親から受けついだ土地のひとつを家庭農園と称して従姉妹家族といろいろな作物を栽培している。時間のある時、週に一二度都合のつくメンバーが集まって800坪ほどの畑の手入れをする。収穫物はそれぞれで持ち帰る、というもので、もう10年近く続けている。友人からは健康と実益を兼ねて田園生活を楽しんでいる、と羨ましがられたりするのだが、はたして、これは田園生活といえるのか。
田園という言葉には生活感はあまり感じられない。田園地帯という言葉からは農作業の過酷さなどは伝わってこない。むしろ都会の喧騒を離れているという、優雅な雰囲気をまとった言葉だ。畑仕事の楽しみは土に始まって土に終わる。以前、テレビでモナコの宮廷料理長の日常が伝えられていたことがあった。彼は料理や食材のことは当然一流ながら、本人が本当に強調していたのは、とにかく厨房を磨き上げ、清潔、整理整頓すること、だった。庭仕事や畑仕事もこれに共通するものがある。美しい庭を手に入れる、作物を育てる、というのは土を管理し、雑草を管理することに尽きる。
田園という言葉からは、また、「かへりなんいざ 田園まさに荒れなんとす」という陶淵明の「帰去来兮辞」がすぐに頭に浮かぶ(「帰去来兮」を「かへりなんいざ」と訓読したのは菅原道真)。この詩は冒頭の第一段が夙に有名であるが、むしろ最後の
登東皋以舒嘯
臨淸流而賦詩
聊乘化以歸盡
樂夫天命復奚疑
のほうにもひかれてしまう。
この、最後の一文は、東の丘に登って静かに詩を口にし、清流に臨んでは詩を作る、望むことといえばこのまま自然の変化にまかせて死んでいきたい、天命を甘受して楽しむのであれば、何のためらいがあるだろう、という、一種の無常観をうたったものだ。
今回のコロナウイルスにより、社会も人生観すらも揺り動かされている。外出自粛が長くなればなるほど人々の鬱屈も深くなるのは、都市封鎖を続けてきたロンドンなどにみられるものだ。うちで過ごそう、は大切だし、いたずらに無常を強調するつもりはないけれども、いくらかでも気持ちに余裕をもって、4月の空の下で畑仕事に汗を流すのも、免疫力を高めストレス解消に役立つのではないかと。