芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

朝鮮半島と日本の関係

2010年03月31日 | Weblog
先日の河北新報で、日韓歴史共同研究の成果が載せられていて、任那の日本府について、その言葉のあり方として、在安羅諸倭臣が相応しいと日韓双方の歴史学者たちによって認められていた。
任那の日本府については、『竹取物語』を現代日本語・ヒンディー語訳したとき、大伴氏が朝鮮半島に影響力を持っていたのが、その利権を放棄してから、急速に政治権力を失って行ったように理解できた。
しかし、日本の一部を支配しているに過ぎない政権が、なぜ朝鮮半島に任那の日本府という利権を持っていたのかについて、疑問を持っていたのだが、今回の説明で納得がいった。
私なりにその時に理解したのは、日本を支配していた政権が、朝鮮系であるから、朝鮮から移住して来た時に、ある程度の領地などを残して来たのではないかと思っていたのだ。しかし、それを海の向こうである日本から実行支配するのは難しいから、親戚の朝鮮半島支配者に頼んでいたのではないかとも推測していた。日本の統一をしてから朝鮮半島の支配に乗り出すのは、豊臣秀吉の代になってからだ。古代においては、朝鮮半島に親戚がいる人達が日本に進出して来たのだろうという想像はほぼあたっていたことになる。まだ、日本の統一も済んでいない政権が朝鮮に進出できる訳がないではないか。日本の統一が済んで次に大陸に出て行くのは、明治政権になってからだ。

外国人力士の受難

2010年03月30日 | Weblog
相撲の国際化については、朝青龍が日本人横綱を凌駕しそうになって、相撲協会から追放されるより以前には小錦が大関の時に人気もあり、横綱になるのに充分な勝ち星を挙げていながら、横綱審議会の推薦を得られなかった。その後ハワイ出身の横綱が輩出したが、小錦は人柄も良く、ユーモアもあって人気も高かったのに、相撲協会の面々から嫌われた。今も、年寄株を持ちながら、タレントの仕事をしている。
朝青龍に関しては、モンゴル出身であり、モンゴルは、モンゴル相撲の伝統がある。相撲は、日本の国技と言うが、元々宮中で行なわれていたもので、天皇と貴族が大陸から来たことを考えれば、騎馬民族説を持ち出すまでもなく、モンゴルの相撲の流れを汲んでいると考えられる。日本固有とか、国技とかいうが、そういうもので、日本にしかないものなどあってもごくわずかではないか。外国から伝わって来たものの形を変えて、伝統的なものにして、それが国技だからと、外国人に道を閉ざすのは、モンゴルからすれば、廂を貸して母屋をとられるの類いであろう。
モンゴルという国は、かつては、中国からヨーロッパまでの巨大な帝国を築いた、誇り高い国である。ジンギスカンの武勇は、インドにも鳴り響いているのだ。その子孫を自称したのが、ムガル王朝である。

大相撲大阪場所日馬富士を破り白鵬優勝

2010年03月29日 | Weblog
大相撲大阪場所が、白鵬の全勝優勝で終わった。白鵬の一人横綱で相撲人気が持つかどうか懸念されていたのではないか。バルトが14勝で大関昇進が決まり、これも相撲人気を盛り上げた。優勝を左右する千秋楽の取り組みは、外国人力士だけに絞られた。
今や、外国人力士なしには大相撲は成り立たない。相撲協会は、強い日本人力士に出てほしいのであろうが、相撲協会の意図とは裏腹に、大相撲の現実は国際化している。
先日の河北新報に朝青龍が、相撲協会を批判しているように報道されたのは、通訳の間違いだと、東京外国大学のモンゴル人教師が語っていた。
朝青龍がそのまま横綱を続ければ、日本人力士の記録を上回ったであろうともその記事で記されていた。
相撲はNHKの独占放送であるから、つい先日まで、Foolish Bush 支えた小泉政権の自衛隊イラーク派遣などを後押しして、米国流のいわゆるグローバル化を海老ジョンイルが率先してNHK一体となって進めて来た。しかし、その海老ジョンイルは、つい先日まで横綱審議会の会長をつとめ、横綱などは、日本の伝統であるから日本のしきたりに従わなければならない、それに反した朝青龍は横綱に相応しくないと決めつけて来た。国民に米国化=グローバル化を煽動していながら、自分たちの利権である相撲協会では、国粋主義を通しているのだ。国技という言葉もご都合主義だ。

