芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

守んツアンに餅をご馳走になる

2009年09月30日 | Weblog
夕方、守んツアンが、餅をついたから食べに来ないか電話が掛かって来たので、車で送迎もされて遠慮なくお邪魔してご馳走になった。
ちょっと焼酎で軽くやってから、ずんだ、くるみ、お引き菜の餅をご馳走になった。どれも美味しい餅だった。酒の肴にカツオと手製の塩辛も出て、それぞれやはりおいしかった。今年は、カツオが不漁なのに、生きのいいカツオだった。
午前中に江田夫人から電話が掛かって来て、10月9日から12日まで登米の江田佳弘くんの実家に来るから十日に飲食に来るよう誘われたので、守んツアンたちと誘い合わせていくことにした。
昼過ぎに佐藤元大工さんが「秘伝」の豆をゆでて持って来てくれた。今年初物の「秘伝」で、やはり美味しかった。佐藤元大工さんが、帰りがけに畑に撒くための水を入れるタンクを観て、蛇口から水漏れがしているようだと言うと、蛇口についているセメントを金槌で取ってくれ、今度シリコンで蛇口をつけ直すと言ってくれた。その時、たまたまニュースを見ようとテレビをつけたら、ふじテレビ系の番組に、ブッシュ政権のイラーク侵略を支持していた外人タレントが出ていた。番組のタイトルもセンセーショナルな扱いなだけで、亀井金融相の中小企業に対する銀行貸し付けの返済猶予を、モラトリアムという言い方で、銀行に同情的な偏った放送をしていた。しかし、亀井金融相の言っているのは、徳政令のようなモラトリアムとは違う、もっと企業にも銀行にも優しい政策に思われる。ちょっと朝日系列はNHKと同じで良くない。


宮城県美術館で、「京都画壇の華」を観る

2009年09月29日 | Weblog
この前の「前衛の宮城」に続いてまた、長谷川俊雄君に誘われて宮城県美術館の展覧会を見に行ってきた。
私の父の長姉が嫁いだ東北大学工学部教授、小倉剛の妹の亭主で画家の伊沢清の家族に入場券が送られてきて、その隣りに住む長谷川くんがそれを貰っているのだそうだ。今日のは、「京都画壇の華ーー京都市美術館所蔵名作展」で、見応えのある絵が多かった。裸婦になるのを恥じらうところを描いた竹内栖鳳の「絵になる最初」や仏画を描くようになる切っ掛けとなった村上華岳の「阿弥陀」など、物語性もあり、楽しめた。インドにもご一緒したり彼の在京中はなんども会っていた大中臣春樹くんの親戚だったと思うが小野竹喬の「海」は寂しい絵であった。
常設展のほうの今日から展示替えだったので、観た。速水御舟や海老原喜之助の素描であった。
美術館で昼食をして、長谷川くんの家でお茶をご馳走になった。
十月にまた逢う約束をして、昨日と同じ最終バスで帰宅。昨日は東京、今日は仙台と連日の外出はやはり疲れるとみえて。帰りのバスでは寝てしまった。
長谷川くんは絵が上手だから、絵の見方も熱心だが、私は、一通り観るだけで、眺める程度に終わってしまう。

