芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

ヒンディー語訳『登米の昔話ーToyoma ki Lok Kathaen』の校正

2013年04月30日 | Weblog
昨日、クラレの車で最初に行った『登米物語』のヒンディー語訳『登米の昔話ーToyoma ki Lok Kathaen』の印刷を頼んでいたゴンダールス・プレスの事務所がもぬけの殻だったので、電話したが、返事がなく、やむを得ず、次の訪問先、国際交流基金に向かったら、折り返し電話があり、前の事務所の2階に引っ越したと言うので、今日、朝食後また行った。9時半に着いたが、まだ戸が閉まっていたので、隣りの南インド料理や、サルヴァナで南インドコーヒーを飲んで待った。11時近くに電話で、事務所を開けたと言うので、中に入った。まだ内装も新しく、こぎれいである。前の一階の事務所は銀行に返したという。前より広くなっている。ヒンディー語訳『登米の昔話ーToyoma ki Lok Kathaaen』の校正をして、日本商工会議所の西本さんに招かれているデリー・ゴルフ・クラブに行った。指定の12時に15分まで、まだ間があったので、クラブの創設者や会長の名前を見たら、マンモーハン・シン首相を始め皆錚々たる人物である。このクラブの会員であることは、相当の格式の高さを意味することが分かった。
クラブの建物のなかでインドカレーをご馳走になり、食べ残しを包んでもらった。プリーティさんという日本語の出来る女性が同席した。デリー大学で日本語を学び、日本商工会議所に去年勤めるまで、日本企業で通訳や翻訳の仕事をしてきたと言うので、聞くと案の定、ウニタ教授に習ったという。
西本さんは、私が今回勤めたIIITDM-Jを紹介して下さった日本大使館の文化担当一等書記官を紹介して下さった方なので、そもそもの仕事のご紹介者であるから、そのお礼を申し上げた。
家族と待ち合わせていたインペリアル・ホテルにやはり用事があるという西本さんの車で送ってもらい、用事の済んだ西本さんと別れ,インペリアルでお茶を飲んでから、再度、ゴンダールス・プレスに行って、校正をして、ホテルに戻った。

デリーをクラレの車であちこち走り回る

2013年04月29日 | Weblog
汽車は例によって、2時間遅れた。ホテルで待っていてもらったクラレの車に、ホテルに着くと直ぐ乗り、私の想定の1時間を上回ったため、まず、国際交流基金に予告より30分遅れの2時半に到着、T氏からは、今日1日空いているということだったのに、会議で外部に出かけていると、受付で言われた。そもそもが、『竹取物語』ウルドゥー語訳の本を5冊図書館用に買って現金で払うと言われたので、現金なら、日本に帰国する4月か5月の、デリーに行った時に受領になるが良いかと質問したのに対して、何の返事もないまま、今回、デリーに出かける旨、今月半ばから連絡をしてもまるで返事がなく、国際交流基金デリーのメールもつながらず、やむを得ず、国際交流基金の日本本部に連絡して、異動なら今の責任者を教えて欲しいと連絡して、やっと、連絡がつき、異動でいない訳ではなく、デリー事務所がメールアドレスを変えたのだと言い訳された。29日ならいつでも良いと言うので、到着を1時間遅れると見込んで、2時過ぎにお邪魔すると連絡したが、それに対して良いでも悪いでもなかった。そして来てみれは、いない。しかも、誰か代わりの人はいないのかと聞いても埒があかないので、責任者を出して欲しいというと、会議中だという。その責任者に1分だけ会って、文句を言うから、会議室を教えるように言ったら、やっと、違う日本人女性が出てきて、今、Tさんから話しを聞きました。いくら払えばいいのですかと、領収書を持って来た。それに署名して、1,500ルピーを貰って直ぐ辞去した。ここでまたまた遅れたので、クラレには4時過ぎに着いた。クラレの事務所開設の仕事に紹介したヴァルマー氏が私に会いに来たので、話しが長くなり、日本大使館のE氏から「どうなっているのか」と、電話がかかって来てしまい、「遅れて済まない、これからでも良いか」と聞いて、良いと言われたので、直ぐに行ったが、もう5時近かった。終業時間までお話しし、IIITDM-Jにご紹介下さったことのお礼を述べてから、ホテルにそのクラレの車で送ってもらった。昼食もせずに暑い中を走り回ったので、疲れ、昼夕食を一緒に食べたのは、もう7時過ぎだった。

