2023年上半期(1月~6月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。国際・政治経済部門の第3位は――。(初公開日:2023年5月15日)なぜ日本の半導体産業は凋落してしまったのか。半導体産業コンサルタントの湯之上隆さんは「『技術で勝って、ビジネスで負けた』と理解されることがあるが、それは間違っている。端的に技術で敗北したのだ」という――。
※本稿は、湯之上隆『半導体有事』(文春新書)の一部を再編集したものです。
日本の半導体メモリは韓国企業に駆逐された
2021年6月1日午前9時、筆者は、衆議院の分館4階第18委員室の参考人席に着席していた。衆議院の「科学技術・イノベーション推進特別委員会」から、半導体の専門家として参考人招致を受け、「日本半導体産業の過去を振り返り、分析、反省し、その上で将来どうしたらいいか?」について、意見陳述を行うよう要請されたからだ。
筆者は20分強の意見陳述で、主として次の3点を論じた。
①日本のDRAM産業は、安く大量生産する韓国の破壊的技術に駆逐された
②日本半導体産業の政策については、経済産業省、産業革新機構、日本政策投資銀行が出てきた時点でアウトとなった
③日本は、競争力の高い製造装置や材料を、より強くする政策を掲げるべきである
以下では、これらの要点について説明する。この意見陳述は、衆議院が作成した動画をYouTubeにアップしている。
筆者は、意見陳述のタイトルを、『日本半導体産業をどうするべきか? ――希望は製造装置(と部品)&材料――』として、自己紹介から話を始めた(図表1)。
筆者は、日本がDRAMで約80%の世界シェアを独占していた頃の1987年に、日立製作所に入社して半導体技術者となった。その後、DRAMのシェアの低下とともに技術者人生を送ってしまい、日本がDRAMから撤退すると同時に、早期退職勧告を受けて、本当に辞めざるを得ない事態に至った。
しかし、転職先探しに時間がかかってしまい、辞表を出しに行ったときには早期退職制度が終わって1週間ほど経っていた頃で、部長から「撤回はなしだよ」と辞表をもぎ取られ、自己都合退職となってしまい、早期退職金3000万円はもらえず、退職金はたったの100万円になった。
1980年には世界シェアの80%を独占したが…
日立を辞めた後、紆余(うよ)曲折の末、辿り着いたところは、経営学研究センターが新設された同志社大学だった。今でいうところの特任教授(当時は専任フェローと呼んだ)のポストに就き、約5年間の任期で、「なぜ、日本のDRAM産業が凋落したのか?」を研究した。その分析結果を要約すると、次のようになる。
日本が強かった1980年代半ば頃、そのDRAMはメインフレーム(汎用(はんよう)の大型コンピュータ)用に使われていた。その時、メインフレームメーカーは、「壊れないDRAM」として25年の長期保証を要求した。驚くことに、日本のDRAMメーカー各社は、本当に25年壊れない超高品質DRAMをつくってしまったのである。それで、世界を席巻し、1980年の中期には世界シェアの80%を独占した。これは、技術の勝利だった。
ところが、1990年代にコンピュータ業界にパラダイムシフトが起き、メインフレームの時代は終焉(しゅうえん)を迎え、パーソナル・コンピュータ(PC)の時代がやってきた。そのPCの出荷額の増大とともに、韓国のサムスンがDRAMのシェアで急成長してきた。
この時、サムスンは、「PC用に25年保証は必要ない。5年も持てばいい。それよりも、PC用DRAMは安価でなければならない。その上、PCの出荷台数が桁違いに多いから、そのDRAMは安価に大量生産しなければならない」という方針でDRAMを製造し、日本を抜き去ってシェア1位に躍り出た。
ビジネスだけでなく、技術面でも負けてしまった
この時、筆者は日立の半導体工場でDRAMの生産技術に関わっていたが、筆者も、日立も、日本の他のDRAMメーカーも、誰もがPCの出荷額が増大していること、サムスンのDRAMのシェアが急成長していることを知っていた。
