芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

インド旅行は来年2月に

2006年11月29日 | Weblog
木我さんのお嬢さんたちが行きたいという年末年始インド旅行は、1月7日(日)の帰着便が、現在150名もあふれていて、たとえ私でもとても席を取れそうもないし、仮に取るとなると、年末料金で運賃が通常の3倍な上に、席確保のためにさらに相当の出費を覚悟しなければならないから取りやめにした。
木我さんたちと一緒に昨年末年始インド旅行をした水野明さんの五反田のお店で食事をしながら、お嬢さんと顔合わせして、2月10または11日出発で18日帰着のインド旅行をすることにした。他にもインドに今まで同行した人を誘って、その人達の希望する行き先に彼女も同行することで良いことになった。水野さんは、わが田舎の芳賀邸に最近私の留守中に来てくださったそうで、もう少しお話ししたかったが、水野さん家族も店で食事会なので辞去した。水野さんには飲食代を割り引いていただいてしまった。
インドのどこに行くか、これからその2月の旅行に参加する人達と相談だ。

「瀬戸内寂聴 作家生活五十周年お礼の会」に参加

2006年11月28日 | Weblog
昨11月27日(月)18時からの「瀬戸内寂聴 作家生活五十周年お礼の会」に参加。会場入り口で一人一人挨拶をしてくださったので、私もそこでご挨拶をしたから、会場に2時間足らずいて失礼した。寂聴さんの挨拶によると、5年前に文化功労者に選ばれたとき、そのあとすぐに、文化勲章が来ると教えられて、その時のために衣装をこしらえて待っていたが、中々来ないので、諦めていたとのことであった。会場費はパレスホテルが無料で提供してくれたのだそうだ。国際ノニーノ賞を受賞してイタリアに行ってその醸造元のノニーノ家で馳走になった酒がおいしかったので、今回それを注文したら、お祝いに送ってくれた由、45度というその蒸留酒は確かにうまかった。
初期の編集者なども来ていたので、久しぶりに会った編集者たちと次々と話して、豊富な料理を美味しく頂いていたら、たちまち時間が過ぎた。
パレスホテルは寂聴さんの常宿だし、文化功労者も文化勲章もここからすぐそばの皇居に出かけて行って受章したげんの良い宿でもある。
源氏物語現代日本語訳の最後の原稿もここで受け取り完成できた。
源氏物語のキャンペーンをしたときに最初にインタビューしてくれたNHKの村上アナウサーも来ていて、もうだいぶ前だから、お互いにどこかでお目にかかりましたねと言って、自己紹介して、ああ、あの時のと分かり合えた。

年末年始インド旅行

2006年11月26日 | Weblog
年末インド旅行を予定していなかったが、昨年末年始にインドにご一緒した木我八重子さんが、「うちの娘をインドに連れてって」というので、今から年末インド旅行の席を取るのが難しいかもしれないが、やってみることにした。どうせだから他にも希望者を捜して、数名にして行ければ良いと思い、声かけをしなくては。席を取るのが難しい時期で、いったん、予約して席を取ってもらえたら、断れないから、最終的には私一人でも行こうと思う。満席の中に席を取るのは難しいかもしれないが。行き先は席が取れてから決めれば良い。

教育基本法

2006年11月25日 | Weblog
米国の政治情勢の変化のおかげで予想通り円高が始まった。このまま、引き続き円高が110円くらいまで進行して、インドにご一緒したいという人が出てくれば、ひょっとして、年末年始にインドに行けるかもしれない。
田舎の家の暖房などは石油によるから、1月の半ばにインドから帰って来たときに、灯油が値下がりしていれば、田舎での生活も少しは経済的に楽になっているであろう。
全く、戦争で金儲けをする政治家を選んでしまったため、ろくでもない数年を過ごしてしまった。
戦争政策で殺されたイラークなどのイスラーム教徒の恨みは大変なものであろう。
時の政権に批判的な分子は、排除される法律ができて、今後の永い目で見ても、教育基本法が改定されれば、これからは、孫子の代までますます批判しにくい雰囲気が作られて行くであろう。
年金やら、医療費やら、介護費やら、負担ばかりが増大して、それも批判できないのだから云うことはもうないのではないか。
孫子はますます長いものに巻かれて生活して行くとして、田舎の古家も修復成って、先祖に対する私の積年の責務を果たしたからには、インドの共同体の防犯のしっかりしている所ででもゆっくりと暮らせると、嫌な権力政治を見なくて良い。
その前に、『登米物語』を出版するから田舎政治にちょっと関わってからになるが、あまり長くは引きずりたくない。

