芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

マスコミの役割

2006年03月31日 | Weblog
中国大陸を蹂躙した日本軍を憎む中国人が多かったであろうことから、捨てられた日本人の子供を育てることに対して非難囂々だったであろう。それでも日本人の遺棄された子供たちを育ててくれた中国人たちの心の広さに感嘆もし感謝もする。
おそらく朝鮮にもそういう遺棄された子供が相当いたのではないかと想像される。何しろ、敗戦をいち早く知った軍隊とその関係者は日本人民間人を遺棄して真っ先に汽車に乗って逃げたのだから、遺棄された日本人民間人は、それまでの日本の軍や警察による弾圧を受けた朝鮮民族たちから報復を受けて、子供も捨てて命からがら逃げてきた者もあったであろう。
その様子は、ロシア兵に若い両親と共に襲われた五木寛之の、最近告白した一連の文章からも想像される。
拉致されてきて日本の炭坑や工場で働かされたり、慰安婦にされた中国人朝鮮人の多さは、各地に散らばっている朝鮮人街などからも自らの意志で来た者ばかりではないことが想像される。意志に反して日本に連れられてきた朝鮮人中国人でも、母国に帰れば、嫌日の愛国主義者からは、帝国主義日本に対する協力者という烙印を押されたことであろう。
そのようにして、祖国に受け入れられなくなった中国人朝鮮人も多いことだろう。
日本に残る朝鮮人にはそのような事情もあるであろうから、現在、嫌韓、嫌中などといって騒ぎ立ているマスコミには、そのような在日に悪影響を及ぼさない報道の仕方が望まれる。
戦中のマスコミも結局は、生き残りのために政権のご都合にあわせた報道をしていたし、現在も大衆受けする下ネタ中心の売らんかなの報道に政権によって走らされている。マスコミには社会の木鐸という政権を監視する大事な役割を忘れないでほしい。大衆はマスコミの報道で、煽動されやすいものだから。

仮想敵国

2006年03月30日 | Weblog
東京新聞「本音のコラム」に連載していた日曜日の担当者マッド・アマノ氏の連載が、3月26日をもって終了した。愛読していたので残念だ。
続きは、彼のURL www.parody-times.com で読めるという。
その前の記事で、終了を予告したので、彼も小泉政権に批判的だから、かねてから、連載からおろされるのではないかと危惧していただけにやっぱりと思ったが、3年も連載したというから、そうではなかったのかもしれない。
しかし、政権の横暴を批判できるマスメディアが稀少な昨今、彼のような明解な文章で時の政権を批判する記事が終了したのは、米国政府、その非支配政権とその太鼓持ちマスメディア上層部からするとホッとしているのではないか。私の友人でホット湯太郎という温泉好きがいるが、これでホッとした人たちも温泉に入ったようにホットでほかほかの気分になっているのではないか。
マッド・アマノ氏の考えで蒙を啓かれたのは、広島・長崎の原爆投下は、日本人を使って、原爆の人体実験することだったということを証拠を挙げて示していたことだ。
戦争を早く終わらせるためだったというのは後付けの理由であるということを教えられたのだ。
戦後処理がまだ終わっていないのに、戦後は終わったと言う言葉の魔術に陥らされていたのだ。そのような、いまだに伏せられている敗戦の後遺症を早急に明らかにしてそれに対処しなければならないのに、日本防衛と言う名目の米軍支配は強化されている。
アフガーニスターンもイラークも、米軍再編成も米国に協力と言えば聞こえがいいだけだ。
米国に協力という名目で巨額の軍事費を使い、そのかげで税や年金、健康保険料をどんどん増大させていけば、そのうち国民も自分達の政府と官僚が変なことをしているのだと気付くかもしれない。
日本の防衛費は、米国、フランスに次いで今や世界第3位である。憲法で禁止しているはずの交戦力は実戦を踏んではいないが、相当なものである。既に実戦で鍛えたくなる時期に至っている。米国がそれを望むようになったのだからである。戦わない軍隊はただの金食い虫だということになるわけだ。米国に守ってもらってばかりいては申し訳ないというわけでもある。どこの国から守ってもらっている? 仮想敵国。敵はでっち上げればいいのだ。防衛産業と一緒に軍需景気を謳歌する。景気が良くなるのなら、他国の民族を殺戮することに反対する国民は、米国民と同様に、日本にもいない。朝鮮戦争でもヴェトナム戦争でも、米国がそれらの民族を殺戮することによって築き上げた軍需景気の尻馬に乗って、日本は敗戦の不況から立ち直れたのだ。他国民が血を流すことには米国民のように鈍感でなければならないのだ。自国の軍兵の死者が増えれば戦争はやめざるを得なくなる。ブッシュ大統領は米国の安全のためにこれからも米兵の犠牲が必要だとイラークでの米兵の死者の増大に抗弁している。戦中の日本の政治支配者と同じことを言っている。最後に民間人までも大勢戦死して大きく負けるまで抗弁を続けるのだ。日本政府の立場は、民間人の戦士は、空襲があっても、東京などの大都市は戦場ではなかったから補償できないのだそうだ。米国政府も当然、イラークでの民間人の戦士は補償しない立場だ。そもそもが、でっちあげの理由で他国に攻め込んだ軍隊の尻馬に乗っかって一儲けしようと出かけた民間人が戦死したからといって補償を求めること自体がおかしい。戦中の日本でも、政府の宣伝に煽られて朝鮮・満州に出かけた一旗組がいかに多かったことか。結果は、敗戦時に自分だけ生き延びるために捨ててきた子供たちがいまだに残留孤児という自らかの地に残ったかのような名乗りを上げて捨てた親を探している。