しかし、そうであるにもかかわらず、相変わらず日本のDRAMメーカーは25年壊れない超高品質をつくり続けてしまっていた。その結果、サムスンの安く大量生産する破壊的技術に駆逐されたのである。
日本のDRAM敗戦について、「技術で勝って、ビジネスで負けた」という人がいるが、それは間違っている。日本は、韓国に、技術でもビジネスでも負けたのである。もっと言うと、技術で負けた要因が大きい。
それは、日本が撤退する直前の64メガDRAMのマスク枚数を見てみれば、一目瞭然である。おおむね微細加工の回数を表しているマスク枚数を比較すると、日立29枚、東芝28枚、NEC26枚だったのに対して、韓国勢は20枚くらい、米マイクロンに至っては約半分の15枚でPC用DRAMをつくってしまった。
当然マスク枚数が多いほど、工程数も多くなり、高額な微細加工装置の台数も多くなる。それ故、製造装置の原価がかさみ利益が出ない。その結果、日本のDRAMメーカー各社は大赤字を計上し、撤退に追い込まれていったのである。これは、明らかに、技術の敗北である。
意味なく「超高品質」を目指してしまった
日本の半導体産業は、1980年代に、メインフレーム用に超高品質DRAMを製造して世界シェアの80%を独占した。この時、DRAMメーカー各社の開発センターや工場に、極限技術を追求し、極限品質をつくる技術文化が定着した。1980年代には、それが正義だったため、日本は世界を制覇できたわけだ。
ところが、1990年代になると、コンピュータ業界が、メインフレームからPCへパラダイムシフトした。DRAMの競争力は、「超高品質」から「安価」であることに変わった。しかし、ここで日本は、DRAMのつくり方を変えることができなかった。結果として、過剰技術で過剰品質をつくることになり、大赤字を計上し、撤退するに至った(図表2)。
さらに、1社残った日立とNECの合弁会社のエルピーダは、この高品質病がもっとひどくなり(2005年頃には、マスク枚数は50枚を超えていた)、2012年にあっけなく倒産してしまった。
一方、サムスンはPC用に、適正品質のDRAMを安価に大量生産することに成功し、シェア1位となった。これは、ハーバード・ビジネススクール教授だったクリステンセンが言うところの「イノベーションのジレンマ」の典型例である。超高品質で世界一になった日本が、そこから自らを変えることができなかったため、それより信頼性が劣るサムスンのDRAMに駆逐されていったからだ。
なぜ日本の半導体産業は凋落したのか
問題は、日本がDRAMから撤退し、大規模なロジック半導体(SOC)へ舵を切っても、この高品質病は治らず、より悪化し、重篤化していったことにある(図表3)。DRAMを含む日本のすべての半導体のシェアは、1980年代半ばに約50%でピークアウトして、凋落の一途を辿った。
そのシェアの低下を食い止めようと、主として経産省が主導し、国家プロジェクト、コンソーシアム(共同企業体)、エルピーダやルネサスなどの合弁会社を設立したが、全て失敗した。何一つ、シェアの低下を食い止めることはできなかった。
それはなぜか? その主たる原因は、診断が間違っていたことにある。人は、「咳が出る、熱がある、身体がだるい」という症状が出たら、病院に行って医師の診察を受ける。昨今なら、コロナなのか、インフルエンザか、単なる風邪か、という診断を受け、それをもとに処方箋を出してもらう。
日本の半導体産業も、各社のトップ、産業界、経産省、政府などが、病気の診断を行い、それに基づいて処方箋を作成し、実際に処方した。しかし、全て失敗した。その理由は、診断が間違っていたからである。そのため、その処方箋も的を射ていなかったわけだ。
「過剰技術・過剰品質」にこだわり過ぎてしまった
日本の病気の本質は「過剰技術で過剰品質をつくってしまう」ことにあった。しかも、時代が変わっているにもかかわらず、過去の成功体験を引きずり、「今でも自分たちの技術が世界一」と己惚(うぬぼ)れていた。
誰もこの病気に気がつかなかったばかりか、より過剰技術で過剰品質をつくることに、各社、産業界、経産省、政府が注力した。その結果、病気は治らずより悪化し、エルピーダなど死者もでた。そして、SOCビジネスも壊滅的になってしまった。
