芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

アフガーニスターンと日本の農業

2009年03月31日 | Weblog
仙台の長谷川君の細君がリウマチで人参ジュースがいいからと、人参ジュースのための大量の無農薬人参を求めているので、私も畑に試しに植えてみた。その種をコメリで求めると、国産とアフガーニスターン産と半々であった。ところがよく見ると、アフガーニスターン産は米国から売られている。要するにアフガーニスターンは、米国の植民地であるから、農業も米国に支配されているのだ。アフガーニスターンの農業で米国の支配下にないのは、麻薬くらいであろうか。
日本の農業も米国支配下にあるから、政権支配党は農水省を通じてあたかも、支配されていないような振りをしながら、永年宗主国のいいなりになり、種ばかりでなく、戦後急激に食べさせられるようになった肉類の飼料、製品も米国から買わせていただいている。米国農業の売って下さっている飼料には成長剤や抗生物質入りの御蔭さまで、日本は世界一の長寿国になり、健康保険や年金が破綻して、失業者があふれかえっている。この契約社員という雇用形態を米国から自然淘汰とか自由競争とか言って持ち込んだ時の大臣たちは、失業者があふれているこの時期も自分たちだけは、ぬくぬくと実入りのいい地位に安住しているのだ。古来、国民や民の為に政治を行った支配者など皆無に近いのであるが、明治維新以来の政治の失敗を反省させるよう促すことのないのは、なぜなのであろうか。今、進められている、政治闘争も政権を守る為に検察権力を使って政権を維持しようとしているのは明らかだが、アンケートと言う操作に乗せられた国民は、きれいごとを述べるのに終始している。仮に政権が変わっても、予算も補正予算も決められたあとの破綻状態の国政を引き受ける政権は、国政改善など出来ないであろう。

野菜作りの為の畑作り

2009年03月30日 | Weblog
昼前に、館山から遠見台に通じる道路の路肩に溜まった落ち葉を拾ってきた。文字通り落ち葉ばかりで、腐葉土にはなっていないから、落ち葉は散らからないように落ち葉を燃やしたら、腐葉土として畑に入れられるのはわずかであった。拾いに行ってくると、約一時間かかるから、なんどか往復することになる。今日は、温かだから、午後も畑作りに精を出すことになりそうだ。
こんなに手間隙かけて野菜作りをしても、ムカデ屋で売っている安い野菜を買うと、値段だけ比べれば、作るのがばかばかしいくらいに、野菜は安い。
しかし、自分で作った野菜は、安心した食べられる。種に問題なければだが、種は殆ど外国産であるから、その製作過程を追えないので、問題があるかどうかは分からない。
農業は、その種から製品までの製作過程が公開されることが必要だ。その上で、安全でなくても安ければいいという人は、安いのを食べればいいのである。高くても安全なのがいいという人は高くても製作過程が明確に分かる食品を食べればいい。

阿部三朗さん昨年仙台で会って以来の再会

2009年03月29日 | Weblog
今朝9時前に、電話がかかってきた。「横浜から来ている阿部三朗です」と言うので、直ぐ分かった。『登米物語』をネットで買って下さり、その後、メールでなんどかやり取りして昨年5月だったかに仙台でお会いしていた方だ。最近では、(脇谷洗堰、脇谷閘門)について、川の流れを二股に分かれて洗堰側と閘門側に、位置が別でがすぐ近く。合併前の本吉郡柳津町、桃生郡脇谷、登米郡豊里町鴇波、3地域の境界です、と教えて下さった方だ。このブログで私が間違った理解をしていたのを訂正して下さったのだ。阿部さんの実家は、甥が継いでいて、面倒をかけるからと、望遠閣に泊まったのだそうだ。芳賀邸を見物したいと言って、崎陽軒のシュウマイをお土産に持ってきてくれた。ヒトワタリ見ていただいてコーヒーを飲んでいただいた。阿部三朗さんはこの町のことを良く調べられていて、いろいろはなしをもっとしたかったが、気仙沼で法事があるからと長居をしないで帰られた。
今日は、その後も来客が多い日であったので、畑はあまり出来なかった。
 