基地と米語教育

2006年03月29日 | Weblog
米国が日本民族の反乱を押さえるために置いている基地の工事を、米国から請け負った日本の軍隊である防衛庁が、業者に配分する過程でその金を誤魔化すという防衛庁官僚の汚職が新聞を一時賑わしたが、これなども、政府としては政官一体になって行なっている汚職であることがばれないように早く蓋をして臭いが洩れないようにしたいものの一つであろう。ソ連邦が崩壊して東西冷戦がなくなったというから、日米安保条約も廃止かと思っていたら、新たな仮想敵国をでっち上げて、自衛隊を一層米国の支配下に置き、基地を強化している。靖国参拝で中国朝鮮の反日感情を煽って、米軍基地を置いたままで自衛隊を米軍支配下で強化する目的が、中国、朝鮮に対してであるように見せかけている。戦前と同様に軍隊・防衛庁は政治家・官僚にとっての最も大きな利権の巣窟になるのだ。基地の本当の目的が日本を植民地として従属させることであるのが、このことからも分かる。その米国の政策に乗っかって、日本の官僚機構が、米国から受注した下請け仕事で、汚職を働く。『アルタ・シャーストラ』では、王は大泥棒であり、役人も泥棒であるから、よく監視しなければいけないと言っている。役人を監視する方法としては、異動をしょっちゅうして、役人に不正な金を溜め込ませないようにすべきであると記している。役人の異動がほぼ3年ごとに行われるのは、2千年前から考えられていた役人の汚職防止策なのだ。それでも頭のいい官僚たちは、税金に群がる方法を次々考え出すから、それを調べる新聞とのいたちごっことしか言い様がない。
派遣法により年収の低いアルバイト、ニートを増やして、収入の多い正社員に税、年金、健康保険料の負担を増大させているが、それぞれの不満を正社員とアルバイトを喧嘩させることで解消させるという巧妙な手口を使っている。税金による財政の収入は減らさないで、取れそうなところにしわ寄せして、税金や年金、保険料を上げている。官僚・政権担当者はまるで米蔵の中に住み着いたネズミとシロアリである。その上に、米国の日本支配の基地を工事するといって、実はその工事費の上前をはねるのだ。自衛隊員には米国旗を掲げて、胸や腕にも米国旗の徽章をつけて歩いてもらいたい。首相をはじめ総務大臣、外務大臣も大臣たちはみんな米国の議員バッジをつけて、米軍基地の工事業者を応戦するのが相応しい。
米国から持ち込んだ競争原理によって競争させる国民を、米国の旗を振って応援するのがいいのではないか。
米英語を小学校から義務教育にすることになったらしい。国会で、はぐらかしや言い逃れに使う日本語は、それを聞いて満足している国民には十分な国語だからこれ以上には学ばせなくていいということか。十分な日本語教育をされていない国民にたいして、日本語の国語教育を疎かにして小学校から米英語を習わせて、愛の言葉も米英語で囁かせる。日本語を十分に分からなくては、外国語も十分には理解できない。国会での欺瞞的な日本語の使用を当然と受け入れる国語能力の国民であれば、支配しやすいことは確かだ。英国の植民地であったインドは英語を公用語にされたから、日本人よりは確かにはるかに英語は得意だが、中途半端な英語を使うインド人もなんと多いことか。しかし、アジア最初のノーベル賞受賞者タゴールの詩は、英語ばかりでなく母国語でも書かれている。インド人は、小さいときから多言語の環境の中で育っているから言語能力が高い。中途半端な言語教育は、日本語も英語もできない、なに人か分からない民族にしてしまうのではないか。そのほうが国民の支配に便利というのであれば話は別だが。

