三年前に、油絵の油缶を持ち出そうとして、荷物検査で禁止されたので、インド航空に預けておいたのを貰おうと思い、予め、インド航空に連絡しておいたら、空港出発ロビーのIカウンターのインド航空に取りに来るようにいわれた。搭乗券を見せただけで受け取れた。三年も前の預かり品を貰えた事で、流石インド航空、インドと同じで、時間が悠久た。成田空港から日暮里まで東武線なので、パスモを5000円で買った。それが全部使えるのかと思ったら、そのうち500円は保証金に当てられて使えないことが、領収書を見て分かった。この保証金が戻してもらえるのかどうか分からないが、JRのスイカは保証金など払わなかった気がする。
出国手続き、税関とも簡単に済み、出発ロビーに入ってまた、延々と待った。それでも、街中の暑いところで待つよりは、涼しいからましである。
21:10ほぼ定刻通りの出発であった。到着時間が40分も早かったのは、ボーイングの新機種のせいかもしれない。椅子が後ろに傾かないので、一晩眠れず、映画『カサブランカ』を見た。
主演女優イングリッド・バーグマンが美人で高貴な顔立ちなのに対して、主演男優は、高貴さに欠けているのが不満であったが、有名な映画なのに、見たことがなかったのが見られてよかった。
サラバナで待たせていた家族は、時間が持たなくなり、レストランの前で荷物と一緒に待ったいた。そこから空港行きの駅までは、1キロ足らずなので、35キロの荷物を押して酷暑の中を歩いて地下鉄駅まで行った。駅に着けばエレベータがあるから後は楽なのだが、そこまでで大汗をかいたため、エレベータを降りた時にちょっと目まいがした。ホームで長椅子に座って休憩し、水を飲んだところに空港行きのデリー地下鉄が入ってきた。手押し車に積んだまま乗せようとしたら、駅員に止められたので、35キロの荷物をキャリーから降ろしてやっとこさ乗せられたが、ドアが閉まりかかって残りの荷物を積めなくなりそうになった。ドアを背で止めておいて残りの荷物を載せたが、ペットボトルの水を積み残した。大汗をかいているので、喉が渇いてしょうがない。空港駅では、車から荷物を下ろすと、係が荷物を手押し車に乗せてくれそのまま押してくれたので、任せた。手押し車の料金50ルピーをとられ、だいぶ楽をしたので、さらに、心付けを100ルピー払い出発カウンター前まで誘導してもらった。しかし、出発の21:10までまだ7時間もあり、空港内の出発カウンターに入れず、右奥の待合所に誘導された。5時間前になって出発カウンターに入れ、搭乗手続きもできた。一人23キロ以内二つまで預けられるので、35キロの荷物は二つに分けた。出入国手続きの用紙は日本と同じで書き込み不要になっていた。
26日9時過ぎにほぼ予定通りの時刻にデリーのニザームッディーン駅に着いた。クーリーが250ルピーでプリペイドタクシーまでというのを200ルピーで35キロ程ある荷物を運ばせた。タクシーの運転手がうるさくつきまとうので、コンノートまでいくらか聞くと、550ルピーと吹っかける。そこでプリペイドタクシーに聞いたら、380ルピーなので、やはり、プリペイドタクシーでサラワナに行った。朝食をとって、約束の10時半を過ぎたので、その上にある印刷所、ゴンダルス・プレスに行くと、編集長は来ていないが、マックの使い手が来ていたので、瀬戸内寂聴『デスマスク』のヒンディー語訳の本を50部受け取った。きれいな印刷である。そのうち10部をすぐ、シャンカル・マーケットのピカディリー書店に持って行って預けた。往復、酷暑の中を歩いたので、汗だくになった。
前に預けた『登米物語』のヒンディー語訳は1冊も売れていないという。今回も同じであろうが、長年つきあってきた書店だから預かってくれたのだ。日本に持ち帰るのが40冊というのもかなり重い。
