芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

田舎の古家の用途

2006年08月27日 | Weblog
田舎の古家の工事が、始めの予定の倍かかってもまだ終わりそうにない。江戸時代の建物が、縄文時代のと同じく、土台のない柱だけで建つ建物だとは知らなかった。柱を1本1本上げて建物を持ち上げる工事だから簡単ではないのだと分かった。また、次々と直す所が出てくるから、延々とかかりそうだ。登米の人達からよく工事が完成したら戻って来て住むのかと聞かれる。いや、ただ保存したいだけだというと、喫茶店をしたいから貸してほしいという人もいる。
現在作っている登米の町起こしの本は、登米にもっと観光客に来てもらい、町を繁栄させようとの意図で作っているので、人件費だけかかって赤字必至の喫茶店を町の第三セクターに貸すわけにはいかないとも応えている。
ただ、折角の文化遺産として、保存するのだから、観光の足しになるように、見物してもらっても良いとは考えている。門を常時開けておいて、屋敷内を自由に見てもらおうかとも思うが、母一人で不用心かも知れないから、そうなると見物人が来る間はいなければならない。私としては、インドにしばしば行くから、登米に引きこもっているわけにはいかないが、できるだけ登米に滞在する必要に迫られることになる。私がいれば、コーヒーくらい出して、屋内を案内しても良いかとも思うが、あまり大勢が来たりして、それに対応する時間をとられるのもかなわない。。などと思案中だ。

ささきいさおと私の祖父

2006年08月26日 | Weblog
ささきいさおの祖父は、私の祖父と同級生で、佐々木重蔵という。子供の頃によく祖母から聞かされたのは、祖父同士は親友で、ライバルでもあり、佐々木重蔵は、海軍主計中将まで昇進したという。私の祖父・明は、短気と自認していたから、軍人にはならず、東京商船学校から郵船に入り欧州航路の船の機関長になったという。しかし第1次世界大戦で、ドイツの潜水艦に追跡されたりして、危険になったため、祖母は、国鉄の連絡船機関長に転職させ、国内や北欧、ロシアに留学して砕氷船の技術を学び、勅任技師となった。祖父がかかわった造船に樺太航路で活躍した砕氷船の宗谷があり、それは、第2次世界大戦の敗戦では沈められずに残り、南極船になった。青函連絡船は殆ど米軍に沈められた。母の末妹の夫、杉田幸雄叔父は、戦中は船を降り、戦後に青函連絡船の船長として活躍していたが、洞爺丸の船長でもあり、その海難事故のときは、ちょうど非番で乗っていなかったが、変わり者で通っていたので、直ぐに事故の当事者だと疑われたと『洞爺丸はなぜ沈んだか』という本で紹介されている。その杉田叔父は、宗谷が南極船に改造されたときに、船長として誘われたが、宗谷には南極の厚い氷は割れないからと断ったと話している。
私の祖父が昭和16年に亡くなったとき、佐々木重蔵は、祖父の墓碑に銘文を残している。それについては、今回わたしが『登米物語』を書くにあたってよく参照した『登米町誌』に詳しく書かれている。

猪股輝雄邸

2006年08月24日 | Weblog
元禄、宝暦時代より横山家、鈴木家と住み替わり、現在の建物は江戸時代後期の建築と見られる。
門のつきあたりにある寄せ棟の建物が広間で、舞良戸(まいらど=よろい戸)と障子の立つ式台から貝殻漆喰塗り折上げ竿縁天井の六畳「下の間」に入り、右手におさ欄間をくぐると床、棚、書院窓を有する八畳「上の間」がある。広間から左に、廊下と称する部屋を経て「常居」といわれる寄せ棟六間五間の本宅が雁行に配置されている。田の字形四室の納戸からは、平書院窓を通して庭が見える。
このお宅は、現在作っている登米の観光案内本には載せてくれるなとのことであった。今までも取材は一切お断りだった由。
この欄に書いた武家屋敷で、断られたため本には載せない家がいくつかある。一応調べてそのお宅に書いたものを見せた上で断られている。住み主と相談して、書き改めたのもある。
登米の歴史はだいたい書き終わったから、いよいよ、本造りだが、装丁・造本を頼んである大澤和泉さんが、共同通信の生活レジャー欄で、ファッションについて文と絵を10週連載することになったから、それが終わる10月末までは、かかってもらえない。共同通信からは、地方紙に配信され、8月末から河北新報、北海道新聞、京都新聞、神戸新聞などに「今様のおしゃれ」に関する文と絵が10週連載の予定だ。

