芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

トランプ大統領の防衛費大増額

2017年05月28日 | Weblog
『怖るべし東インド会社ーーユダヤとインドとニッポンと』の製本にかかずりあっている最中にトランプ大統領が防衛費を大幅に増額したということから、この本の文中で、米国の南北戦争で使用済みのライフルがグラバーの手で戊辰戦争の新政府軍に売りつけられたことを記したのを思い出したので、防衛費増額との関連で死の商人の商売について少しく、詳しく記す。
英国のエンフィールド造兵廠で大量生産が可能になった1853エンフィールド銃(Enfield Rifle Musket)は前装式の小銃(施条銃)で、米国の南北戦争の両軍に英国から90万丁以上販売され、戦後、払い下げられたものをグラバーによって戊辰戦争の新政府軍に売りつけられ、明治政権で改良を加えられミニエー銃と呼ばれた。
この1853エンフィールド銃は、インド第一次独立闘争と言われるシパーヒーの乱で東インド会社のインド人傭兵が使用し、その弾丸装填の時に口で切る薬きょう袋に牛と豚の油が湿気防止用に塗られていたので、それを口にすることを宗教上できないと怒った傭兵たちによって反乱が始まったとされる。
この反乱により、東インド会社という一会社が傭兵によって広大なインドを支配するのは無理であるとして、英国正規軍による反乱鎮圧後に、東インド会社は解散させられインドは大英帝国の支配下に置かれた。
この解散された会社から独立したジャーディンン・マセソンの会社がインド人傭兵を使って中国の清を植民地化し、1853エンフィールド銃は、ここでも使われたことは言うまでもない。その背後には、世界支配をもくろむユダヤ金融マフィアがいて、グラバーはそのユダヤ商人たちの手先であった。
西郷隆盛がグラバーから買った1853エンフィールド銃で戦った西南戦争で、明治新政府軍のその改良型銃に敗れたのは皮肉である。

『怖るべし東インド会社ーーユダヤとインドとニッポンと』の紙書籍製本に挑戦

2017年05月23日 | Weblog
『怖るべし東インド会社ーーユダヤとインドとニッポンと』の電子書籍を読めない人のために紙の本を自分で作っている。A4で4冊作り、その一冊は、製本の指導をしてくれた松井明氏に上げた。三冊は自分で作ったが、土曜日に朝堂院大覚氏に上げたりして、全部出払った。講談社の元編集者の福田氏に上げたのは、変換ミスをしたのを校正して下さった。これは大きい誤植だったが、気づかずにいた。A4で満足できないので、もう少し書籍っぽいA5で出そうと思い、A5の用紙をやっと見つけ印刷したが、製本は、A4より難しくあまり綺麗にできない。再度挑戦するか。

江戸東京博物館を観る

2017年05月17日 | Weblog
江戸東京博物館に行ってきた。龍馬展開催中だからではなく、今日が毎月第3水曜日の老人無料の日だからである。常設展示だけが無料かと思ったら、坂本龍馬の特別展も無料で見られた。常設展を見るだけでも江戸時代の多岐にわたる展示で相当な時間がかかった上に特別展も見たので、11時過ぎから14時過ぎまでかかった。ここの常設展も近所の北斎美術館同様に外国人が多かった。江戸の人口は100万と覚えていたが、府内のどの範囲までを含んだ数字かわからないが、50数万人だったようだ。いずれにしろ、寺子屋や色刷り出版文化など、世界に冠たる文化都市であったことに変わりない。他方、それを滅ぼすことに貢献した坂本龍馬は、世界支配のユダヤマフィアの手先グラバーの三下として、武器の商売をし、長崎の小曾根清三郎や下関の伊藤九三に多額の借金をして薩長同盟の貿易会社を設立に入れあげ、福井まで足を延ばしていた。いずれも、現在の原発所在地、あるいは直ぐその近くか、被爆地であるのは、偶然か。

ザイティガの薬効

2017年05月11日 | Weblog
昨日、水曜日に、2週に一度の帝京大学病院に行った。近頃、ザイティガというホルモン薬を毎朝空腹時に250mgのを4錠、1000㎎飲んでいるせいか、「怖るべし東インド会社ーーユダヤとインドとニッポンと」の紙の書籍を作るために根を詰めているせいか、体がだるい。足元が以前のようにややふらつく。
前回、psa が下がったから薬を減らすように木村主治医に頼んだが、そういう処方はないと言われたので、彼がくれた、このザイティガの飲み方の手引きには副作用に応じて医者の指示に従って調整できると書いてあるところを示したら、psaの値が1.5から1,063に下がったのでザイティガを半分にしてくれた。しかしプレドニンは減らす処方がないとまた言った。どうも他の医者たちが大量に辞めて順天堂大学に行ったため忙しくなり頭が回らないようだ。

登米に帰省

2017年05月05日 | Weblog
昨年は、自信がなかったのでできなかった帰省を、この黄金週間に実現できた。北上川の橋を渡って直ぐ左手の昔、マルマンがあったところが道路になっていた。
町おこしで我が家を開放したり、「登米物語」を出して記念式典をしたとき、手伝ってくれた河内安雄さんが、登米振興公社の社長になっていて、三浦永年・ティニ夫妻が遠山の里の向かいの元洋裁学校を買い取り、宮城芸術文化館という名称で無料公開していると言うので見に行った。三浦永年氏は私と同級の功大君の二歳下の弟で、世界的なデザイナー、ティニさんとこの登米町に越してきたのだ。旧洋裁学校を改築してその裏に住宅を建てて住んでいると言う。この屋敷は十年ほど前に私が交渉して、すげなく断られた屋敷だが、その持ち主が弱って売りに出したと言う。一万八千円もする「ティニ・ミウラの手造り豪華本」を下さると言うので折角だからティニさんに署名して頂いた。その本の原画が元洋裁学校の壁一杯に展示されていた。私に返礼できる物がないので、一旦帰宅して「登米物語」とドイツ生まれのティニさんにどうかと思い、ねんりんやのバウムクーヘンを持っていって上げた。鯛海老とでも言おうか。