕事にしているから、抜け道を次々と考えるであろう。法律だけでは彼らにかなわないから、国民の眼で監視するのが一番よいかもしれない。それには、マスコミにもっとしっかり報道してもらわなければならない。政府と官僚のお膳立てした記者クラブの撒き餌に満足していてもらってはマスコミの存在価値がなくなる。地方から国会までの議員には政調費が出ているが、マスコミの記者ももっと調査して報道するよう望まれる。NHKの報道がつまらないのは、調査に使う費用の裁量余地がなくなっているからではないか。そして記者クラブで与えられた発表のみを報道しているからである。選挙報道を見ても、型にはめられている。私がぼけているからつまらないせいだけではないのではないか。

宮城県慶長遣欧使節船ミュージアム

2009年08月21日 | Weblog
石巻市渡波の宮城県慶長遣欧使節船ミュージアムは財団法人 慶長遣欧使節船協会が運営しているが、元々は、宮城県と頭に命名されているから、宮城県が造ったものなのであろう。まだ、県の財政に余裕がある頃に造られたと見えて、しっかりした計画の下に造られているのが分かる。これを全国レベルに有名にすることが出来れば、相当の入場者が見込まれるし、それに耐える内容の紹介をできる。すでにあるこのような立派な施設を使って、観光振興をできるであろう。
田舎にはこのような箱ものを造らないでも、そのまま観光振興に利用できるものが自然にある。それを複合的に使えば、かなりの人が全国からくるであろう。
わずかではあるが、我が『芳賀邸』にも、たまに、和洋折衷建築を見たかったと、わざわざ東京圏から来る人がいる。中途半端な宣伝をすると、わずかな観光客のために縛り付けられるので、この辺の言葉でいう隙だれになるから、積極的にはやれない。しかし、商売をしている人にとっては、具体的な宣伝方法が考えられるのではないか。
私自身は、今月末に大学時代のボートの仲間と山に行くので、家を空けることになる。そのようなことがあるから、いつも観光客を待っているわけにはいかない。最近できた菅勘町家ミュージアムは、それを開いた菅野芳郎氏が、芳賀邸を参考にするために見に来た。そして、最近、登山の準備体操のために早朝散歩している時に、やはり、散歩している芳郎氏に一度見に来てほしいと言われた。いつもそれに張り付いている訳にいかないから大変でしょうとお互いに慰め合って、今日土曜日に開いているというので、昼間に行ったが、門は開かなかった。菅野芳郎氏は、現役の司法書士だから忙しいであろう。私のほうは、暇なようで、遊びもあるから、この後はしばらく行けない。