登米の町並み景観

2009年03月28日 | Weblog
庭の紅梅、白梅が綻んできたがが、天気は晴れたり、雪が降ったりで、4月近いというのに、風が冷たく、一時の暖かさが一体なんだったんだろうと思われる。
昨夜も登米在住の同級会が24名集まり、海老紋で開かれ、21時頃終わって帰る時には雪になっていた。始まりの18:00近くに出かけると寒いので、かけて行った。
今朝も一時晴れただけで雪がちらついていたが、やがて風にあおられて吹雪き始めた。畑作りの雰囲気ではない。
同級会で、私の席に来た野村博君が、今度、旧法務局跡に作られる画廊について、その画廊のお金を出す画家の親戚の塚本君に、私に相談するように言っておいたから、断らずに話を聞いてくれとのことであった。それについては、建てる段階からどのような建物にするか、きちんと相談しながら、進めるのがいいと、野村博君に話し、その管理人などにはならないとも話しておいた。
私としては、旧法務局の建物に勝るとも劣らない建物を建ててほしいが、おそらく、この町のあり方からすると、建物の設計図が決定して、しかもそれから大分経って直しようがない竣工後に話しが来るのであろう。この町のもとの広小路と言われる大手前の道が拡張されつつあり、元に戻しようもないほど、登米の町並みの景観が台無しになる。
いつぞや、隣りの小学校で野球練習に来る子供の親に、練習中はエンジンを止めるように注意したら、車で来るのは当たり前だと、エンジンを切らなかった。車の騒音、排気ガスを当然とする上、道路を広くすることが、町民の誇りと思えているところに登米の救いようのなさがあるのだ。昨夜の同級会でも、広小路と登米大橋は、旧態依然で良く、新たに郊外に橋を造るのが良かったのだと言うと、その話しが国交省で決定しかかったとき、登米出身の登米市会議員全員が、登米大橋を直すだけでいいからといって、新大橋を郊外に作ることに反対したのだそうだ。登米大橋の補修と広小路の道路拡張はセットになっているようだ。

畑の土作り

2009年03月27日 | Weblog
昨日は、植木の手入れ、今日は、軍場山まで手押し車に鶏糞2袋を積んでを押して行って、穴を12個掘った。そこに鶏糞を入れて昼になったので、落ち葉を拾い、帰る道すがらも、落ち葉でおおわれている道路脇の土を拾ってきた。我が家の畑の土は、粘土質だから、こういうのを入れて土から変えなければならない。軍場山までの道路の路肩には、白線が引かれているが、それが落ち葉で隠れているから、その上の土をのけると、白線が見えるようにもできる。
夕方、佐藤元大工さんがきたので、また、情報交換をした。明日、先日のトラックが空いていれば、軍場山の木をチェーンソーで切ってくれると言う。
先日切った木は、皮を剥がないと腐りやすいのだそうだ。なるほど、そういうものか。もう一本木を切ってくれば、梅の老木の支えがしやすい。
今夜は、トヨマ在住の同級会の総会だ。

東ティモールについて

2009年03月26日 | Weblog
東ティモールがインドネシアから独立したと前回記したが、東ティモールの政権の変遷がもっと複雑だったことが分かった。形式的には、ポルトガルからの独立であった。日本が第2次大戦中にオランダ領インドネシアを占領した時に、ポルトガル領東ティモールも占領したが、日本の無条件降服で、一時、オーストラリアが占領していたが、それが手を引いた後、マルクス主義系の指導者がポルトガル領から独立した時、インドネシアの軍事占領したのに対して、国連総会でそれを非難したにも関わらず、マルクス主義系であった為、米国、日本などが国連総会の決定を無視して、東ティモールのインドネシア占領を黙認し続けたという経緯があったのだ。米、トウモロコシ、コーヒー豆が主産品で石油を産出するでもない東ティモールは、米国政権の注目されない存在なのだ。しかし、北朝鮮と同じで、北は、ソ連、西は中国、南は、日本に狙われて、現在に至っているように、東ティモールは、弱体化した旧宗主国ポルトガルの領土のまま、日本、インドネシア、オーストラリアという国々の軍事支配下に入っていたのだ。
今世紀に入ってから、日本も国連の平和維持軍として自衛隊を、第2次世界大戦中の罪滅ぼしであるかのように、カンボジアに派遣したように東ティモールにも派遣している。第2次世界大戦中に日本軍を受け入れた現地人が今もいるであろうから、日本の自衛隊に対して、どういう態度だったかが興味をもたれる。外国軍が占領した時は、必ず、それと迎合する現地人がいるのは、現在の日本が、米国に迎合する政権で成り立っているのと同じだ。