庄野潤三の告別式弔問

2009年09月28日 | Weblog
6時40分の始発バスで仙台に行き、新幹線に乗り換えて、東京駅へ。東京から新宿に中央線で行き、そこでまた小田急線に乗り換えて生田に行った。駅の改札前に庄野家の告別式の案内人が立っていて、送迎バスに案内してくれた。午後1時の告別式にぎりぎりで間に合った。すでに座る席はなく、式のあいだ立ちっぱなしであった。庄野潤三は、それほどの流行作家ではないが、愛読者はちゃんといて、読者と思われる弔問者が相当数いた。喪主の庄野夫人、千寿子さんに「絵合わせ」「野ガモ」の「群像」連載の時はとても良くしていただいてありがとうございましたと言うと、「あら、芳賀さん、おひげが長くなりましたね。まだ、前のところにお住まいですか」と尋ねられたので、「いや、今は宮城県に住んでいます。ひげはもう白くなりました」と応えた。「なにかはまだ庭にありますよ」と言われたが、そのなにかが良く聞き取れなかった。私が差し上げたものなのか、もう40年近く前のことで忘れた。いずれにしろ、私を思い出してくれたので嬉しかった。
式のあいだ出版社の担当者たちが、案内人をしていた。芸術院の三浦朱門院長の弔辞に続いて、2人ほど女性が弔辞を読み、弔電をいくつか読んでから横一列に5人ずつの焼香になり、私は14時前に終わったので、待合室に元の職場の同僚や先輩がいたのに対して、今日は日帰りでゆっくりできない旨話して、東京駅発15:40の新幹線で帰途につき、仙台発18:05の最終バスに間に合って帰宅した。香典返しに『けいこちゃんのゆかた」(文庫)が入っていたので、帰りの新幹線で読んだ。

軍場山の野菜作りの収穫

2009年09月27日 | Weblog
今朝6時に起きて、久しぶりに軍場山へ行った。長靴では長距離は歩きにくいので、山靴で、一応スパッツをザックに入れていった。入り口からすぐに、薄を刈らなければならなかった。鎌を忘れたので、シャベルで薄を切って道を造りながら、前に坊ちゃんカボチャを植えた奥の方まで進んでいった。雑草におおわれていて何も収穫できなかった。入り口のジャガイモの種芋を植えたところに戻ったが、前に見えたジャガイモの茎も葉っぱも全然なくなっているので、やむを得ず、雑草におおわれたその辺一面をシャベルでホックリ返した。始めにそれなりの大きさの北あかりが2個出てきたっきりで、あとは細かい歯形が残る多分モグラの食い残しと思われる芋が2個出てきただけであった。その代わりと言えるかどうか分からないが、坊ちゃんカボチャに似たカボチャが2個見つかった。その辺にもカボチャを植えたが、それが坊ちゃんカボチャかどうか忘れた。カボチャのツルは2本とももう枯れてなくなりかかっていたから、カボチャが雑草の中からいきなり出てきた。
帰りは坊ちゃんカボチャと思われる小さい暗緑色のカボチャとジャガイモをそれぞれ2個入れて、重くなるはずなのに意外に軽いザックを背負って帰還した。それでも畑を掘ったので汗は充分にかいた。良い運動になったとしかいえない。

『絵合わせ』『野鴨』に登場の動植物

2009年09月26日 | Weblog
「群像」編集部で担当した作家は、埴谷雄高、中野重治、大江健三郎、井上靖、吉行淳之介、阿川弘之、安岡章太郎、佐多稲子、大原富枝などもそうであったが、出版部に異動して、その後疎遠になったり亡くなった方も多い。
私が退社した時にそれでも存命の方々には、挨拶状を出した。その中で、唯一、庄野潤三氏だけが健康に留意して今後生活していくようにとの激励のハガキを下さった。
小説原稿は鉛筆で書いていたのに、ハガキは青いインキの万年筆で書いて下さった。
庄野氏の性格と生き方を感じさせられた。
その庄野潤三が亡くなったのだ。鉛筆で丁寧に書き記した原稿を貰いに庄野家に通じる一キロメートルほどの坂道を上っていった日々のことが思い出される。
『野鴨」には、庄野家に飛来するキジバトなどの野鳥が幾つも出てきて、それを観察している姿が微笑ましい。オナガは見かけは美しいが、声が悪いと言っておられたがたしかにその通りであった。私も当時同じ多摩丘陵に住んでいたので、それらの野鳥を良く見かけた。
合掌


