芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

日本語の難しさ

2010年09月30日 | Weblog
国際交流基金の遠藤直氏からこのブログをご覧になったとのことで、メールで、内山小次郎さんと記した在印日本大使館文化担当一等書記官の内山氏は、内山浩二郎氏というのだと、ご指摘を受けた。早速、謝りのメールを内山浩二郎氏に送った。
デリーの和食屋でご馳走になった時頂いた名刺にローマ字で、Kojiro Uchiyama とあり、裏返しても日本語がなかったので、Kojiroさんというのは、覚えやすいお名前ですねと言ったのに対して、肯定されていたので、てっきり、佐々木小次郎と同じだと思っていた。
日本語は難しい。
小野小町の和歌を現代語訳するのに、「蜑のすむ」「海人の住む」という初句が出て来るが、それぞれ後撰集、古今集から採られたもので、「あま」と読むのは、『源氏物語』でもこのほかに「海女のすむ」というのもなんども出てきて、私の場合、50歳の手習いで何となく覚えてしまったのだが、初めてお目にかかれば、先ずもって読めなくて当たり前である。尤も英語だって、breakfast がなぜブレイクファーストでないのか、と聞かれても、答えに窮する。慣用的にそう読むのだと言われればそうでしかない。そのような言葉は、どんな言語にもあるに違いない。

昨日の雨は単なる秋雨か

2010年09月29日 | Weblog
久しぶりで畑を覗いたら、ズッキーニが2本、ゴーヤが初めての収穫で巨大なのが1本と普通の大きさのが2本,ササゲが10本ミニトマトが20個ほど収穫できた。もう寒いから、これからはあまり期待できないであろう。少しでも採れたのが幸いである。橙色の巨大カボチャの落ちたのは、種ごと焼いてしまわないと、来年、花粉どころではなく、種から沢山出てきて、もっと増えてしまうであろう。小学校の実習遠田からと温かい眼で見ていたが、外来種がはびこっては困る。牛、豚、鶏の糞が外国産の餌のため、外国の種が肥料になってまかれ、外来種の雑草が増えているだけでばなく、カボチャのように花粉で増え、されに種で増えると、在来種が、絶えて行ってしまう。在来種が鳴くなるとどういう問題が起きるのか、例えば、人間の病気にも、新たな病気が増えたり、直りにくくなったりするのではあるまいか。
アフリカで発生したといわれるデング熱が、インドでも、流行り、それがそのうちに日本にも来るかもしれない。
昨日は雨で出かけられなかったが、今日は晴れたので、守んツアンの家に行ってインドの土産話をしてきた。久しぶりなので、お茶を飲み、帰りにはおかずまで貰ってきた。そういえば、インドでデリー大学のウニタ教授に日本の和歌のヒンディー語訳を手伝っている時に、『時雨』というのがインドになく、簡潔に言いあらせなくて困った。それぞれの地方の言語には、その必要性から生まれた言葉があり、それは、その必要性のないところの言葉にはないから置き換えられない。

柿の木にぶら下がっていたカボチャが落下

2010年09月28日 | Weblog
インドで忙しい思いをして、帰ったら、もっと忙しい。それと、疲れが残っているのか、あまり何もしたくない状態だ。
しばらく留守をしたため、待ち構えていた来客が多いのと、夏に降らなかった雨が今降っているようだし、気温も低い。天気が回復したら、少し、戸外に出かけたい。佐藤元大工さんの奥さんのご焼香に行ってきた。佐藤元大工さんから、畑シメジを貰った。葬儀などで、オオイチョウダケは採れないまま、時機を失したが、畑シメジは今が時期だそうだ。
まだ、茸の時期について、頭に入っていないので、一人では採りに行けない。今年はサンマが不漁で、志津川のサンマ祭が中止で、女川の鯨祭は、鯨の食中毒で中止となっている。そもそもが、鯨は、鮎川が中心で、女川は、鯨の水揚げの町ではないのだから、中止でも当然なのだが、今年は、何かにつけ、うまく行かないようだ。
柿の木にぶら下がっていた巨大カボチャが地面に落ちて、割れていた。この橙色のカボチャは、元々、観賞用であろうから、割れていても構わないが、他のカボチャが、どうか、花粉があちこち飛んで、観賞用のカボチャの花粉でカボチャの味が、まずくなっているかもしれない。米国のカボチャの祭に使う観賞用のカボチャが日本にも入っているのだろう。
明日は、遠藤周作忌であるが、上京する元気はない。しばらく、静養だ。

今昔の感のインドもある

2010年09月27日 | Weblog
デリーの市内には、人口の密集を避けるために主にデリーの南側に、モールをいくつか造っている。おそらく、これからの車の増加に備えて、都心に車が集中しないような対策であろう。
モールのなかは、十年前には、考えられなかったブランドショップで埋まっている。こんな高いものを買う若者がいるのかと思うと、それが成り立っているということは、結構売れているということか。昨年末に来た時、サケートのモールの本屋で、私は、数千ルピー単位の本を買った。そういう、買い物をする外国人もいるであろうが、和食の食堂に若いインド人が入っているので、相当の収入があると思われる。
かつては、高級ホテルは外国人が殆どであったが、今は、インド人の老若男女で溢れている。相当の購買力がインド人にできているということだ。
かつて、高級ホテルにも泊まった私は、今は、大学のご招待で、ゲストハウスである。清潔だが、安ホテル並で、かつ、エアコンなどは、壊れていて、動かない。真夏など来たくない。デリーでも今年は、48度だったと言うから、マハートマーガーンディ大学のあるワルダは、デカン高原の上で、真夏は、もっと暑いであろう。