佐藤元大工さんの車で登米インターから東和インターまで乗せられる

2010年03月28日 | Weblog
三陸自動車道が、登米インターから東和インターまで先週5キロメートル延伸した。
お茶を飲みに来た佐藤元大工さんが、その延伸した五キロメートルを「走ってみっからいがねすか」という。東和インターを降りたあたりに原田甲斐の墓のある寺があるともいうので、かねてから東和町米谷のどこにあるのか分からずにいたためと私が車がないため、行きそびれていた。是非乗せて行ってほしいと渡りに舟で佐藤元大工さんのHONDA車に乗せられて行った。北上川に架けられた大きな橋を渡り北上山脈に入って直ぐの山中に造られた東和インターを降りてちょっと戻ったところにその東陽寺という古寺があった。米谷小学校の直ぐ脇で、本堂は江戸時代末期に焼失して再建されたものだが、山門は相当古く、いかにも由緒ありげな建物である。この地にいた柴田氏が原田家の取り潰された、その跡地に封じられて行ったあと、原田氏が鐘楼を寄進した故地の東陽寺から、原田氏の家臣がその鐘楼の鐘の中に原田甲斐の首を隠して、海路石巻を経由してここまで運び、埋葬したのだと、説明書きにあった。自然石(佐藤元大工さんは「じねんせき」と言っていた)の墓には偽名が彫られているというが、苔むしていて分からない。墓には屋根がかけられている。その後にある大乳銀杏を墓の目印にしたという。木の太さが8メートルという古木だ。
伊達騒動については、『登米物語』に比較的に詳しく記したが、仙台伊達藩の正史を元にしているから、当時、殿中と同じ扱いの大老酒井邸での刃傷沙汰で、できるだけ累を及ぼさないように決着したのではないかと推察されるのだ。
実際のところはどうだったのかよく分からないところがあり、悪者に仕立て上げられた原田甲斐一族については、気になっていたのである。
佐藤元大工さんも原田甲斐の墓を見るのは初めてだそうで、今、建築中の本堂庫裡が竣工したらまた見に来ると言っていた。
この東和インター付近には、格別観光名所はないが、この東陽寺は一見に値する。

菅家利和さんと西山太吉さん

2010年03月27日 | Weblog
足利事件の菅家利和さんの無罪が確定した。見るからに人の良さそうな顔である。裁判官は頭を下げて誤審を謝ったが、警察と検察はそれで自分たちの分も謝ってもらったということだろうか、沈黙したままでいる。検察は控訴しないからそれでいいだろうということか。
司法というのは、間違っても、違法なことをしても罰せられることはない。あとになって指摘されるだけだ。司法は一枚岩である。
足利事件のときに、マスコミがどういう報道をしたか。おそらく、検察の流した情報を垂れ流したであろう。
これについて、思い出すのは、以前にも記したが、沖縄返還時の密約報道で、密約があったことを米国が明かしたあとも、密約はなかったと言い張り続けた佐藤栄作政府を弁護した司法である。民主党新政権になって、密約があったことを暴露したが、その当時、マスコミを情報操作して、報道の自由を侵害する形で、有罪判決に持って行き、毎日新聞の記者を退社せしめた。これなども、マスコミが今になって、謝るべきことであるが、頬っかむりのままである。
この国は米国に似せて、民主主義を標榜する国なのだから、その根幹の憲法に保障された報道の自由を尊重すべきなのだが、政府と司法は一体になって、それを蹂躙したのだ。これについての謝罪も含めて、まずは、当時毎日新聞の記者だった西山太吉さんを罰したことについて、誤りであったことを認めるとマスコミも一緒になって声を上げるべきである。西山太吉さんも一生を棒に振ったのである。しかし、臭いものにはふたで終わるのであろうか。