今夕の夜行列車でデリーへ

2013年04月28日 | Weblog
昨日、大学に行って、日本の企業に実習に行く学生達に、日本語やマナーを教える最後の授業をした。昨日の学生達2人は、三菱重工の琵琶湖の近くの工場に行くと言っていた。成田から行くらしいが、新幹線で米原で降りるのか、京都で降りるのかなど、受け入れ態勢が分からない。いずれにしろ彼らは京都の見物に便利なところで良いのではあるまいか。学生達は、ロッククライミングや、パラグライダーに興味があると言っていたが。
一昨日の学生達2人は、来なかったが、群馬の工場に行くらしい。こちらのほうが、登山には便利がところである。期末試験中だから、恐らく、授業の内容を分かち合うのであろう。
私は、今夕ジャバルプルを発ち、デリーで、この大学に就職できるようになった切っ掛けを作り、紹介をしてくれた人達に会って、お礼をしてから、官費による学生達の直行便とは違う、上海経由の安い運賃の中国東方航空で帰国する。
上海から西安に往復して、ワルダの大学に昨年一年留学していた、西安外国語大学の学生達に西安観光の案内をしてもらう。彼らが中国に帰国する前に約束してくれていたからだ。西安外国語大学で日本語を教えて欲しいとも言っていたが、中国で70歳を超えた日本人が仕事をするのは難しいらしいことをネットで知ったから、中国は、観光だけすることにした。

お知らせに気付かない我が迂闊さ

2013年04月27日 | Weblog
先月初めに高柳さんから、厳しいことになった、膵臓癌の四期にかかっていると知らされた。
今月初めに夢枕に高柳さんが、立ったので、高柳さんのことが気になり、なんどかメールしたが何の返事もなく、紫藤さんに問い合わせていた。紫藤さんからも連絡がつかないというご返事だったので、気がかりではいた。
24日に高柳さんが亡くなった頃に、丁度、NHKIに貰ったディジタル腕時計が急に警報音を発しながら、分の数字が秒速で走り始めたのであった。一昨日にNHKのディジタル時計が寿命が来たと書いたが、その時は、ただ、うるさく感じて、その腕時計に布を被せておいただけなのだが、本当は、高柳さんからの寿命が尽きるお知らせだったのかもしれない。NHK から貰った時計が、警報音を発しているのだから、元NHK職員の高柳さんのお知らせと直ぐ気付かなければならなかったのに、気付かないでしまった。翌朝になっても鳴っているので、ただ、時計屋を捜して、音が出なくなるように、電池を外された哀れな時計は、私自身だ。慚愧に堪えない。

元NHK・TVディレクター高柳正幸さん逝く

2013年04月26日 | Weblog
たった今、紫藤さんから高柳正幸さんが24日に逝去されたことを知らされた。
1982年にNHK 教育TV の「悠久のガンジス』という番組に出演させていただいたのが、知り合って間もない頃のことであった。
爾来、私が企画したインド旅行に何回か参加され、その後、ラヴィ・シャンカル、ティヤガラージャなどの音楽番組を作られ、NHK のインド通で通っていたことは、言うまでもない。
NHK から異動された放送大学でもTV ディレクターであることを貫かれ、辛島昇教授とインド全般に亘る講義を作る仕事をされ、私もそれを拝見したが、私の及びもつかない知識を蓄えられ、彼のインド番組の総仕上げと言っていい、良い番組作りをしておられた。
退職されてからも、コルカタ、プリーなどにご一緒できたのが、今は懐かしい。
行く川の如くと言えるのかもしれないが、こんなに早く行くとは、秒単位のTV番組作りが相当神経に重荷だったのであろうことは、想像に難くない。
あの世でゆっくり休息されんことを。
合掌


昔NHKに貰ったディジタル時計が遂に寿命が来た

2013年04月25日 | Weblog
サダルバーザールに行って,時計屋を探した。昨日から,ディジタル腕時計の分が警報音とともに秒速で動いて,どんどん進んでしまう。時計のまわりについている4つのボタンを押しても全然止まらない。一晩放置しておいても止まらないので,せめて時計の電池だけでも取ってもらうために,出かけた。時計屋の隣の宝石屋に,時計屋は何時にくるか聞くと,11時という。10時半に始まる銀行に先に行った。ところが私が一番に行ったのに,これも小切手に2万ルピーと書いて出したが,支店長の署名がなかなか貰えず,待たされた。11時になってやっと貰えたので,時計屋に行ったら,分解できる係は,30分後に来るという。別の時計屋に当たったら,汗をかきながら,裏蓋を開けてみてくれ,回路が壊れているから使い物ならないと言う。警報音がうるさいので,電池を取り出してもらい,蓋をしてもらった。いくらか聞くと,いくらでも良いと言う。汗をかきかき作業してくれたので,20ルピー払ったら,満足そうだった。
このディジタル時計は、10年以上昔,NHKの仕事をした時に謝礼に貰ったもので,かなり古く、皮のプラスティクが劣化して剥がれて来ていた。この時計は,10年前迄はインドのヒマーラヤに行く時に使っていた代物である。十分お世話になった。