23日遠藤周作『深い河』の講演詳細

2010年09月26日 | Weblog
23日の遠藤周作『深い河』の講演について、もう少し詳しく書くことにする。
当日、ウニタ教授の家に行き、待つ間に、講演者と挨拶をする人達に花を渡す習慣だとかで、探しに行ってなかったので、お茶を買って来たとかで、それを講演の前に席に座っている時にもらった。そういえば、24日の出版記念パーティーでもマノージ・シャルマー氏が生花をもらっていた。国際交流基金にウニタ教授がハイヤーを雇って行ってくれたのは、前回の小野小町のときも同じで、そういうことにウニタ教授が相当にお金を個人的にかけていることが解る。
デリーの今年は、48度まで上がる異常な暑さであったが、9月になっても雨期が明けず、毎日、一度は土砂降りか、しとしとぶりかする日であり、上流のヒマーラヤの麓では、洪水で流される家もあったようだ。23日の当日も、雨であちこちに水たまりが出来て、道が悪く、集まりが悪かったので、それでも司会が到着する前に、15分遅れで始められた。しかし、遠藤直国際交流基金所長と内山浩二郎在印日本大使館一等書記官の挨拶が終わる頃には用意された30席がほぼ満席なっていた。私の講演のあと,『深い河』がガンガーであるから、ガンガーに関する自作の詩を参加した三井化学の阿部敏之さんやRajBuddiraja, Ranjit Saha, Manoj Sharma, Upendra Kumar, Ganga Prasad Vimal各氏の詩人達が読んでくれた。これもウニタさんの企画である。

詩人Manoj Sharma氏の出版記念パーティーに招ばれる

2010年09月25日 | Weblog
昨日は、一昨日に私の遠藤周作『深い河』の講演に参加してくれた詩人Manoj Sharma氏の出版記念パーティーが印度国際文化センターで開かれたのに呼ばれてウニタ教授夫妻に連れられて参加した。
彼の友人が数人、彼についてと彼の詩について話していた。新しい詩集の一部をManoj Sharma氏が読み、ここでのこの出版記念パーティーの形式が前回、私の『竹取物語』ヒンディー語役の出版記念パーティーが、ロシア文化会館と印度国際文化センターで開かれた時と同じで、マスコミも来て盛んに撮影していた。マノージ氏の妹も絵描きで、来年日本で個展をするという。どうも芸術家一家らしい。ラージカマルという印度で一番大きな出版社の幹部も来ていた。マノージ氏は相当有名な人らしく、彼の幼なじみを二人伴って来ていて、その一人は、先日私の講演に来てくれたラデイシヤーム Sharma氏で彼は、15歳の時、13歳の今の奥さんと結婚したという先生だ。ラージャスターンには今も幼児結婚の習慣があるようだが、一緒に住んだのはもっとあとでそれでも今50歳くらいで何人も孫がいるのだという。もう一人の友達がやたらコーフというので、よく聴くと、宝石屋で、甲府に原石を輸出していて、その仲間がよく来ているらしい。腹切りについても質問され、ちょっと面食らった。
その後、庭園でパーティーになり、日本のホテルでもよく出る形式で食事がテントの下に並べられ、それを自分で皿にとって食べた。国際ヒンディー語大学のライ学長も来ていて、先日のワルダでお会いして以来の再会で, 詩人Upendra Kumar氏も来ていたので、しばし、団らんした。 私の講演のとき司会をしてくれた詩人のGanga Prasad 氏もマノージ氏の友達で、来ていた。彼は、日印文化協会の会長でもあり、ビルマの竪琴をヒンディー語訳した人だ。どうもそうそうたる作家の集まりらしいが、なにぶん知らない人ばかりで、マノージ氏の友達からは、ジャイプルに遊びにくるように誘われた。