庄野潤三のことと遠藤周作のこと

2009年09月25日 | Weblog
庄野潤三が亡くなったことが一昨日の新聞で伝えられた。
私が「群像」に配属されて直ぐに、「絵合わせ」の連載を担当させられ、1971年に「絵合わせ」が単行本となり野間文芸賞を受賞した。庄野氏とはウマがあったのか、その翌年、どういうわけか、私の名前を使った『明夫と良二』が岩波書店から出版されて毎日出版文学賞と赤い鳥文学賞を受賞している。
その頃また、『野鴨』の連載を担当して、1973年に単行本になり、その年に庄野潤三は日本芸術院賞を受賞している。
小田急線の生田駅から西三田団地の中を通り抜ける坂を上りきったところに庄野家があり、そこに毎月少なくても二回通い、夕飯やお菓子をご馳走になったりしたが、すべて奥さんの手づくり料理で格別に美味しかった。2年間以上通ったことになる。
私が月刊誌「群像」にいた頃は、第三の新人の全盛期で、その後、私が学芸、美術出版に移ってからも例えば、遠藤周作とは、交際が続き、「イエスに邂った女たち」を写文集の単行本にすることが出来た。また、遠藤周作に頼まれて、インドの最もインド的なところに一週間で連れて行ってほしいというので、バナーラスに案内したのが、『深い河』という書き下ろしの単行本になってその作中人物で、私が「江波」と言うガイド役のモデルになっている。遠藤周作は、この『深い河』を発刊してその年の文化勲章を授章している。

日本外交の非独自性

2009年09月24日 | Weblog
8月28日付け「河北新報」のディリ共同の記事によると、中国の援助で東ティモールに建設した大統領宮殿の落成式が二十七日に開かれた。東ティモール沖合では、最近海底油田の採掘が本格化しており、石油利権に絡んだ援助との見方も出ている。
在ディリ中国大使館によると、中国はすでに外務省庁舎も援助で建設しており、政府系庁舎建設支援の総額は約4千万ドル(37億円)。今後、防衛省・国軍本部のほか、兵士用家屋100棟も建設する予定。中国の伝元聡大使は式典の冒頭、「両国関係の新しいページを開くもので、今後、関係を強化していきたい」と強調。東ティモールのラモス・ホルタ大統領は「中国の人々による友好の印で、農業や電気、技術情報などでも支援してもらい、感謝している」と語った。
一方、東ティモール政府は最近、中国から海軍巡視船2隻を約2800万ドルで購入。急務となっている道路網整備でも近く中国と交渉入りする予定で、両国関係は緊密化し始めている。
米国に征服された日本は、独自の外交というものがなく、常に米国の指示に従うという楽な道を歩んできた。その基本的な枠組みが日米同盟である。これは、インドとブータンの関係にほぼ匹敵する。ブータンも外交はインドに任せっきりだ。これでは独立国とはいえない。
米国政府は、アフガーニスターンからの撤退まで、日本に対して、米国と同じ歩調を取らせるであろう。もし、日本が独自性を出そうとするなら、米国に名誉ある撤退を促すくらいのお膳立てをすべきである。そうなって初めて日米同盟が対等と言える。
国境問題も自民党公明党政権の下では、ロシア、中国、韓国から米国頼みを見透かされているから、ロシアには北方領土を返還されず、中国には東シナ海の油田を先を越されて占領され、韓国には竹島を占領されるのだ。

投げやり行政

2009年09月23日 | Weblog
先日、高倉勝子美術館を観てきた。初期のものと思われる絵は、人物像の目が少し左右段違いになっていて、ピカソを少し採りいれているような絵であった。
佐藤元大工さんがこのところ2日に一回くらい畑しめじやインゲンなどを持って来て、コーヒーを飲みながら話してくれるのによると、この美術館の工事を請け負った太田組は、代議士などを務めた大石の系列で、その配下の現市長が取り仕切っているのだそうだ。佐藤元大工さんもかつては、請け負い仕事をしていて、どの工務店や小さいゼネコンがどの代議士の系列かなど詳しい。
いずれにしろ、相も変わらず、箱もの行政を続けている登米市長と市議会は、政治手法が自民党公明党政権時代と全く変わらないであろうから、こんなところに地方分権による自治など全く無理であろう。中央からの援助を待って箱ものを作るだけでそのあとは放置と言うのは、中央そのものも同じである。
米国将軍様のもとで中央官庁、自民党公明党政権が押し進めてきた政治は、自分たちの考え方で世界を観るのではなく、米国将軍様が決めたことをなぞってきたのであるから、例えば、東ティモールの独立に際して協力はしてもその後の関与は、民間任せで、現に私が今飲んでいるコーヒーは「NPOもやい」が現地で有機栽培してもらっている東ティモール産のこもれびコーヒーである。自民党公明党政権の日本政府にイスラーム圏に対する確固とした態度で臨む軸足がなかったように、東ティモールにも小泉政権は米国の命令通りに自衛隊を派遣して独立を援助したが、そのあと、そのまま放置している間に、中国が東ティモールに深く関与していっている。