朝、学長室から電話があり、私が17日に提出した休暇届に問題があると言われ、丁度、10時に大学の車で大学の銀行に行くことになっていたので、10:15分に学長に会う予約をした。ところが、車の掃除がなかなか終わらず、10:05になったので、学長に会うことになったと言うと、10:10に出た。ちょっと遅刻したが、前の面会が遅れていたので、少し待たされた。
休暇届は、EL という休暇と夏休み休暇を組み合わせたので、それが良いかどうか学長が判断できないので、討論すると書いたのだそうだが、今朝方既に学長が事務方の専門家、パンデイ氏に確認して、了承したのだそうだ。学長室の係が、それを知らないで、私を呼んだのだ。私は、パンデイ氏に相談しながら書いたものだから、手続きの可否はお任せである。しかし、折角呼ばれて学長に会ったので、学生の就職斡旋に便宜を図るため、在印日本大使館に現在相談していることを述べた。学長からも連絡してくれることになったので、重荷が降りた。それと、日本に研修生を送るにあたり、現在大学が選んで送っている他に、日本商工会議所が募集しているのを学生に教えたと報告した。
これで、大学の仕事は全部終わり、昨日、引き出せなかった銀行の現金については、ちゃんと記帳していなかったので、沢山残っていると思ったのが間違いであることが分かった。14日に給与が遅れて振り込まれたと思ったのは、1914年の省略で、日本とは年月が逆さに書かれているから間違いであることが分かった。 疲れてるからか、不注意になっている。これで、夕方の汽車に乗り明日はデリー到着である。
今朝、小学校勤務のトーマスさんが、外国人登録所では、金をつかませたのかというので、いや、出していないと言うと、インドでは全て賄賂だと言われた。彼は午後2時来て、インド菓子のお土産をくれた。
不在だった外国人登録所の担当者の携帯電話番号を聞いていたので、朝かけてみたら、二十六日まで職場に出ないと言う。替わりは誰でも出来るから、いつでも行くようにと言うので、大学の車の運転手の都合が良いと言う15:00に行っても良いかと外国人登録所に電話したら、どうぞというので、運転手を待ったが、15:00を15分過ぎても来ない。やむを得ず、電話したら、車がパンクしたと言いながら、直ぐに来た。どこもかしこも出鱈目である。
外国人登録所では、昨日対応した係が、自分には出来ないというので、いや、誰でも出来ると言っていたと言うと、誰が言ったのかと聞くので、担当者に電話で聞いたと言うと、私にインドと日本とどちらが好きかとか聞いて、私がインドに100回以上来ているのは、好きだからだろうと言うと、おもむろに、私と家族の登録証を開いて、それにゴム印を押し、デリーを出る日を三日以内と書き入れた。それに責任者が戻って来たので、署名してもらい、その複写を近くのコピー屋でして来るように私の運転手に言いつけた。16枚、16ルピーで複写してきたと言うので、20ルピー札を上げた。帰りがけにパン屋でパンを買うと、自分にもブレッドを買ってくれと言った運転手は、ブレッド代30ルピーをよこさなかった。複写の手間賃のつもりか。
しかし、外国人登録所のあと、三カ所で運転手の用事に付き合って、冷房を切られた車で酷暑の中ずっと待たされていたのに、運転手が私の買い物を待つわずかの間は、冷房をつけて待っていたし、ATMに寄って、現金を引き出す私を待つ時もつけっぱなしであった。しかし、2カ所ともどういうわけか、現金が引き出せず、銀行で聞いても分からなかった。ひょっとしたら、今日が、アラハーバード銀行の創業150年のせいかもしれない。明日、大学の銀行に行って聞くしかない。
