芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

大学の創立記念日

2011年12月30日 | Weblog
昨日、12月29日は、このマハートマー・ガーンディー国際ヒンディー語大学の第14回目の創立記念日で、社会科学会議のテントと同じところで、夕方から式典があった。この大学の大学長は副総長で、総長のナームワル・シン氏が式典に参加して、私の前を通ったとき、学長に紹介された。普通、公立大学は、政治家が総長なのだが、ここの大学は、作家であることが分かった。
式典に続いて、マニプルから呼んだカムラという踊りの団体が、音楽と踊りを披露してくれた。お神楽に似た出し物であった。そのあと、立食で食事が別のテントで供され、いつもの食堂のよりおいしく食べられた。

アンベードカル博士、仏教に集団改宗

2011年12月29日 | Weblog
このワルダの地は、マハートマー・ガーンディーと藤井日達上人という非暴力により世界平和を実現しようとした人達が、集まったところである。
これに加えて、100キロほど離れたナーグプルでアンベードカル博士が音頭を取って、最下層のカーストから仏教に集団改宗したところでもある。その集団改宗をしたところディークシャブーミにストゥーパが造られ、仏教徒の巡礼地になっている。ナーグプル空港には、アンベードカル博士の名前を冠している。

縁のあるワルダ

2011年12月28日 | Weblog
1969年三月ころにここワルダに来たのは、同行のヒンディー語科の学部学生だった清つぐ延君の希望によるものだった。彼とは先日、お兄さん好延氏の告別式で久しぶりに会った。カルカッタ(コルカタ)から南インドヘ行き、デリーまで夜行列車の連続で、私にしてもまだ大学院の院生でお互いに貧乏旅行をすることを納得して旅をしたのである。ここからは、デリーに行き、当時デリー大学で教えておられた桶舎先生の宿舎に転がり込んだ。桶舎先生と清君の繋がりで厄介になったのである。彼とはここで別れ、私はカシミールに陸路行ったが、デリーの暑さとは打って変わり、まだ雪が残っていた。
ワルダでは、まだ若い佐々井さんという坊さんがうちわ太鼓を叩いて、南無妙法蓮華経を唱えながらワルダの町を廻っていたので、それに付き合った。
マハートマー・ガーンディーは藤井日達上人と会ってから、共鳴して、その祈りに南無妙法蓮華経を取り入れたと、日本山妙法寺の刷り物に書いてあった。田舎の我が家の菩提寺は、曹洞宗であるから、日蓮宗については知らないが、非常に積極的な宗派のようである。

藤井日達上人がマハートマーガーンディーと会った地

2011年12月27日 | Weblog
ここのもう一つの見物するところは、シャーンティ・ストゥーパ(平和仏塔)である。日本山妙法寺という日蓮宗の世界平和を願う宗派のつくったものである。インドの仏蹟によく見られる。ここは、仏蹟ではないが、この宗祖、藤井日達上人がマハートマー・ガーンディーにここで会い、お互いに、インド独立と世界平和を求めていることを知り、二人は親しくなり、日本山妙法寺を建設し、藤井日達上人が亡くなってから、その記念塔として造った塔だ。ここで藤井日達上人が、マハートマー・ガーンディーと会ってから、ここを拠点としたのだ。私がここに初めて来たのは、1969年の三月ころで、その時に非常に暑かった記憶がある。この日本寺に日本女性がいると聞いているが、今回も、日本に帰っていると言われて、会うことが出来なかった。

セーワグラムのガーンディーの旧居再々訪

2011年12月26日 | Weblog
ご来客にセーワグラムを見学してもらうので、ご一緒した。これで何回訪問したか分からないが、大勢の修学旅行者がいるにも関わらず、静かな佇まいが魅力である。入場料はとらない。ワルダの他の施設も入場料は取らない。はいって直ぐのところで、ガーンディーの本や、手製の木綿の生地などが売られている。
ガーンディーの提唱した田舎の手づくりの生活を今もしている人がいて、その製品なのであろう。直ぐ隣りの敷地では、牛が飼われている。ワルダの牛乳は、絞り立てでうまい。ここも自然農法なのかもしれない。

社会貢献をしている人達を大学に呼んで集会

2011年12月25日 | Weblog
大学は、今、試験のあとの休み状態であるが、ハビーブ・ホールでは昨日、public relations という題の集会があり、ムンバイから多くの人達が来て、講演をしていた。その中で、タータ・グループのタータ記念病院の人の講演で、貧乏な人達のために、病院が尽力していることが話された。public relations というのは、社会貢献のことを指すようだ。
ムンバイのタータ記念病院では、癌検診とその治療もしていて、病院の患者では、女性は、乳がんが多く、男性は肺がんが多いと言う。
こういう行事も学生達が企画していて、その企画した学生達が表彰されていた。