宗教活動のひとつ

2006年03月28日 | Weblog
オウム真理教(現在名アーレフ)の麻原彰晃こと松本智津夫の控訴が棄却されたので、一審の死刑が確定しそうだという。オウム真理教を批判する人たちを次々殺して社会を驚愕させた。一時期、創価学会を批判している人たちも殺されたり、暴力を受けたりしていて迷宮入りした事件があった。創価学会員で法曹・警察に勤めるものは多い。
新興宗教の教祖たちをはじめとする宗教者には、朝鮮、韓国出身などの差別を受けている人たちが多い。社会的差別に対し、精神的に追い込まれて宗教に救済を求めるのだ。その社会的被差別感から来る宗教的な絆が、時には集団的な反社会行為に走らせる。創価学会は公明党によって現政権の与党を構成している。新興宗教の入信者たちは、個人的精神の救済によって自立させられ、社会的な改革を宗教に強く求めるようになり、善悪の方法を度外視して社会運動をするようになる。麻原彰晃は、衆議院選挙に立候補して落選したので、その政界入りは失敗したが、そのような人々が社会の底辺を支えていて、選挙でも活躍する。最近の耐震建築強度偽装事件の小嶋某など、創価学会絡みの事件が多い。政権としては、それから国民の目を早くそらさせるために別の事件をでっち上げる。ホリエモンの決算偽装や、民主党のメール事件などは、裏で政権が諜報員を使ってでっち上げたのではないかと推測される。
政権幹部の武部幹事長親子がホリエモンから金をもらった証拠として、永田議員はメールを国会で公開して見せたが、それに対して、首相は確かめもせずに、ガセネタ、と決めつけている。最初からガセネタと知っていたとしか考えられない答弁だ。メールの出所の西沢孝はこれまでもマスコミの裏社会でガセネタを持ち歩いて生活して来た人物である。新聞ネタで脅して金を稼いでいた戦前の新聞記者に似ている。そのような生活をしている情報員や宗教家を政権担当者たちが利用するのだということを、二千年前にコウティリヤは『アルタ・シャーストラ』で述べている。