烏骨鶏の卵

2006年11月23日 | Weblog
11月18日、二回目の呑み会をわが旧家でしたときに、秀雄ちゃんが烏骨鶏の卵をたくさん持って来てくれた。彼は、小学校時代から鳩やウサギを飼っていて、今でもかなりの数の鳩を飼っているそうだ。ウサギは子供の頃よく、その皮を耳当てにしたり首巻きを作ったりしているのを目にした。烏骨鶏の卵は、1週間に1個しか産まないのが普通だというが、秀雄ちゃんの飼い方だと、2個くらいまで増やせるようだ。庭に放していて、近所の猫に数羽獲られたらしいが、それでも10羽くらい飼っているという。
輝ちゃんと分けて、翌朝醤油をかけて生で食した。
源氏物語の原稿を貰うため京都の寂庵に泊まり込んでいた頃、寂聴さんが山のように貰った烏骨鶏の卵を毎朝同じようにしてご馳走してくれた。
ある朝供された烏骨鶏の卵を割ると、中から黒い羽が出て来た。食べきれずに日数を経て孵ってしまっていたのだ。
烏骨鶏の卵で出来たカステラがあり、母が好きなのでよくお土産に田舎に持って行っているが、烏骨鶏を田舎の身近の友人が飼っているとは知らなかった。

芳賀邸の画廊

2006年11月21日 | Weblog
紫藤クリニックを高田馬場で開業している精神科医の紫藤昌彦さんから、「ここは大人になり過去のしがらみは水に流して参加するのが宜しいのではないかと」いうメールを頂いたからだけではないが、「瀬戸内寂聴 作家生活五十周年お礼の会」に参加する旨の返信をした。当日は、儀礼的にお祝いを述べて早々に失礼するであろう。
田舎に行って、新米を倉に入れ、柿をもいで来た。新米を1度に4袋も搗きに精米所に運ぶのは、手押し車では難儀だから、輝ちゃんの車で運んでもらったので助かった。
お礼にその夜は、我が家で、一緒に呑んだ。志田秀雄ちゃんも呼び、改装なった古家の一室をギャラリーにして、絵を飾りに来ていた大澤和泉さんも加わり、4人で遅くまで呑んだ。
帰りがけに古家の出来上がった各室と絵の飾られた画廊を輝ちゃんと秀雄ちゃんに見てもらった。彼らが最初の見学者だ。
昼に輝ちゃんに貰った紫しめじの汁を食べてもらおうと思ったが、茸採りの話しなどが弾んでご馳走せずに終わった。
「もうキノゴは終わったがら全然取れねえ」と言っていながら、翌日、輝ちゃんが車で迎えに来たので、山に入った。確かにキノコはなかなか見つからなかったが、諦めて、待っている輝ちゃんと大澤和泉さんの前に私が結構な量のヤマドリ(根っ子もだす)を取っていって見せた。輝ちゃんのおかげで、今年最後の茸を採れた。
午後は、大澤和泉さんと軍場山に柿もぎに行った。3本の木の下のほうはすでに誰かに盗られていたが、それでも半分も取りきれず、後は、全部烏などの小鳥のえさに残して暗い道を帰って来た。
その翌日は、家の柿を取り、文句を言われつつも大澤さんに皮むきをしてもらい、200個以上の柿を干した。
芳賀邸での大澤和泉展の河北新報による取材も終わったので、今回の帰省の目的は全て達成した。