八幡宮から登米神社へ、そしてその八幡宮跡地は

2010年03月26日 | Weblog
伊藤久くんの住んでいる八幡崎は、本来、八幡前と書くべきなのであろう。というのは、現在、道場の山の上にある登米神社は、源頼義、義家親子が辺室山地区に造った八幡宮が慶長11年に伊達宗直によって遷座されたので、その八幡宮が以前にあったところということで八幡崎というからだ。(『登米物語』より)
その八幡前の八幡宮があったところに、昨年、北上園という、特別老人ホームが造られた。北上園は、それまで、他の老人ホームのあるとこころにまとめられていたのだが、八幡前に移転して新築された。
それと同時に登米病院が廃院になった。そればかりではなく、今年に入って、その廃院になった登米病院の建物を取り壊すのだそうだ。その取り壊しに応募した企業が談合をしていたという記事が河北新報に載ったので、分かったことだ。北上園の理事長をはじめとして、その理事たちは、前町長と役場職員たちで占められている。病院と学校は、町づくりの中核である。その病院を廃院にして、今までの老人ホームを移築し、さらに、病院の建物を壊して、その跡地をどうするのであろうか。町づくりとは逆の利権転がしをしているとしか見えない。それに対する町の人の批判が聞こえないから、みんなが認めているということか、それとも、不審の眼でただ見ているだけなのか。いずれにしろ、町は壊れて行く一方だ。このようなやり方が全国至る所にあるのかもしれないが、これで地方分権もないものだ。

久しぶりでズワイガニを食べる

2010年03月25日 | Weblog
天気予報通り、朝から雪である。しかもぼた雪であり、そこそこ積もっている。佐藤元大工さんが、昼過ぎてから、大阪の通販のカタログを持って来て、私が先日、札幌の道央物産というところからかかって来た電話でズワイガニを2キロ1万500円で買ったのに対して、「年末はその値段だったげんと、今は、もっと安いのっしゃ」と見せてくれた。それを見ると、5キロでも1万円しない。佐藤元大工さんは、「今年は不景気で売れながったがら、今、安く売ってんだおね」と言う。
カタログ販売も、しかし、ものを確かめられないから、来てみたら、安くて悪いものがあるかもしれないのではないか。
「売れなくて困っている人達の、少しは足しになったべがら」と負け惜しみを言っておいた。
とはいえ、ズワイガニの片方の足を5本程持って行ってもらったら、昨日買って食べた毛ガニが一匹残っていたと、わざわざ持って来てくれた。
⒉、3年前にも、塩釜の市場から来たと言って、マグロを売りに来たので、良いものかと思って買ったら、わずかの量で一万数千円したが、味は良くなかった。どうも、電話勧誘や、フリでどこそこから来たと言って売りに来たのは買うべきでないらしい。しかし、一方で、そこまでして売ろうと一生懸命なのには、買ってやりたい気分になってしまうのも仕方ない。