米軍再編

2006年03月27日 | Weblog
米国は、その膨大な財政赤字という巨大な借金によって、国家財政は破綻している。そんなことはお構いなしに、テキサス石油資本を代表するブッシュ大統領は、石油埋蔵量世界2位のイーラーンに匹敵する埋蔵量の第3位のイラークを支配下に置こうと戦争をしている。既にサウディ・アラビア王国、クエート王国は米国の支配下にある。これにイーラーンも支配下に置ければ、世界の石油埋蔵量の半分近くを確保できるのだ。現在テキサスのWTIが世界の石油の価格を決定しているのに、世界全体の埋蔵石油の半分近くを確保したら、米国の命令に反対できる国は中国だけになる。このところ1バレルあたり60ドル前後に高騰している石油価格も、中国の消費量が増えたせいだといっているが、そうではあるまい。テキサスのWTIが価格の決定権を行使して石油価格を吊上げて、石油会社の売り上げを伸ばしているのだろう。ブッシュ政権を支えている石油企業の資本家たちは、国民の借金を無視して、自らの金儲けのためにイラークを征服して、意外な抵抗に遭い、米国の人的財産である市民と税金を注ぎ込んでいる。チェイニー副大統領がCEOだった石油開発会社ハリバートン社の子会社KBRに、米国政府は莫大な税金を注ぎ込んで、軍隊の仕事の下請けをさせている。民間の企業が肩代わりしているのだから、国防費は一見増えていないように見えるが、実際には、米国の赤字国債は増え続けている。これから、ドル紙幣は限りなく紙切れに近付くのだが、その批判をかわすために軍事費を削る名目で米軍再編を進めている。米国の軍事費の肩代わりを日本の税金がするのだ。沖縄、岩国、横田、厚木、三沢といった基地から米軍が完全に撤退するのなら分かるが、一部撤退という恩を着せておいて、その費用を日本に押し付けるのに対して、それを日本政府は断れない。日本の政治家たちは、米国の諜報員たちに皆調べあげられていて、弱みを握られているから、マスコミでそれを発表されては政治生命を断たれるのだ。米国の言いなりで拒否できない人は、中国、韓国には居丈高になるものだ。米国政府という一方に対して弱い立場にいる政治屋は、他方の国民に対しては、尊大に振舞ったりするものだ。知る権利をはじめとする国民の権利はどんどん政治屋に奪われている。

沖縄返還密約

2006年03月26日 | Weblog
アルタ・シャーストラでは、政治支配に情報の重要性を繰り返し述べている。情報を操作するためにサットリンという諜報員を使い、国民と敵を欺き、支配に不都合な人物を捕まえて、効率良く税を取り立てる方法が述べられている。国の隅々まで、情報網を張り巡らし、末端の諜報員には床屋や、宗教家が任命されている。床屋政談と言う言葉もあるくらいだから、床屋では、美容をしてもらっている間に気を許して、時の政権を批判したりするが、それが警察の公安に筒抜けになっているのだ。人が集まるところには現在も公安網がはり巡らされ、耳をそばだてて国民を監視しているのは今も変わらないのだ。政策を批判する人間は、その人の弱みを握って捕まえる。最近では、経済批評家の植草某が破廉恥罪で捕まり、その口を封じられた。
1972年、時の佐藤栄作首相は、沖縄の返還を米国から勝ち取ったが、その時に米国議会は、返還の見返りに大金を払うように日本政府に要求した。表向き3億2千万ドル、実際は5億ドル以上を日本政府は米国に払ったことが、米国国立公文書館保管文書の秘密指定解除によって判明し、当時の外務省局長も最近の東京新聞でその密約があったことを証言している。その当時の西山太吉記者が毎日新聞でその裏金の存在を外務省女性職員から聞き出して、すっぱ抜いたが、政府はそれを否定するために、検察の文書に、二人には男女関係があったという一文を入れて、これも単なる破廉恥罪に仕立て上げてマスコミを動員して二人を攻撃して逮捕した。当時私は、政府に嵌められた二人を気の毒に思い、かつまた、裏金があるかどうかという本来の報道から外れて、破廉恥罪にしぼって報道しているマスコミというものの存在に疑問を持ったものだが、政府の情報操作の手口とマスコミの体質は今も変わらない。この密約がここまで明らかになっても、現政権の女性選挙民の人気を集めている現官房長官は「外務省がないと言っているから、ない」と主張している。私からすれば、沖縄は米国が日本から分捕った戦利品なのだから、その施政権だけでも返還させることができたということは立派なことだと思うし、ある程度の密約がばらされたからといって、その立派な外交成果が殺がれることなどはないにも拘わらず、政権担当者の隠す体質は、アルタ・シャーストラの二千年前から変わらないのだ。現政権ばかりでなく何でも金で解決しようとする政府の体質は昔から変わらない。今の政権担当者に望まれるのは、施政権のみ返還されて実質的に、いまだに占領されている沖縄を名実共に米国から返還させるのが、その務めであると考える。イラークに自衛隊を派兵する時に、そのような話し合いが日米間でなされなかったのなら、日本政府は米国政府のただの太鼓持ちとしか言えない。植民地からの脱却をどうするかを百年の計として考えなければならない。このような金で解決する日本政府の方針は、米国ばかりでなく、ロシアにも見抜かれているのだから、歯舞、色丹の返還でも当然もっと多額の金銭を要求されるであろう。

