芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

北朝鮮騒動と解散総選挙

2017年09月24日 | Weblog
北朝鮮のミサイル発射をやたら騒ぎ立てると思っていたら、急に解散、総選挙だそうだ。国連で、トランプ大統領と一緒になって、北朝鮮攻撃を主張する演説をしている。
今騒いでいるのは、トランプ大統領と安倍首相だけだ。一兆円に及ぶ武器を買わされて喜んでいるのが現実だ。国際的出来レースである。これを歓迎する日本人もいるという想定で解散総選挙なのかもしれない。お友達と税金を食い合っている森友、加計学院の追及は、臨時国会初日に解散であるから、何もないばかりか、大臣になったばかりの自民党議員たちは、大臣席に一回すわれただけで何もしない内閣で終わりである。わたしの読んでいる東京新聞はまだましだが、これを批判する報道は、テレビも新聞も何もしないであろう。株価だけは、日銀と年金を使って選挙期間中は上げ続けるであろうが、日銀にたまり続けている株をいつどう放出するのかの説明はないから次に同じ内閣であれば、行きつくところまでそのまま行けるかもしれないが、他人が引き継いだら、たちまち日本経済崩壊の危機に見舞われるであろう。

児童書『青いダイアモンド』がやっと、楽天koboで販売できた

2017年09月21日 | Weblog
「青いダイアモンド」をやっと、楽天koboで販売できることになった。児童書の絵本の分類になっている。多分、画像からその説明文を除いた9月18日発行の原稿が受け付けられたようだ。あれこれ作りなおしたが、それでも、アマゾンの児童書の出版方法よりは簡単であった。

楽天KOBOの『青いダイアモンド』はEpub上の画像に問題ありという事

2017年09月17日 | Weblog
『青いダイアモンド』を楽天KOBOに載せたが、審査の結果、Epub3 上の画像に日本語が含まれているので、販売できないという審査結果であった。どういうことか、よくわからないので、問い合わせると同時に、画像と文章のページを分けたり、画像の説明を除いたりしてまた、載せてみたが、その結果は、休日明けに担当が出勤してから説明するという事であった。
それまで待機である。

『青いダイアモンド』を楽天KOBOで出版

2017年09月09日 | Weblog
『青いダイアモンド』を楽天KOBOでやっと出版できた。適否を確認して数日後に売りに出される。これは、チャイタニヤ・チャンドクというインドの六歳の少女が描いた冒険絵本である。筋書きがきちんとしていて、二人の少女が宝さがしに出かけていく筋運びもしっかりしている。元は、英語であるが、かなり難しい語彙も知っている。今年の初めに日本語訳をしたが、Amazonの絵本で売るソフトが難しくて、載せられずに半ばあきらめていた。楽天のほうも前回、『怖るべし東インド会社ーーユダヤとインドとニッポンと』を売りに出した時のソフトの扱い方を忘れ、放置したママでいたが、意を決して立ち向かった。
インド・ジャバルプルのIIITDMで日本語を教授していたときに、暇に飽かして、『ヒンディー語・英語・日本語』辞書を作っていたが、大学から支給されたウィンドウズのノートパソコンで作っていたため、メモリースティックで持ち帰ってアップルコンピュータで開こうとしたが、開けなかったので、やむを得ず、ウィンドウズVaioを買って慣れないウィンドウズを使って、辞書作りの続きをしてきた。しかし、それ以外の作業は面倒なコンピュータだ。
アップルなら簡単にできる電子書籍が、ウィンドウズだと、アップルのiCloudに無料で入り、その中のpagesというソフトで電子書籍の第一段階を作るのだが、iCloudに入るための本人確認の複雑さで、何度も拒否されて、なかなか入れないままで数日間を過ごし、昨日から今日にかけて、やっとのことアップルのiCloudで作業を開始できた。何といっても末期がんの病後の体であるから、記憶力、注意力が低下していて、ちょっとやっては、休息を兼ねて、将棋打ちで、時間のかかることおびただしい。将棋も初歩の段階からさっぱり抜け出せない。

ボートのインカレ・レースを戸田ボートコースで観戦

2017年09月02日 | Weblog
戸田のボートコースでインカレのレースが行われていて、東京外語大の男子クオドルプルと女子クオドルプルの準決勝レースが今日午後からあったので、観戦に行ってきた。結果は両方とも負けて決勝に進めなかったが、予選敗退というのが大半なのだから、準決勝まで行けただけでよしとしなくてはならない。そう思うことにして帰宅して新聞を読んだ。
東京新聞の今日の朝刊に小池百合子都知事が関東大震災で群衆が朝鮮人を虐殺したことに対して、歴史家が判断することで事実かもしれないし、そうではないかもしれないと言っている。これは、トランプ大統領の白人至上主義者と人種差別否定論者が争ったことに対して、どちらも悪いといったのと同じ発想である。