芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

ご飯を焚いて食べてみる

2012年01月31日 | Weblog
1月26日昼食から食堂が再開した。壁がすっかり白く塗り替えられて、何事もなかったかのようである。
しかし、宿舎の部屋で食事する癖がついて食堂では、夕食しか食べない。夕食に時々鶏肉カレーが出るせいもある。あとは、ほとんど、菜食だ。
25日の夜、炊飯器をバーザールで買ってきたので、インドで最高といわれるバスマティー米を炊いて食べてみた。もともとは粒が小さいが、相当大きくふやけて増える。しかし、水を多めにしてもぱさぱさした感じは取れない。香りがいいから、結構いけることがわかった。残ったご飯を雑炊にして食べたら、日本で食べるのと変わらずにおいしい。しかも、やわらかすぎずに食べられる。これだと、食堂でご飯を食べるのは、一日一回ですむ。
相変わらず、インターネットが宿舎でつながらないので、研究室まで出かけなければならない。

ナーグプルのディークシャ・ブーミ(仏教に改宗の地)

2012年01月28日 | Weblog
一昨日、26日は、インドの共和国記念日で、休日にあたり、以前、日本語を習ったことがあるといって、新聞で私のことを知って訪ねてきたローハン君がまた数日前に訪ねてきて、その日にナーグプルのディークシャ・ブーミで仏教の大きな祭事があるから、出席してほしいという。同席したタイのキティポンさんも誘い、中国の学生も誘ってくるように言った。結局、総勢15人くらいになって、その車も2台手配してくれた。
当日、14時に迎えに来て、まず彼の家に寄ったら、インド式の歓迎の花輪をみんなで首にかけられ、足を洗ってくれ、菓子をご馳走になった。その歓迎式には、彼のおじさんでワルダ市議会議員が二人出席してくれた。
彼の家を15時ころ出発して、ディークシャ・ブーミに16:30ころ到着した。
ここは、マハートマー・ガーンディーと同じころの政治家で、最下層の出身のアンベードカルが、5000人ほどの同じ下層民とともに、1956年10月14日に集団で仏教に改宗したところで、今は、ストゥーパがありその中に仏舎利が収められている。川わらにアンベードカル大学が併設されている。仏教徒にとって、聖地となっている。
ストゥ-パの四方にサーンチーのストゥーパのトーラナをまねた門が立っている。
ここで、18時から、儀式が始まることになっていたが、例によって、遅れ、19時始まりで、結局みんな長々と演説するので、終わったのは、22時近くであり、それから2台の車でローハン君の友達に送られて、帰途、食事をとったが、それもてご馳走してくれた。
彼らは、仏教徒で、この地域に相当数いるのであろう。広い公園の会場に相当数の人たちが参加ししていた。
翌日、彼に電話でお礼したが、彼らも大勢外国人が参加してくれてよかったと喜んでいた。

この大学に呼ばれる日本の俳人

2012年01月27日 | Weblog
この大学に呼ばれる俳人は、宮下恵美子さんという俳人であるとわかった。英語で俳句を創っている英語に堪能な人だから、語学部長の許可がおりた。
タゴールの研究者でもあるようだから、タゴールについて話して貰うと、他の語学部の学生にも分かる一般性が出ていいかもしれない。
今年は、日印友好60周年であるが、タゴールの150周年でもある。それに合わせてデリーで催事を行なうので、日本からも御招待で来るようだし、私自身も、往復交通費、滞在費主催者持ちだという。このような、面倒を引き受けてくれる人がいるから出来る催事であり、その上に、私の大学に、日本人講師としてそこから派遣してくれるとまで言って下さるのだから、ありがたい。
昨日一昨日は、インターネットがなぜか繋がりにくかった。今朝は快調である。

俳人が日本から

2012年01月24日 | Weblog
この大学に呼ぶ詩人というのは、俳人のことらしい。英語も出来るというから、今日、学部長に話して、呼ぶ準備にかからなければならないかもしれない。
先日、ラーイ学長に朝逢ったとき、日本語科に修士課程の大学院も設けると言われたから、それに関連した授業に出来る。幸い、学部長がその気になってくれたから、あとは、日程を決めればいい。

デリーでのシンポジュームの後、戻りが流動的になる

2012年01月23日 | Weblog
デリーでの日印友好シンポジュームを企画しているデリー大学教授に問い合わせたら、この大学に来る日本の詩人は一人だと言う。
何も決まっているわけではなさそうだ。そうなると、コチラの大学の都合も聞かねばならない。
日本の詩人って誰かもまだ分からない。タダ、日本語しか出来ない詩人だったりしたら、私が通訳するしかない。どんな詩か分からないから、それによっては私が訳せないかもしれない。いずれにしても、私がその受け入れの係をしなければならない。
学部長からは、もっと詩人の詳しいことが知りたいといわれた。