亀井幸記邸の長屋門と鈴木興一邸の四脚門

2006年08月21日 | Weblog
亀井幸記邸の長屋門(前小路)
代々、兵法指南役の禄高四十一石にふさわしい三間一戸の長屋門は、左右の壁に霜除け庇をかけた出格子窓が張り出していて、長屋内部は住宅になっている。右側は中央出入り口のところに引き戸の勝手口があり、左側は二~三室と勝手から成り、通りに面して障子を立てた縁がある。

鈴木興一邸の四脚門(前小路)
白石若狭宗実のときからの譜代で、代々四十石を領した家老平氏の屋敷である。表二十間四尺、奥三十三間の構えで、広間玄関は垂木造り茅葺きであった。三間一戸の四脚門は、もとは茅葺きだった。妻飾りに蕪懸魚(かぶらけぎょ)を用い、中央両開き扉、左一間は半分を一枚ひま引き戸の潜りとし、軒はセガイ造りの家老職にふさわしい門である。以前は左側に、屋根を目板葺きにした土塀、右側に、表に出格子窓をつけた三室の長屋があった。露地には古い黒松が立っている。

飢饉を克服、維新には家臣を帰農

2006年08月20日 | Weblog
寛政九年(一七九七)水沢、前沢に起り、磐井・栗原・登米郡に広がった百姓一揆が仙台城下に迫ったとき、第十代登米藩主、伊達式部村幸は弱冠二十代前半の若さで仙台藩奉行がくり出した大砲・鉄砲隊と百姓を説得してそれぞれ退去させた。第十一代藩主長門宗充は天保の飢饉のとき、南部藩から飢えた多数の流民を受け入れ、豊里町赤生津村で散田足軽として開拓に従事させて美田を作り、一人の餓死者も出さなかった。今も豊里町の二ツ屋の人々から尊崇を受けている喚山(かんざん)神社は、宗充の法名「自性院殿喚山惺々大居士」からとっている。
仙台藩は戊辰戦争では、初め朝廷方で戦い、のちに奥羽越列藩同盟の側になって薩長と戦って負け、六十数名の戦死者を出した登米伊達藩の第十三代伊達筑前邦教は、藩有のうち私有地八千石分を全て千四百余戸の家臣に分け与えて帰農させた。臥牛城と呼ばれた伊達家の寺池館は、官軍の土浦藩の心ない取締役によって焼き払われ、七日七晩燃え続けたといわれる。館と隣り合わせの、夫人の化粧室で産室でもある旧伊達家の奥座敷(奥御書院)は、北隅に山を背にして心字池を擁する庭園とともに奇跡的に類焼を免れたのだそうだ。この建物のつくりは、私の家とよく似ていて、東の十畳「上の間」の書院は丑寅方向に床の間があり、その左隣が、押し入れだ。その北が納戸だったのであろう。この貴重な建物の茅葺きの屋根が二年ほど前から落ちて雨漏りがひどく、荒れるにまかせる状態なので、私個人として修復保存したいから建物だけでも譲ってほしい旨、所有者の星野家の子孫に、管理人と代理人を通して申し出たが、「崩れるに任せて更地になるのを待つ」と断られた。