イスラーム教の国々

2009年09月22日 | Weblog
アンマンの日本大使の下で医務官として勤務するにすぎない紫藤昌彦さんが、私の個人的な思いと行動を支援して政府の意向に反する行為をしているのだから、その立場が不利になることは明らかで、私は気がかりでいたが、アンマン大使館から帰国後間もなく紫藤昌彦さんは高田馬場にメンタル・クリニックを開いて一国一城のあるじになったので、私としては一安心した。
私は、大学でウルドゥー語、そしてその関連のペルシア語、アラビア語を学んで、大学院在学中にアルバイトでカルカッタ(現コルカタ)へ行き、そのまましばらくインド・パーキスターン、アフガーニスターンを旅してきた。その時のヒンドゥー教、イスラーム教の信者たちやヒッピーたちとの交流によって、特に未知の人達だったヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の考え方にこの世界の広さを認識させられた。
であるからそれ以来、米国の世界戦略とそれに盲従する日本政府のあり方に疑問を持つようになった。少なくてもインド・パーキスターン・アフガーニスターンの人々のマレビトへのもてなしの心は、民度の高さを感じさせる。そのような国々に住む人々をアメリカ・インディアンと同じように武力で虐殺するのは、米国の精神的な背骨である資本主義的キリスト教そのものに対して疑問を抱かせる。キリスト教は個人的な祈りにおいて有効であり,現在世界人口の多数を占めているが、Foolish Bush のような指導者が出てきてキリスト教徒として十字軍を唱えるところに問題がある。しかし、個人的な祈りというのは、何もキリスト教だけに限ることでなく、どの宗教ででも祈りによる心の深みのへの到達はできる。

『瀬戸内寂聴に聞く寂聴文学史』届く

2009年09月21日 | Weblog
尾崎真理子著『瀬戸内寂聴に聞く寂聴文学史』が著者と中央公論新社両名の謹呈で今日送られてきた。2009年9月25日発行だから、発売前に送ってくれたのだ。これは「婦人公論」に連載され、その編集部から1991年に寂聴さんとイラークに行ったとき私が撮った写真を『寂聴 イラークを行く』から転載したいと言ってきたので、連載中であることを知った。それが単行本になったのだ。350頁余で1600円+税というのは安い。当時アンマンの日本大使館医務官になっていて私達が医薬品を持ってイラークのバグダードに入る時に世話になった紫藤昌彦さんのこととイラーク行きの全てをアレンジした私のことがP.293~8(第四章 文学と祈りの間で)に掲載されている。紫藤さんはつい最近の9月12日にこのブログの「最高裁判所の判事」についてコメントを下さっている。『寂聴 イラークを行く』は絶版になったときに私が買い求めておいたものか古本でしか入手できないが、「人殺しをするなさせるな」という立場の寂聴さんと私が彼女を誘ってイラークに行った経緯がその本の中に著されている。インド旅行になんどかご案内した紫藤昌彦さんがアンマンにいてくれたので大変心強かった。しかも、当時日本政府は当然ながら米国政府のイラーク攻撃を支持していたから、アンマン大使館員は私達に素っ気ない対応であったが、紫藤昌彦さんは、自分の立場を顧みず、私がお願いしていた医薬品を買う準備をしていてくれた。