日本の半導体産業は挽回不能である。特に、TSMCが世界を席巻しているロジック半導体については、日本のメーカーは2010年頃の40nmあたりで止まり、脱落してしまった。いったん、微細化競争から脱落すると、インテルの例でわかるように、先頭に追い付くのはほとんど不可能である。
したがって、日本がいまさら、最先端の7~5nmを製造することなど(まして2nmなど)、逆立ちしたって無理である。ここに税金を注ぎ込むのは無駄である。歴史的に見ても、経産省、産業革新機構、政策銀行が乗り出してきた時点でアウトなのだ。
半導体材料や製造装置には希望がある
では、日本に希望の光はないのかというと、まだ、ある。それは次の3点である。
①ウエハ、レジスト、スラリ(研磨剤)、薬液など、半導体材料は、日本が相当に強力である
②前工程で十数種類ある製造装置のうち、5~7種類において、日本がトップシェアである
③欧米製の製造装置であっても、数千~十万点の部品のうち、6~8割が日本製である
つまり、半導体デバイスそのものには期待できないが、各種の半導体材料、前工程の5~7種類の製造装置、そして、装置が欧米製であっても各装置を構成する数千点の部品の内の6~8割が日本製であり、ここに日本は高い競争力を持っている。
アジアを俯瞰(ふかん)すると、明確な役割分担が見えてくる(図表4)。
「強いものをより強くすること」が重要
サムスンとSKハイニックスを擁する韓国は、メモリ大国となった。台湾には言うまでもなくTSMCがある。ファウンドリーで世界シェア1位、微細化でもぶっちぎりのトップを独走する、世界の半導体のインフラだ。中国には、ホンハイの大工場群があり、世界の半導体の35%以上を吸収し、各種電子機器を組み立てる世界の工場となった。
これに対して、日本は、韓国にも、台湾にも、そして欧米にも、半導体製造装置(およびその部品)と半導体材料を供給している。装置、部品、材料、その中の一つでも供給が止まれば、韓国も、台湾も、欧米も、半導体を製造できない。そのような重要な役割を日本は担っている。
世界中のファブレスが殺到するTSMCが注目されている。しかし、そのTSMCといえども、日本製の装置(とその部品)や材料なくして、最先端プロセスで半導体を製造することはできない。その装置の半分弱が日本製であり(部品レベルでは6~8割が日本製)、材料の7~8割が日本製なのだ。
したがって「強いものをより強くすること」を第1の政策に掲げるべきである。これが、日本半導体産業に対する筆者の提言である。
意見陳述は政策にまったく生かされなかった
意見陳述の時間は15分だったが、筆者は5分以上超過してしまった。しかし、筆者の意見陳述を止めるものは誰もいなかった。衆議院議員からは、大ブーイングが来ることを覚悟していた。これまでの政府および経産省の政策を全否定したからである。
ところが、意外なことに拍手喝采を受けてしまった。そのため、意見陳述の後に、不思議な気持ちになるとともに、もしかしたら、筆者の主張が議員の胸に届いたのかもしれないという実感も湧いた。
しかし、残念なことに、筆者のこの意見陳述が、その後の半導体政策に生かされることは、全くなかったのである。それどころか、日本半導体産業は問題だらけで、無謀かつ無意味な方向へと突き進み始めていった。
---------- 湯之上 隆(ゆのがみ・たかし) 半導体産業コンサルタント、ジャーナリスト 1961年生まれ。静岡県出身。1987年に京大原子核工学修士課程を卒業後、日立製作所、エルピーダメモリ、半導体先端テクノロジーズにて16年半、半導体の微細加工技術開発に従事。日立を退職後、長岡技術科学大学客員教授を兼任しながら同志社大学の専任フェローとして、日本半導体産業が凋落した原因について研究した。現在は、微細加工研究所の所長として、コンサルタントおよび新聞・雑誌記事の執筆を行っている。工学博士。著書に『日本「半導体」敗戦』(光文社)、『電機半導体大崩壊の教訓』(日本文芸社)、『日本型モノづくりの敗北』『半導体有事』(ともに文春新書)がある。 ----------
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