日本の詩人二人がこの大学に来ると言う

2012年01月22日 | Weblog
朝、久しぶりに散歩に出たら、アーサームから来ているジョーティシュさんがいっしょに行くと言ってきたので、適当に戻るつもりで歩いて行くと、カビール丘に連れて行かれ、そこにラーイ学長が昨日までの催事にムンバイから来ていたお客の案内をしていた。このお客の接待をジョーティシュさんがしていたから、そこにいることを知っていたのだ。
その帰りに、ラーイ学長の家に呼ばれ、庭でお茶をご馳走になった。学長に3月3、4日にデリーでの日印友好60周年記念行事のシンポジュームに呼ばれているから、飛行機で行く場合、大学の車を使えるか聞いたら、私用になるから、タクシーで行くようにと言われた。
ところが、夕方、この大学の理事をしているガンーガープラサド氏が部屋に来て、そのシンポジュームに参加するため日本から来る詩人二人が、この大学に来るから私に受け入れの係をするようにと言われた。
私としては、自費でタクシーをナーグプル空港までやとうと1200ルピー掛かると言うから、汽車でデリーに行くつもりでいたのだが、詩人二人は飛行機で来るであろうから、一緒のほうがいいのではないか、そうなると、私も飛行機で帰ってきたほうがいいかもしれない。
彼ら詩人二人の予定を調べねばならなくなった。

学生のオートバイに乗せてもらい、食料の買出し

2012年01月21日 | Weblog
食堂は、修復中だが、いつから食べられるようになるか。最初は2,3日でと言っていたが、新しい冷蔵庫を入れる前に、煤けた壁を塗りなおさなければならないから、相当日数がかかるのではあるまいか。ちょうど、日本から餅などが送られてきたので、毎日、昼は麺、夜は餅である。昨日の授業に、日本から送られたかりんとうと煎餅を持っていって学生に食べさせたら、おいしいと喜んで食べていた。似たよう菓子がインドにもあるという。いろいろな地方から来ている学生だから、それぞれの地方で、それぞれの食べ物があり、初めて見たという学生もいる。
授業が終わってから、街から通ってきている学生のオートバイに乗せてもらい、朝のパンがなくなっているので、パンと野菜、卵を買いに行ったら、帰りに40分くらい歩く道をまたオートバイで送ってもらった。彼は、今までの化粧品セールスの仕事をやめて、蓄えで食べているという。両親は街から12キロ遠方に住んでいて、自分は、間借りしているという。それでも、授業料を払ってディプロマコースをうけられるのか気がかりである。

Birsa Munda Hostel 完成祝い

2012年01月20日 | Weblog
爆発した冷蔵庫を日本製冷蔵庫だと言ったバッチャという日本語学生に遇ったので、誰からそのことを聞いたかと聞くと学生からだと言うから、その学生に日本製冷蔵庫ではなく、godrej 製だと訂正させるように話した。マスコミ科のくせに情報の裏を取らないのでは駄目だと言ったらその通りだと言い、聞いた学生に、訂正させると約束をした。バッチャによるとgodrej は元々、錠前の会社だという。
今日は、Birsa Munda Hostel と言う、新しい学生寮が出来た完成祝いの日で、学生が誰も出席しなかった。
この地方のムンダという部族を指揮して英国から独立の戦いをしたBirsa Munda という人の名前を宿舎につけたのだ。ビルサはやはり、英国軍に最後は殺されたという。
夕方、学生のいない教室を中途で切り上げ、その祝賀会場に行き、学長達の挨拶を聞いてから、ムンダ族の踊りを見て、そこの厨房で作られた料理を食した。
100人以上泊まれる学生寮で、もう入室している学生達が食事を供してくれた。

爆発したのは、日本製冷蔵庫ではない

2012年01月19日 | Weblog
爆発したのは、日本製冷蔵庫ではないことがわかった。パナソニックではなく、Godrej という会社の冷蔵庫だと言う。
今日、食堂と厨房を見に行って、既に冷蔵庫が片付けられていたので、聞いたら教えられた。我々外人用の食堂も一般の食堂も天井がすすけ、食堂と厨房の間のガラスが吹き飛んで、厨房の中は真っ黒にすすけている。
写真を撮ろとしたら、禁止されていると止められた。気になるので自室の冷蔵庫も見たら、Godrej とBoyce という会社の合弁会社の製品である。Godrej は調べると、元々、不動産会社である。
それにしても、日本製冷蔵庫だといった、マスコミ科からきて日本語を学んでいる学生は一体どこからそんなことを聞いて言っているのか、今日、追求しなければならない。

爆発したのは、日本製冷蔵庫

2012年01月19日 | Weblog
教室で、食堂の厨房の冷蔵庫が爆発したと話したら、みんな知っていて、日本で、冷蔵庫が爆発したなど聞いたことがないと言うと、爆発したのは、日本のパナソニック製だというので、黙してしまった。朝の4時ころに激しい爆発だったから、眼を覚ましたかと言われたが、そんなことは知らなかった。副学長の家が食堂から近いせいか、学長が留守のせいか、副学長が朝から食堂前に来ていた。
結局、夕飯も食堂で食べられなかったので、日本ののり餅とあんこ餅を食した。