大正時代建築の二階家の土台上げ完了

2006年08月11日 | Weblog
古家の工事は発注当初は、五、六月の二ヵ月で終わる予定だったが、旧台所と風呂場を取り壊し、大正時代建築の二階家の土台上げをすると、コンクリートで覆ってあった壁面腰板の中の柱がシロアリにすっかり喰われていて、二階家は倒壊してもおかしくない状態だった。柱はもちろん、腐ったお大引きも替え、台所、風呂、便所をつけて二階家の工事はほぼ終わった。後は、ヴェランダの傷みを直したり細かいやり直しと仕上げだけだ。元禄時代建築の母屋は、土台を上げて、コンクリートの基礎を打ち、その上に昔ながらの土台石を敷いて、もともとの柱は土台に載っていないから北側の湿気りやすい方に土台をつけたが、昔の太い大引きもならしも腐っていたため、それを全部取り替えることになり、まだしばらく掛かりそうだ。土台なしの柱だけで立っている家は、縄文時代の建物以来日本の建築様式のようだ。柱一本一本上げるので、えらい時間がかかってしまった。ガスコンロなど台所用品を用意したので、一応生活できるようになった。
母に言われるままに庭の古木の梅を拾って、梅を塩漬けにしていたのを、このところ天気が良くなったので、三日間日干しした。畑のしそを塩揉みしたのと一緒につけては干すのだそうだ。出入りしている大工さんは、「まだ赤みが足んねえね。三日三晩干すのでがすと」といっている。

四代藩主宗倫と伊達騒動

2006年08月03日 | Weblog
宗貞に世継ぎがいなかったので、仙台二代藩主忠宗の四男、五郎吉を養子に迎えたが、三代藩主五郎吉は早世したため、忠宗の五男、宗倫を第四代登米藩主に迎えた。
宗倫の兄弟、第三代仙台藩主・伊達綱宗は、幕府から神田堀のどぶさらいを命じられたが、その工事中の吉原通いが目にあまり、再三の幕府の注意をきかなかったため、万治三年(一六六〇)逼塞を命じられた。政宗の十男伊達兵部宗勝が当時実権を握っていたが、二歳の亀千代が襲封すると一関の田村氏とともにその後見役についた。伊達兵部宗勝の子・市正は、大老酒井雅楽頭守忠清の娘婿である。
第四代登米藩主、伊達式部宗倫も新田開発に力を注ぎ、旧北上川沿いの湿地を開墾させた。その湿地帯は涌谷藩との境にあり、境界がはっきりしていなかった。登米藩と涌谷藩の最初の領地争いは、仙台四代藩主がまだ幼いという理由で、登米藩に有利な仙台藩家老の判決を涌谷藩が呑んだ。
伊達式部宗倫と伊達安芸宗重との間に領地争いがふたたびあり、仙台藩で解決できなかったため安芸はそれにかこつけて幕府に兵部の非違を訴えた。翌四年(一六六一)三月大老酒井忠清邸で尋問が行われ、兵部宗勝、原田甲斐の所行が逃れがたいものになったとき、原田甲斐は安芸を惨殺、甲斐もその場で殺され、お家没収となった。兵部は遠流、兵部の一味だった小姓頭渡辺金兵衛も罰せられた。「下馬将軍」の異名を取った大老酒井忠清は、前橋から姫路に移封された。
山本周五郎『樅の木は残った』の原田甲斐ゆかりの船岡城、歌舞伎『伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)』で知られるこの伊達騒動は二歳で襲封した四代藩主綱村(幼名亀千代)のときに起こった仙台藩内の権力闘争であり、四代将軍家綱の後見役会津藩主保科正之(一六一一~七二)の働きで伊達家は分割されずに解決した。

宗直と妻の心月院

2006年08月03日 | Weblog
政宗の母の生家である最上家で内紛が続いたため、徳川幕府は元和八年(一六二二)最上家の所領を没収し、その山形城、東根(ひがしね)城など、七つの城を政宗に受け取るよう命じた。東根城を受け取る役を政宗は宗直に命じたので、宗直は重臣を派遣してその受領をさせた。取り潰しに遭った最上家の家臣たちの哀れさをつぶさに見て来た重臣からの報告を、宗直は、二十六歳になった長男、宗貞とともに聞いた。
寛永六年(一六二九)に宗直が五十三歳で亡くなると、八名の家臣が殉死した。
あとを継いだ宗貞は、宗直の政策を引き継ぎ、新田開発に励んだ。
宗直の妻、心月院は寛永十六年(一六三九)二月十一日に六十八歳で亡くなった。乳母だったお妙の方が殉死した。二人は遺言により、町が一望できる高台院の一角に葬られた。
大正七年(一九一八)十一月、伊達相模宗直は登米の治水と新田開発に尽くした功労が認められ、生前にさかのぼり、正五位が贈られた。