情報の把握

2006年03月24日 | Weblog
二千年前のインドでは、王が政権を握っていた。現代は、民主主義だから、民が政権を握っているはずだが、実際は明治以降に作られた官僚と選挙された政治家が握っている。官僚と政治家が仕組んだ情報に左右された国民が選挙させられている。
法律も米国から輸入されている。2006年3月14日に、米国企業の日本法人が所得隠しをしたという報道について、米国アリゾナ連邦地裁から証人尋問の嘱託を受けて、東京地裁の藤下健裁判官は、取材記者が民事裁判の尋問に対して取材源の証言を拒否したことに関して、取材源が国税庁役人であるなら、国家公務員の情報漏洩に当たり、役人も取材記者も有罪だとした。民主主義は、重要な情報を民が握り民がそれに基づいて政治判断することを意味するが、現在施行されている個人情報保護法は、情報を民から奪い国家統制するための法律だ。藤下判決は、政治家と官僚の情報独占による官主主義を確定するための判決だ。裁判官も「上を見て、昇進を願って、歩こう」の、ただの官僚に成り下がっている。
日本の重要な法律を改変する切っ掛けは、殆どが米国から発信されている。まずは、憲法、財閥解体、農地解放、教育、自衛隊法、石油、牛肉、穀物、ほとんど全ての法律は、米国の指示に従ってできたものだ。最近になって、米国に不都合な自衛隊法などの法律は変えさせられている。自前の法律にしようとするものは、明治憲法に復帰である。これが政治の進歩というものの現実だ。沖縄の基地移転も、岩国の基地移転受け入れ反対も、住民投票の結果を陳情する市長とは、大臣たちは面会拒否で、無視する。米国政府の命令に反したら大臣は首だ。米国から指示されたことを隠してあたかも従来からの自前の考えで政策を施行しているように見せかけているが、国会で追及されると、植民地日本の首相は、質問に対してはぐらかした答えをして、更なる追及をかわしている。追及する側も迫力なしである。米国の支持通りにしなければ、政権は維持できないのだ。イラーク派兵、牛肉、耐震強度偽装などなど、森派という自派が関与する全ての不都合なことは、質問にまともに答えず、はぐらかすことで切り抜けてきたのだ。十分な情報を持てない民の民主主義はダンダン民から遠くなり、名実共に民主主義はなくなりつつある。