外国人旅行者と現地人料金の違い

2011年12月24日 | Weblog
ニューデリー駅の外国人旅行者の切符売り場で、帰りの切符を買うとき、私のヴィザが雇用ヴィザであるため、観光ヴィザを持っている同行者の切符しか買えず、私のは、帰りの前日、朝6時にその時にいるジャイプルで買うように言われた。
考えてみれば、確かに外国人旅行者というよりは、外国人労働者であるわけで、雇用ヴィザの欄を良く見せたのが失敗であった。
しかし、ジャイプルで切符を買いに行くと、6時は、一般の切符で、予約は、8時からだと言われて、出直し、デリーで買えなかったのはなぜかと聞かれたが、旅券の最初のページだけ複写して行ったので、旅券そのものを見せずにすんだ。しかも、同行者と隣りの席を取れたのは、デリーの係がちゃんと取り置きしておいてくれたので取れたのであろう。見なかったことにしてくれたのであろう。
今回の旅行で、外国人旅行者でない点では、アーグラーのタージマハル以外は全部、現地人料金で入場できたのが良かった。タージマハル入場料だけは、外国国籍だからインド在住でも外国人旅行者と扱われた。そのアーグラーの入場料が一番高かったのだが。

ジャイプル、アーグラー旅行

2011年12月23日 | Weblog
デリーからジャイプル、アーグラーを廻って、今日、アーグラーから夜行列車で戻ってきた。
デリーでは、比較的安くて、便利なところにあるアルカホテルに泊まった。家庭的な対応で良かったが、これではみんな、お客が逃げてしまうのではないかと思えるところがある。
受付のフロント脇にある旅行社が、素人で一人で運営していて、これが、お客本位でないため、そこを通して雇ったタクシーの運転者は、距離が出ることをことさら、いやがり、ぶつぶつと文句を言うのだ。
デリーで予定を話した時、ジャイプル2泊、アーグラー1泊と言っておいたのだが、ジャイプルでアメール城を見て、少し戻ったラームガル・ロッジに泊まると言ったところ、戻るとメーターが余計に上がると、断られた。やむを得ず、直接、ラームがル・ロッジに行ったが、道を途中で聞きながら行き、30キロも余計にかかったから、往復で60キロになると言う。しかし、翌日、ちゃんと測らせたら、50キロである。
アメール城に象に乗って登った時に途中で待っていたカメラマンが撮ってくれた写真を貰いに、100メートルほど戻りたいというと、街中の城に行ったら、そこで貰えると言うから、それを信じてその宮殿に行ってから貰おうと探したら、それは、アメール城でしか貰えないと言われ、運転手にそれを言うと、すみません、別の写真かと思ったと言う。何回か戻って写真を貰いたいといったが拒否された。

落ち着かない日々

2011年12月16日 | Weblog
授業がまだ始まった訳でもないのに,何か落ち着かない毎日である。
帰国して病院に見舞い,母が少し元気になったので,こちらに戻ったが,気になるので,時々病院に電話すると,容態は安定していると毎回言われている。老人ホームのほうから心配だと言われて帰国したが,私に逢ったせいか,元気になり,食事をしていなくても,点滴で生き延びている。
老人ホームからは,現住所変更をするように言われたが,そう簡単には行って,出来ない。
元々元気なのか,心臓が丈夫だから,持つのかわからないが,医者もいつまでとは言えないというから,様子を見るしかない。


明日からデリーに出かける

2011年12月16日 | Weblog
大学外から来ていて,日本語の口頭試験を受けなかった学生が二人いたので,受けるように電話したが,その一人が筆記試験を受けたので,口頭試験の追試をするから,出て来るようにまた電話したら、今朝,宿舎に来た。他の学生にしたのと同じ内容の試験をして,点数をつけ,その学生のバイク載せてもらって,試験課にその結果を届けた。これで,次のディプロマコースを始められる。その募集をするように学生課に頼み,明日からのデリーに出かける準備に入った。明日のデリー行きは,早朝である。そのまま,ジャイプル,アーグラなどに出かける。ここに戻るのは,23日早朝だ。それまで,日本語でインターネットが出来るところと出来ないところがあるであろう。このブログは,書けるか書けないかそのホテルによりけりである。