遠藤周作『深い河』講演無事終了

2010年09月24日 | Weblog
昨日、国際交流基金で開かれた私の遠藤周作『深い河』の講演には、30名近くの人が参加し、中には、国際交流基金の遠藤直所長夫妻と保科氏、在印日本大使館の内山浩二郎文化担当一等書記官が出席して、遠藤直さんと内山浩二郎さんのご挨拶も頂けた。それぞれ、ウニタ先生からの要請に応じてくれたもので、遠藤直さんは、日本語で、内山浩二郎さんは英語の短い文章を用意して来て、一昨日私に日本料理屋でご馳走してくれたときに、私から情報を得ていたと、私の紹介もかねて話してくれた。
講演直前になって、ウニタ先生から、急に日本語で話してほしいと言われ、日本語のレジメを配ってあるし、せっかくヒンディー語で話そうと思っていたのに、なんで急にと、しばらく、やり取りして、ヒンディー語で話すことになったが、実際に英語で挨拶を始めてみてから、ヒンディー語しか理解しない人は、数名の詩人で、あとは、大学院の学生で日本語をそこそこ理解している程度だから、英語なら全員わかるので、英語の講演に切り替えた。詩人は、RajBuddiraja, Ranjit Saha, Manoj Sharma, Upendra Kumar, Ganga Prasad Vimal,の5人で、三井化学の阿部敏之さんが、クラレの佐藤さんと親しく話していたので、前からの知り合いであることがわかったのと、仙台二高の出身であることもわかった。
主に、玉川学園の遠藤周作の家に行き始めた頃からの彼との会話を中心に話し始め、彼に印度についてその当時から話していたために、彼が闘病中にも関わらず、印度に行くのに、安心な私を選んで案内させたのであろうことを話した。チャームンダー女神が聖母マリアとの比較で出て来て、チャームンダー女神には、偽善がないという言葉が繰り返されていることに、遠藤周作の西洋カトリックキリスト教への不信の表明であることを説明し、チャームンダー女神の醜さと、十字架のキリストの醜さを一緒に表現していることを後の質問のときに説明した。遠藤直夫妻が、面白かったと、カクテルパーティーのあとで、サケートの和食屋につれて行ってくれ、寿司をごちそうになった。世界一大きなモールなのだそうで、寿司も意外とおいしく、ただ、高価であろうから、先日の内山小次郎さんにご馳走になったネルー大学近くの新しいモールの和食屋とあわせ、感謝である。サケートの和食屋は、以前、クラレの佐藤さんから昼食ランチをご馳走になっていたが、一人1000円くらいであった。今回はビールと寿司を少し頼んだくらいだから、それをちょっと上回ったであろう。

復活と転生

2010年09月22日 | Weblog
いよいよ明日が、遠藤周作『深い河』の講演である。いったん日本語のあらすじを書いてからヒンディー語にだいぶ訳したが、中々終らない。知らない語彙を辞書でひいてそれだけをメモしておけば良いかなどと楽なほうへついいきがちである。
遠藤周作『深い河』は私が旅行中に彼に話した内容が、作中のガイド江波の言葉で話されているが、その中で、私は、印度の宗教では、輪廻転生から抜け出るのが、ヒンドゥー教の教えであることを、言っているのに、遠藤周作は、作品の結論に、キリストが玉ねぎという言葉で、代用され、その玉ねぎが後の世の人に転生しているという。転生で終っているのだ。キリストが、人の中に転生すればそれで救いということなのだ。ヒンドゥー教では、輪廻転生の無限の回転の中から抜け出さないと、救われないという。それは、キリスト教では、キリストだけが一回復活という言葉で表されている。遠藤は、個々の人間の中に復活することを、転生というのだ。元々、キリスト教も印度の宗教の影響を受けているのであるから、その一部をつまみ食いしているのかもしれない。

ワークショップというのを経験

2010年09月21日 | Weblog
昨日は、最初に私が、小野小町の和歌を8首説明して、その後で、質問を受け、それを参加していた20名ほどの大学院学生が訳すというやり方で始まった。3人の印度詩人が参加したので、その人たちの詩も聴けた。それに2時間ほど掛かり、ティーブレイクの後、谷川俊太郎、小川英晴の日本語詩、よしむらいくみ、やぐちよりふみの英語詩のヒンディー語訳詩と、ウペンドラクマールさんの日本語訳詩をみんなで作るという趣向であった。4時間もするので大変かと思ったが、意外と楽だったのは、質問に答えるのと、それぞれの人が訳したのをちょっと見るくらいであったからであろう。
今日は、あさっての遠藤周作『深い河』の講演の準備に入る。印度人と日本人が参加するので、ヒンディー語と日本語のレジメを作らなければならない。ウニタ教授の旦那さんは、ネルー大学の社会学教授であるが、『深い河』のあらすじではなく、遠藤周作と自分のやり取りの話をすると良いと、適切な助言をしてくれ、何か学生になった気分である。

いつまでも続く準備

2010年09月20日 | Weblog
昨日は、昼間ずっと小野小町の和歌を訳し、続いて、谷川俊太郎の詩を前に貰ったのよりもっとやりたいと言い出したため、一応見てみたが、そんなのは無理だということで、終わりにして、疲れたので夕食も食べずに寝てしまった。
ところが、また、寝しなに起こされて、小野小町を後、7首さらに選んでほしいと言って来たので、寝ぼけたままで選んでやったが、今朝になってどうも選んだ中に小野小町に対する返歌があったのではないかと思い、確認したら、やはりそうで、やり直しである。
ワークショップの直前にその和歌を訳してほしいと言い出して、1時間なんかではできないから、もう以前にしたので十分だから、と、諦めさせた。印度人というのは、ぎりぎりまでやって辻褄を合わせて完成させるという傾向があり、私のようにのんびりとやる者にとっては、煩わしい。ワークショップの次第もわからないのだから、いったい何をするのか、直面してから出たとこ勝負である。