アルタ、カーマ、ダルマ

2006年03月23日 | Weblog
心理学者ユングが学んで書いているインドのヤントラは宗教的救いを表現する究極の図式である。真言宗や天台宗で唱えられる、ソワカやオームと言う言葉はマントラ(真言)である。マントラやヤントラによって宗教的救済を求めた。曼陀羅というのもその1種である。仏教もその方法論を取り入れているのだ。曼陀羅というヤントラを観照することで悟達しようとするのだ。
インドのヒンドゥー教、その前のバラモン教では、トリ・ワルガという人生の3大目標、アルタ(財)、カーマ(愛欲)、ダルマ(法)の習得を重視し、そのために、人生をチャトル・アーサナ(四住期)という四期に分けて、学生期(学び)、家住期(働き)、林棲期(出家し)、遊行期(神との合一のうちに死を迎える)という順序に従って生活するのを理想としている。お釈迦さんもその生活を守った。アルタ、カーマ、ダルマにはそれぞれアルタ・シャーストラ、カーマ・スートラ、ダルマ・シャーストラという書がある。日本では、ダルマの訳語である法が、アルタにかわって社会生活全般の法律と言う言葉に適用された。
四住期の生活を実現するためには、共同体という社会の秩序維持と、社会福祉が政治によって実現されねばならない。
アルタ・シャーストラでは、政治について、魚の法則(魚の共食いの習性)である弱肉強食を排するために政治が必要であることを力説している。
現在米国から米、小麦、牛肉とともに直輸入されている、市場原理という弱肉強食の原理は二千年前のインドの政治では既に否定されていた政治思想である。現代は、二千年前より進歩しているから、市場原理という市場主義が進んだ考えなのであろうか。
武器をはじめとする技術は確かに進んでいるが、思想はさっぱり進んでいない。むしろ後退している。
『源氏物語』を読んで驚くのは、明治時代以降の近・現代の日本文学で、これを凌駕するものは、小生寡聞にして、見当たらないことだ。
人間の欲望の営みの一つである政治も、進歩した武器によって、私利私欲を満たすために人殺しを奨励するという点では、二千年前の大泥棒とちっとも変わらない。
アルタとカーマの欲望を満たす行為は、時代によって進歩するものではないから、それを救済しようというのが、ダルマなのである。日本の法律という言葉の成立は、アルタという実利追求の思想を一挙に飛び越えて、ダルマ追求という法を適用したということなのだ。明治以前は、律の系譜である儒学があったが、明治憲法以後は、それもないから法も律も欧州の法律に言葉だけが当てはめられたということであろう。しかし、その本来の持っている言葉の本質的な意味は忘れ去られている。

アルタ・シャーストラ

2006年03月18日 | Weblog
マックス・ヴェーバーはまた、イタリアのマキャヴェリの『君主論』を引き合いに出して、「マキャヴェリの『君主論』なんぞは、コウティリヤの『アルタ・シャーストラ』に比べれば、稚技に等しい」という。
『アルタ・シャーストラ』(『実利論ーー古代インドの帝王学』上村勝彦訳・岩波文庫)では、「コウティリヤが、このように言っている」と、3人称で述べられる部分がところどころにあるから、全部がコウティリヤによって書かれているのではなく、後人によって書き加えられているようだが、それにしても、2000年以上前に政治のあるべき姿が徹底的に論じられているのを読むにつけ、現代は、紀元前以前の政治状況となんら変わりないのだと呆れてしまう。官吏と民による、考えられるだけの悪事が既にその頃から行われていたことがわかる。それに対抗して、諜報を活用して支配する方法論を具体的に書いているのだ。囮を使っての摘発の仕方まで出てくる。国民は、煽動されやすいことが、その昔から知られていたのだ。
ドイツでは、古代インドの研究が盛んで、ドイツ哲学もインドの影響を受けている。また、「パンチャタントラ」などのお話が、グリム童話などにも影響を与えている。
遠藤周作が晩年になって、わたしに「今、ユングを読んでるんや。宗教はやっぱりインドなんやなー」と言っていた、その心理学者ユングもインド哲学を学んで、それについて書いている。遠藤周作の仕事場に行くたびにインド旅行から帰っては土産話をしていた私としては、遠藤周作にそのように言われて、「やっと、分がったが。インドの文化は奥が深いのっしゃ」という思いだった。