先日、23日に来るように言われた外国人登録所に行ったら、担当がいなくて、また、明日か明後日来るようにと言われた。担当は選挙の仕事に行っていると言い、日本に出かける三日以内に来なければならないとも言われた。担当者は、そんなことは言わなかった。他の人では出来ないのかと言っても、まだ三日以内になっていないから駄目だと言われ、日にちをずらしていれれば良いのではないかと言っても駄目だと言われ、仕方なく、大学の車を呼び、一旦宿舎に戻り、大学に行った。学生課長と学長達は長い会議をしており、たまたま会議を抜けて来た学長に、しばらく日本に帰ると挨拶できたが、学生課長は自室に鍵をかけているので、修了証を貰うことが出来ず、結局、4時間待って、やっと貰った、学生達それぞれの修了証に待たしている車のわきで署名して学生課長に返した。これで、今学期の大学の仕事は終了。安心して帰国できるが、外国人登録所の帰国許可がちゃんと貰えるかどうか。
学生課の職員達は、学生課長と外国人登録所の警官は仕事の仕方が似ているだろうと言って笑っていた。これがインド流である。それでもワルダの外国人登録所で8時間待たされたのに比べれば大したことはない。
学生課長にあと、数日中に修了証を作らないと、それにサインが出来ないとメールしてやったら、サーティフィケート課程の修了証は出来ていると言って来た。そのあと、ネットが繋がらなくなり、ずっと待って、夕方の6時になってオームプルカーシが戻って来たので、直してもらいやっと学生課長からの次のメール、出来ているが、ディプロマ課程のと併せて送るから、その時にまた連絡するというメールが来ていた。
この調子では、警察の外国人登録所に行って帰って来ても出来たと言う修了証は見られないであろう。一ヵ月以上前から出来た出来たと言われては、学生課長に会いに行くと、不備があったので印刷所に戻したと、言われ続けて来たのだ。
11月に成績表を作ってメールして以来、修了証にそれを転記して、サインして欲しいと言われながら、いまだに出来ていない。
帰国して、また6月にコチラに戻ってからでは、4年生は既に卒業していて日本語ディプロマ課程の修了証は渡せない。そのことを言っているのだが、インドの役人は一向に気にしないようだ。ま、日本の財務省の役人は、日本の税金と貯蓄をそっくり米国に寄進して平気なのだから、もっと悪いと言える。学生に修了証を渡せないぐらいで、騒ぐほどのことではないのではないか。
先ほど、佐藤元大工さんから電話があり、小学、中学校の同級生、佐藤武夫君が亡くなりその葬儀が今日あったと言う。伝聞だが、癌であちこち転院しては切ったと言う。信じられない気分だ。
彼のお父さんは一昨年だったと思うが、九十歳代で亡くなった。その焼香に行って来たが、当然彼もそのくらい生きられると思っていたからだ。
彼は、岡谷地南部神楽を保存するのに功績があり、その辺りのが集まったツヅラぶち地区の歌を作詞したり、古発動機の展示・運転など、非常に活動的であった。登米町の町起こしに大いに貢献していたのだ。
登米町の大きな人物を失った。合掌
デリーのゴンダルス・プレスに瀬戸内寂聴『デスマスク』のヒンディー語訳の本が出来たかどうか一昨日メールで聞いたら、出来ていると言う。
インドでは、遅れるのが当たり前だから、実際は来週の二十六日にデリーに着くのだが、その一週間前の19日にデリーに行って受け取ると話しておいたら、どうも約束通り印刷製本が出来ているようだ。
『竹取物語』ウルドゥー語訳の本の印刷製本を雨期に頼んだ時は、乾きが悪いと言って、一ヵ月も遅れた。今回は、5月上旬に瀬戸内寂聴尼に逢って、本を見せるので、20冊程度あれば良いと言っておいたが、実際のことは行ってみないとい分からないけれども、200部全部出来ていると言う。
発行日は、瀬戸内寂聴尼の誕生日の5月15日にしておいたから、その日まで、遅れても良いのではないかと勝手に決められると、日本に持って行けないのでちょっと心配であった。