今日は、この大学が休み

2013年04月24日 | Weblog
今日は、先日行ったリライアンスというスーパーに行き、先日入ったカードの説明書を貰った。ポイントがつくだけかと思ったら、199ルピー払ったので一年間の生命保険にも入っていた。リライアンスというのが、保険会社だったと思う。スーパーを保険の勧誘に使っているのだ。
その隣の男性の頭のL'orealサロンというのがあったので、散髪に入った。髪を切るだけで100ルピーだった。ワルダでは、50ルピーでマッサージもしてくれた。
その近所の果物の屋台で葡萄を1キロ60ルピーで買った。ワルダの高いところと同じ料金だ。この辺りは、ジャバルプルでは物価の安いところだと女医ジョーティさんが言っていた。彼女は、昨日、御土産のキャシューを10個買って来てくれた。その店を教えてくれるよう頼んだが、難しいと断られた。
今日の日本語授業は、1:30からなので、迎車が1時に迎えにきた。昨日は、ジャイナ教祖マハーヴィーラの誕生日で州の休みで、一般の学校が休みで、今日は、この大学が休みなのに、理事長のドイヴェーディーさんが一緒に乗り、仕事に出かけた。インド人は働き者なのだと自慢した。事実、大学では、職員達が働いていた。

日本の製造会社に行く学生に日本語を教える

2013年04月23日 | Weblog
今日は、ジャイナ教祖マハーヴィーラ誕生日で休日なので、ゆっくりと寝ていたら、朝早く、学長秘書アワシェーシュ氏が9時半に呼んでいると、食堂の料理人が連絡してくれたので、急いで朝食を済まし、迎車で宿舎から8キロの大学に向った。途中の左側に500メートルおきくらいに見張り台が立っているのが見える。その奥が砲弾製造工場だからだ。このインド情報技術デザイン製造科大学に勤める条件に、大学を創った省庁から、禁止区域に入らないようにと指示があったが、近づいたら、いきなり銃撃されると教えられていたから、写真さえ撮るつもりもない。
アワシェーシュ氏は、私たちの雇用ヴィザ用書類を作っているので、その事で呼ばれたのかと思ったら、雇用通知をすでにしているから、その文中の条件で用は足り、雇用契約書はいらないと言われ、来月日本に行く学生に日本語を教えてくれるように言われ、物理学部の会議室に案内された。現在試験中であるから、その授業をするのは今週末かと思っていたのだが、日本に行く5人の学生のうち、3人が出席した。一人遅れて来た学生が「おはようございます」といって入って来たので、どうして習ったのか聞くと、一昨年の地震被災地に救援で日本に行き、女川などに行ったという。その時に日本語会話を習ったという。ヴィカースという学生で、次の授業があるからと途中で退席した。今日は、挨拶程度を教えるので、彼には不足であろうが、残りの授業で教える分は他の学生から教えてもらうと言って出て行った。約2時間教えて宿舎に帰った。宿舎の写真は、高級長屋である。

イムリーの実をしゃぶる

2013年04月22日 | Weblog
イムリーという木の実がある。甘酸っぱくて、私は割に好きな味で、インドでは酢の代わりに料理で使うらしい。長い事それがどんなものか分からなかったが、たまたま、今の宿舎の直ぐ近くの路上にその実が落ちているのを子供達が拾って食べているので分かった。サヤエンドウのような形をしていて、固い皮をを剥くと、繊維質薄い身が出てくる。それをしゃぶるのだ。固い種がその中に包まれている。

ブログページが開けなくなったので、一時他で書く

2013年04月21日 | Weblog
どういう訳か、このブログページが開けなくなったので、仕方なく、他でちょっと書いたが、今日たまたま、開け、書けるようになった。ameba という、ブログページに昨日書いたのだが、インドに関するページが非常に多いことが分かった。
こちらのほうが書き慣れているので、開けると直ぐ書けたが、開けなくした理由が、パスワードをこのページに書き始めてから、一度も変更していないから、保護のため、変更するようにというのが開けなくした理由らしい。それくらいの事でなぜという思いではある。
先日の金曜日は、ラームナワミーという祝日で、その日に、リライアンスというスーパーに行き、その店のカードを作った。会員になるのに、199ルピー掛かった。その近くにあるパン屋に行った。Oven Classics という店名だった。女医ジョーティさんの言われる通り、品数が豊富で、パンも色々の種類があるので、そこで買い食いしただけで、満腹してしまい。それが夕食になった。その近くに、果物の屋台が多く、ジョーティさんのいうように安いので、葡萄を1キロ60ルピーで買って来た。これはワルダの高いところと同じ料金であるが、ジャバルプルでは安い。帰途、雷雨に遇い、コブラグラウンドの休憩所で雨宿りした。このところ、乾期なのに、夕立に毎日のように見舞われる。