収税と政治の義務

2006年03月16日 | Weblog
米国の軍事用に開発されたパソコンの情報網は、それが民需用になっても本来の機能は持っているのだから、大本の米国政権には、情報網を握られているわけだ。それを知っていて、情報漏れと騒ぎ立てるのは、国民に知られたくないからだけであろう。戦後民主主義の教育という建前で、お上に従順になる犬のような教育を若者に施してきた支配層は、他方で、自らは米国政権というお上の犬であり、そのお上に情報を握られて自らの全てを知られるのはやむを得ないことと諦めるにしても、国民に知られては不都合なことがあるのであろう。最近立て続けに作られた個人情報保護法案などの、庶民のプライヴァシーを守るという建前で、実は官僚・政治家の悪事を暴けなくした法律は、まず、「噂の真相」を廃刊に追い込んだ。「噂の真相」は、法務省事務次官を退官に追い込むなど、多くの政治家・官僚の悪事を暴いてきた雑誌であったが、現在それができるのは出版社系の週刊誌などの雑誌だけになり、それも風前の灯である。テレビと大新聞は記者クラブでお上から与えられる情報しか流さなくなっている。新聞テレビの情報は完全に統制され、それに疑問を持たない記者が新聞、テレビで働くようになってきた。NHKの放送前に政治家にお伺いをたてるのが暴露されたのも、朝日新聞との泥試合に問題を卑小化されている。つい最近では、情報取材源の守秘義務も否定する判決が出ていた。裁判官も官僚機構に組み込まれ、昇進したいだけの官吏に成り下がっている。政治は、私利私欲だけに走る者たちで満ち満ちている。学校教育だけでなく、統制された情報を鵜呑みにするだけの国民は、すっかり、支配者に手なずけられてしまっている。様々な理屈を付けて取り立てた膨大な税金は、適切に使われないで、私利私欲を満たしている。ノーパンしゃぶしゃぶのお粗末だけではない。学校だけで道徳教育をするのではなく、サッカーくじという賭けを奨励する文部科学省などの官僚・政治家にこそ、道徳の再教育が必要だ。
江戸時代には、武士という役人には、朱子学を教え、武士道によって、自己を律する教育をしたが、明治維新以後、前の敗戦を経た今日まで、その仕組みがなくなり、政治に携わる人間の精神は、悪化の一途を辿っている。政治が、本来の政治は忘れ去られ、単なる暴露合戦の場になっている。有力な政治家の私事はむしろ米国の調査機関に調べあげられている。テレビのワイドショーに出てくる外国人タレントまで、ブッシュ大統領のアフガーニスターン、イラークへの派兵や、自衛隊派兵を賛美する始末だ。米国や、イスラエルの諜報員がテレビによってお茶の間にも入ってきているということだ。情報操作はそこまで来てしまっているのに、自分だけは、騙されていないと思ってしまっている。米国から学ぶこのような情報操作の方法を、米国も実は、ドイツのヒットラー政権から学んでいる。
ドイツのマックス・ヴェーバーは、情報操作の重要性をキリスト暦の紀元前4世紀にインドのコウティリヤの『アルタ・シャーストラ』に既に書かれていることを『職業としての政治』の中に記している。
『アルタ・シャーストラ』(『実利論ーー古代インドの帝王学』上村勝彦訳・岩波文庫)では、王による政治支配に諜報員の重要性を、繰り返し述べ、役人と民の税の誤魔化しを詳細に述べ、収税した後の政治の義務についても弱い民を保護することであるといっている。
2400年前のその時代に既に、社会福祉の思想があったのである。負け組が自殺するのが当然という支配論理は政治ではない。ヤクザの論理である。収税は、単なるミカジメ料に成り果てているということだ。