畑作り

2009年03月25日 | Weblog
昨日、米を搗きに行った帰りに、佐藤元大工さんに遇ったら、私が人参の種を植えてその上に、佐藤元大工さんに借りて布いたビニールの掛け方が悪いから直しておいてくれたという。その直ぐ横に植えた種芋も「浅すぎっから、もっと深く掘って植えねえとだめっしゃ」と言われた。
そのあと、家に寄ってくれ、細かく支持されたので、お茶を飲んでそのあと、午後から種芋を植え直した。鶏糞を撒くと臭いから、佐々木精肉店の軽トラック一台で1000円の豚糞を買いたい。と言ったら、あとから、「明日は、オライのガガが軽トラックを使わねえがら、軽トラックではこべっからいがすと」と言いにきたので、車を出して貰う代わりに、豚糞半分を上げると言って、今日朝9時に迎えにきてもらった。もっとべたつく豚糞と思っていたようだが、熱で2次処理したべたつかない、臭いのない豚糞の肥料なので、昨日いらないと言っていた豚糞半分を軽トラックに積んだまま持って帰ってくれた。私がトラックから降ろした豚糞を佐藤元大工さんがシャベルで畑一面に撒いてくれたので、これも助かった。昨年まともに食べられた野菜はゴーヤだけと言って良いが、今年は、肥料を豊富に入れたから、豊作が期待される。種は外国産でも、畑が良ければいい野菜が作れるであろう。
そのあと、郵便振替でともしびコーヒー豆の注文した代金を振り込んだ。ともしびコーヒーは、湯浅誠くんと稲葉剛くんが運営している反貧困のNPOもやいが売っているものだ。ともしびコーヒー豆には、東ティモールの豆も売っているから、インドネシアと武力闘争の末に獲得した独立の国でなかったかと思うが、その支援もしているのであろう。他のコーヒーは中米のコーヒーだ。

温故知新

2009年03月24日 | Weblog
栗電の駅が鉄道博物館になるという。トヨマにも軽便鉄道の駅があったのに、去年突然取り壊された。今日、郵便局の帰りに旧法務局の脇を通ると、法務局は掻き消えて、更地になっていた。
この私の住む登米市には、温故知新という言葉がない。米国の植民地そのものの、scrap and build で、壊して、なんぼ、建ててなんぼという、裏金の世界しか存在しないのである。
米国の問題点は、世界に常に戦争を起こして、その武器を消費し、新たに作るということで、政治家に献金が行なわれている。
米国は人を殺して景気を良くするが、日本は、まだそうでない分ましか。しかし、だんだんそれに近づいている。海外派兵が常態化しているからだ。

館山部落の総会に出席

2009年03月23日 | Weblog
昨日、館山の総会というのがあり、生まれて初めて、それに参加した。「御小人町の芳賀です」と言っても、分からないが、「芳賀禮子の息子でがす」というと、直ぐ、「ああ、禮子さんの息子さん」、と言われた。「芳賀禮子さんとは、福祉の仕事で良く一緒だったがら」、ということである。
母親は、長いこと福祉会の会長をしていたので、交際範囲が広かったのだと分かった。このの総会にも交通事故に遭って足が不自由で動けなくなるまでは出席していたのかもしれない。同級生の江田佳弘君のお母さんも出席していた。出席者40人前後の大半を知らない人だった。伊達宗弘氏が幹事で、夫婦で出席していた。すでに、トヨマの前町長が担いでくれないから、登米市長選挙には立候補しないとメールで知らされていたが、この場でまた、立候補したほうがいいのではないかと勧めてみた。担ぐ人がいないから立候補しないのではなく、自分がどのくらいやる気があるかにかかっていると思うのだが、その辺が、もうひとつやる気が足りないようだ。折角県職員の仕事を断って立候補するつもりでいたのだから、もう、賽は投げられているのに、乗らないというのは、決断力不足のそしりを免れないように思える。誰も立候補しないなら、私が立候補したいくらい、登米市については危機感を持っているともいった。今の地方政治の悪い面は、中央政府の命令を判を押したように丸呑みするところにあるからだ。どうして異議を申し立てられないのかとそばにいた、古内君に聴くと、思いを持っていても、それを表現することが出来ないのが登米の人なんですという。

なぜ今田舎生活か

2009年03月22日 | Weblog
町起こしは、気まぐれでする分には、嫌なことは避けて通れるが、目的意識をはっきり持ったら、障害が多すぎてやれない。それよりは、自分と、周りの人達で楽しめることをするのがせいぜい出来ることだ。嫌なことを押してするくらいなら、最初からこの町に戻ってきて住むなどしないで、今まで通り都会に住み続け、気の合う連中とボートでも漕いでいるほうがずっと精神的にもいいであろう。
しかし、なぜ田舎に戻って住むことにしたのか、母親の介護などあるにしても、自分でもしかとは分からないが、都会生活の根無し草的なものと対極にある、根をしっかりはらせる田舎生活をしたいという気があるのかもしれない。田舎生活の根がしっかりはっているかというと、そうでもないのは、これまでの田舎での付き合いで分かるが、少なくても、自分の周りで良く逢う人達との生活は、好ましいものだ。