芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

やれやれほっとしている

2007年05月23日 | Weblog
4月初旬から5月半ばにかけて、『登米物語』の出版と「芳賀邸」の公開のために登米に詰めていたが、「芳賀邸」と『登米物語』について仙台放送とミヤギテレビで放送されたのを見たという人々や、「河北新報」の記事の切り抜きを持って訪ねて来た見学者が、ゴールデンウィーク中に殺到した上に、その方々に「芳賀邸」の説明をしている最中に、4月初旬に共同通信から配信されて全国の地方紙に載った『登米物語』に関する記事を読んだという人々からの電話による問い合わせが、毎日続いたのとで、昼食を採る暇もないくらいの忙しさであり、ゴールデンウィーク前半の受付の大澤さんも後半の受付お手伝いの小牧さんも大変だったことと思う。
小学校の隣りという道案内だったため、小学校入り口近くに住む人々も「芳賀邸はどこか」と大勢の人々からなんども聞かれたらしい。とんだ迷惑をかけてしまった。
5月6日に「芳賀邸」を閉館してからも、テレビ取材の申し込みや、見学者が来たが、お断りした。本当に疲れた。
嵐が過ぎて、今、やっと川崎麻生区の家に戻り、やれやれほっとしているところだ。
以前に測った体重計に昨日のったら、体重が2キロから3キロも減っている。
しばらくは、養生しなければと思う。懸案の用事もすませなければ。
それから、伊達宗弘氏の本を編集することになりそうだ。

慰労会

2007年05月09日 | Weblog
5月6日に大好評のうちに芳賀邸のゴールデンウィーク中の公開を終了できた。
仙台放送のテレビを見た、「河北新報」を見た、ミヤギテレビを見たという人々が次々と芳賀邸の見学に来て、マスコミによる反響の大きさを、現役時代以来久しぶりに実感した。
昼食を採る時間もないほどの忙しさだった。
5月10日(木)18:30に、この町おこしのイベントに協力してくれた登米の人々をお招きして登米のマルマン2階、ツイストアゲイン(tel.52-2240)にて、ほんの気持ちばかりの小宴を小生の主催にて開く。それまでは、まだ休息はお預けだ。
共同通信から配信された、『登米物語』に関する生活レジャー欄の記事を見た地方紙の読者が、西は、岡山から、東は茨城にいたる各地から、連日、『登米物語』の注文があるので、当分上京もできないで、登米に留まらなければならなそうだ。

『登米物語』「芳賀邸」お披露目式

2007年05月06日 | Weblog
4月24日に仙台放送の柳沢剛アナウンサーらの取材があり、25日の「河北新報」の仙台放送テレビ欄に「歴史の町登米市に新たな名所・芳賀邸公開へ」と載り、18:25頃から放送されて、芳賀邸と『登米物語』が詳しく紹介された。28日の『登米物語』「芳賀邸」お披露目式の日には、ミヤギテレビのオノトラ氏と、河北新報の村上俊氏がお披露目式会場と芳賀邸の取材に来て、「河北新報」は29日の宮城版に大きく写真入りで載った。ミヤギテレビは30日のニュースで40秒ほど放映されたのを見た人が、翌5月1日に見にきたので放送されたのが分かったが私自身はそれは見ないでしまった。その宣伝が、効いたため、ゴールデンウィーク中は、見学者が連日絶え間なく来て、それへの対応ですっかり疲れてしまった。
28日のお披露目式には、布施孝尚登米市長と中澤弘元登米町長の短い講演に続いて伊達宗弘氏に20分間講和してもらった。その後、私が閉めの挨拶をして予定どおり12時前にお開きとした。
午後2時から芳賀邸で岡谷地神楽の「おきな舞」と「崩し舞」を舞ってもらった。「おきな舞」は、80歳代の梅川利一氏が舞った。私が登米の町おこしをするきっかけになったのは、梅川氏の「登米観光といっても、くそ小便しに来るばかりだ」という2、30年前の言葉をずっと気にかけていて、ここでそのくそ小便を金肥に変えるための町おこしをするのだということを先日岡谷地の葛籠淵地区の総会に招かれた時に話したのと、この閉会の挨拶でも話したので、喜ばれ、数十年ぶりに舞ったのだという。町を元気づける運動は、岡谷地、大谷地の葛籠淵地区が頑張っているということも岡谷地在住の同級生の佐藤武夫君が作詞した「こっから音頭」に関連付けて閉会の挨拶で話した。
28日は、岡谷地の日という感をていした。