登米初代藩主伊達相模宗直

2006年08月02日 | Weblog
登米初代藩主伊達相模宗直
白石相模宗直は慶長九年(1904)十二月末に禄高千五百貫文(一万五千石)の水沢から千貫文(一万石)の登米に移封されるとすぐ、領内を見て回り、北上川の流れを変えて谷地を開墾することにした。
中田町の上沼八幡宮(うわぬまはちまんぐう)から見渡し、中田町大泉(おおいずみ)村小名倉山(こなくらやま)の麓から水越村長谷山(はせやま)の麓まで約七キロメートルの土手を築くことにした。これはのちに宗直の名を取って相模土手といわれるようになった。
新しいい北上川の流れは、曲げ袋をもうけ、二股川などの支流を整理し、登米の町の東を通して柳津に導くという工事だった。慶長十四年に登米町北部の銅谷から本覚寺まで約一、五キロメートル、慶長十五年には川向かい日根牛側の堤防を二年がかりで築き、七年に及ぶ大工事が竣工した。これにより、旧北上川沿いの谷地を開墾できるようになり、登米耕土といわれる田野が開けることになった。
武士と町人の住む地域を分けて、~小路、~町などと地名をつけて町割りの絵地図を作った。
水沢の白石家の菩提寺養雲寺は葛西家の菩提所だった太白山永明寺の廃寺跡に移し、辺室山(へむろやま)にあった八幡宮、下がり松のあたりにあった葛西家の龍源寺も、専称寺、本覚寺とともに寺社は登米町の南にあたる道場山(どうばやま)の北斜面にまとめられた。
慶長十九年に起こった大坂冬の陣で、徳川家康方についた政宗の命令で、宗直は十月十五日に五百の兵を引き連れて登米を出発し、十一月二十一日に五百の兵を引き連れて木津今宮に陣を布いたが、十二月に和議が成立した。家康が、それまでの城主富田信濃守に替えて、四国宇和島十万石を政宗の長男秀宗に与えたので、政宗は、宗直に宇和島城を秀宗にかわって受け取りにいくように命令した。
宗直は翌元和元年一月十四日に五百の兵とともに大坂を出発し、須磨で暴風にであったものの二月一日に到着し、三日には、城を預かっていた藤堂高虎から宇和島城を受領した。
四月十四日に宇和島城を出発した宗直は、京都の仙台屋敷に入り、大坂夏の陣に少数の兵とともに参戦する政宗を、五百の兵を引き連れて草津に出迎え、五月六日の大坂の道明寺の激戦で活躍した。八日に大坂城が落ち、秀吉が興した豊臣家は滅びた。
政宗につれられて、京都、奈良を見物した宗直は、七月十日登米に凱旋した。
翌元和二年宗直は白石姓改め伊達姓を名乗ることと、「竹に雀」の紋章を用いることを政宗から許された。

伊達政宗

2006年08月01日 | Weblog
天正十二年(一五八四)四月小牧・長久手の役で兵数三万に満たない徳川家康、織田信雄の軍に敗れた十万の兵力を擁する秀吉は、家康に一目置くようになり、それまでの武力一辺倒の政策を変えて、綸旨という天皇の強制力のある命令を関白として発することにより、全国を統一していく。
弱冠二十三歳の伊達政宗は天正十七年(一五八九)六月芦名氏を破り、その居城だった会津黒川城(後の会津若松城)にいたが、毒を盛られたために、その犯人と目される母の代わりに、母の偏愛する弟・小次郎を殺して後顧の憂いを払ってから、秀吉の命令に遅れて小田原城を包囲している秀吉の下に駆けつけた。遅参は許されたが、芦名氏の旧領は取り上げられ、米沢に封じられた。
伊達小次郎の遺骨は、家来の小原縫殿之助定綱が登米の隣町、津山町横山の山中に手厚く葬ってから殉死し、その小原の墓も少し下った所にある。
秀吉の命で政宗に先導された奥州仕置き軍は、葛西氏、大崎氏を取り潰した。
秀吉から葛西と大崎の旧領も拝領した政宗は、みずからは米沢から岩出山に移り、塩松(福島県岩代町)にいた白石宗実を水沢(岩手県南部)に移した。