久しぶりに守んツアン、照るちゃんと呑む

2010年03月24日 | Weblog
一昨日、伊藤久くんの母堂が亡くなり、昨日の夜7時にAコープ前に集まって焼香に行くという連絡があった。
伊藤久くんは、ひところ、東京の同級会がある時に、トヨマからの参加者を車で送る運転を引き受けていた。私も一度、山形の温泉で同級会があった時に、東京から出席し、そのまま、登米に来る時に乗せて貰ったことがある。それと、久くんの奥さんに、私の家で最も信頼している小作人の家から嫁いでいる関係で、単に同級生というだけではなく、親しみを覚えているから、焼香に行った。八幡先という少し遠いところなので、照るちゃんの車に守んツアン、元ちゃんとともに乗せられ、行ったあと、この辺のしきたりで、「みはらい」という呑み会を「和」という飲み屋でした。
照るちゃん、守んツアンとは、久しく呑み会をしていなかったので、盛り上がった。先日、同級会で、来年トヨマの同級生が中心になって古希の同級会を開くことになったが、東京の人達がそれに参加するかどうかなど、可能性についても言及された。
それから帰宅して、このブログを書くにあたり、今までのgooブログとは別に新たにgooブログに登録しなおして開設しなければならず、手間取って一旦そこに書いて公開したのだが、今日、また再度前のブログを開いてみたら、できたので、今これを書き終わったところである。前のブログと昨日のブログは連続性を維持していないので、goo以外のブログにあらたにブログを開設して載せようかと思っていたが、取りあえず、できたので、このままこのブログを続ける。

部落総会のお弁当

2010年03月22日 | Weblog
昨日、お昼を食べ終わった頃に佐藤元大工さんがほうれん草を持って来てくれた。先日、私が作ったほうれん草の茹でたのを長谷川俊雄くんにご馳走したと言ったので裏の畑でほうれん草を見たら、まだ小さいもので、自分のがもっと、立派におがっているので、持って来てくれたのだ。私の作ったのは、ちぢんではいるが、色も濃く、小さいのが気にならなかったが、佐藤元大工さんのを見て、こんなに伸びているのかと驚かされた。知らなければ、自分のが一番だと思う、トヨマの人達と自分が同じになっていたのだ。しばらく、おしゃべりをして、佐藤元大工さんが帰っていったあとで、同じ館山の人が大きな弁当を持って来てくれたので、今日の2時から館山部落総会だったことを思い出した。すっかり忘れてしまっていた。昨年の館山部落総会に出席したが、その時も、昼食を済ませて2時ころに行ったのに、弁当が出た。30センチ四方の大きな弁当であるが、中には、海老やハムバーグなど、様々なおかずがはいっている。しかし、私はバムバーグなどの肉の中に何が入っているか分からないので、食べない。良くいわれるのは、ミミズなどの肉がはいっていると言う。若い時は、外食で何でも食べたが、今は、食べるものには気を遣っているから、味付けもなんだか分からないので、できるだけその食物の素性が分からないものは食べないようにしている。結局は、ほとんど、食べずに器ごと裏の畑にそのまま棄てて、猫やヒヨドリのえさにしてしまった。2時の始まりなのだから昼食は終えているのであって、弁当などいらないのだが、なぜか、部落総会では弁当を出すのだ。無駄なように思うが、欠席したのでそうもいえない。

マルマンのイギリスパン

2010年03月21日 | Weblog
今日は、予報通りの強い風が昼近くから吹いている。春一番といっていいような強風だ。今日は出かけるのはよしておく。
昨日は、町の人を褒めたばかりではなく、丁度行き会ったマルマンの寿さんに「この間買ったイギリスパンは、ショッペガッタよ。塩を間違って入れ過ぎたんでねえのが」と、たしなめておいた。
その話しを佐藤元大工さんにすると、「ちょこっと、とって味見すねんだべが」と言って、同じ職人としての心がけであるような言いぶりだった。
私は、子供の頃、屋敷の中でいつも大工さんが何か仕事をしているのを見ていたので、「将来何になりたいか」と聞かれた時は、「大工さん」と言っていた。実際には、そういう仕事には就かなかったが、就いた編集者という仕事は、一種職人的な仕事の面もあった。
佐藤元大工さんが、失業者たちが、仕事をしないでいるのに対して、その気になれば何でもできるという意見を言っているのに対して、それは、だれでも彼でも進学して、楽なサラリーマンを志向する今の仕組みを変えて、もっと職人を育てるなどの仕組みを作り、早くから職人を養成するのでないと、技術も残せないのではないかと話している。