円高でインド旅行再開

2006年11月09日 | Weblog
米国で、ブッシュのイラーク侵攻に反対している民主党がやっと中間選挙で勝った。これで、円高に切り替わるであろうから、私もインド旅行を再開しようと思う。今年1年は、あまりの円安と原油高で旅行に行く気がしなかった。
もっぱら、田舎の古家の修理と母の介護に明け暮れた。
何と言っても、政権を握る石油資本の御曹司が、原油で金儲けする間は、模様眺めするしかなかった。これで、イラークは、金儲けの種になりにくくなったから、共和党に勝った民主党の米国人たちは別の金儲けを考えるであろう。どちらにも禿鷹ユダヤ人は大勢ついているのだから。
日本は、相変わらずの米国頼みだから、政治は変わらないであろう。
五大学レガッタというのがある。東京外国語大学、東京工業大学、東京海洋大学(元は東京商船大学)の三大学に、私が卒業してから筑波大学、防衛大学校が加わっての五大学で構成するボートの対抗レガッタだ。
先日その懇親会に出席して防衛大学校卒業生と話していたら、その一人が日本の石油政策の重要性から、派兵の必然性に言及したので、原油価格の決定権は、世界の生産量のたった数%の生産量の米国テキサスで決められているのだから、米国の横暴を押さえない限り日本の石油政策も思うようにいかないと言ったら、黙り込んで、ほかに行ってしまった。防衛大学でも、米国を批判するのは憚られているらしい。

瀬戸内寂聴 作家生活五十周年お礼の会

2006年11月05日 | Weblog
「瀬戸内寂聴 作家生活五十周年お礼の会」を文化勲章の受章を機に開催するから、「非才の私をお見捨てなく、常にお心にかけていただき叱咤激励して仕事をさせてくださった現場の皆様に心ばかりのささやかなお礼の小宴を開かせていただきたく」出席してほしいという案内状を頂戴した。
寂聴さんは、人の心を捉えるのに非常に長けているから、偉い人だけでなく、私のような地位のないものにも心配りをするのだ。
当日は、お祝いの品などは堅くご辞退されるという。
ささやかな小宴と云っても、いったい何名の人を招んでいるのか分からないが、五百名以上も入るパレスホテル「ローズルーム」で立食パーティーを開けば、一人当たり最低でも1万円はかかるだろうから、相当の出費を八十四歳の女性にしていただくことになる。
『源氏物語』の現代日本語訳をしてもらい、叱咤激励したことは確かだが、それはまだ七十代半ばまでのお元気な老体にむち打って働かせたころのことであって、八十代半ばの今も当時ほど稼いでいるとは思えないから、やはり、収入の減った方にそんなにしていただくのは心苦しい限りだ。
『源氏物語』現代日本語訳は、私がかかわっていた当時でも二百五十万部超売れて、多くの人にそれにかかわってもらった。最終的には、後からその仕事にかかわって来た人達に私は排除され、会社を追われるようにして定年退社した態だ。
ひょっとして、あのとき『源氏物語』ご苦労会なるものを会社側八人、寂聴さん側二人で開いて私を排除し、仕事を奪った人達もこの会に出席するかもしれないから、お互いに会いたくない人に会うことになるやもしれないなあなどと思っている。
定年前の二年ほどは、文字通り窓際で企画を受理されず仕事を何もしなくていい状態で、仕事と云えば、別の部署に移動するかどうかで自分の部署と異動先の責任者と交渉するだけだったから、インド旅行に専念した。お互いに顔を合わせないように席にいないようにして自ら引いたのだ。
大体において、今、寂聴さんの仕事に深くかかわっているであろうその人達が良くまあ私をその会の出席名簿に入れてくださったものだと思う。
というわけで、そのような偉い人達とは、顔を合わせないようにして出席すれば良いかなどと今は思い悩んでいるから、出欠のはがきを締め切りの十六日まで出し渋ってしまいそうだ。

共同通信の「おしゃれモダン」を主に大澤和泉展

2006年11月04日 | Weblog
大澤和泉展が、神保町のギャラリー福果で11月11日(土)まで開かれている。5日(日)休廊だが、初日から新聞、出版関係者が大勢訪れている。2年前に銀座のギャラリー瀧山で開催した時は、マスコミ関係者に相当数の案内をしたが、その時に観に来たマスコミ関係者は、共同通信の旧知の神谷純氏と、高校同級生でクラレの社長を務める和久井康明氏が伴って来てくれた日本繊維新聞社の聖生清重氏だけだった。今回の展覧会は、その折に大澤和泉の絵を絶賛した神谷記者から、共同通信に文章と絵の紙面を提供されて10回連載した「おしゃれモダン」の原画と文章を主に展示している。共同通信から配信されている地方紙には、すでに掲載中で、案内状を出していない産經新聞、勉成出版などから見に来ているのもその配信の影響と思われる。大澤和泉の執筆活動がマスコミの間に着実に定着し始めている証だ。今回は、特に共同通信の神谷記者の提案で文章も書いていて、その文章の才能をも見抜いた神谷記者の眼力に脱帽である。