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請求書

2006-12-22 | 心の体験的日記
原稿を書いた
ついては、原稿料2万円の請求書を市販のもので
請求してほしいとのこと
はじめての経験である

一枚の請求書をどこで手にいれるか
コンビにありそうだが、一軒ではそんなものありませんよ、
という顔で、もう一軒も同じような顔でありませんと言われる。

文房具店ならと思うが、それがどこにあるかわからない。
というより今、文房具店なんてあるのかなー

明日、東京に行くので、見つけてやるぞー
なんとしても、2万円の原稿料を手に入れ家計の足しにするぞー


情報源の信憑性 用語解説

2006-12-22 | わかりやすい表現
現代用語の基礎知識 海保執筆分
■情報源の信憑性(credibility of information)
同じ組織が何度も誤った情報を提供したり、情報の小出しや隠蔽をすると、その組織から発せられるすべての情報の信憑性は格段に低下してしまう。
一般に、情報源の信憑性は、送り手が真実を語り、さらに専門的な知識を充分に持っていることが認識されることで保証される。そして、ときには、組織にとって不利な情報をも提供する(両面提示する)ことが要求される。

子どもの集中力

2006-12-22 | 教育
06・12・13 海保博之
プレジデント・ファミリー取材原稿

●勉強のためのガソリンをうまく使う力
 落ち着きのない、集中力のない子が増えています。席に座っていられない小中学生や、携帯電話に気を取られて講義が上の空な大学生が珍しくありません。
 これでは、学習に打ち込むことは難しいでしょう。勉強するときにはきちんと机に向かい、休むときはうまく気分転換ができることが大事です。
そんなときの力になるのが集中力です。
勉強だけでなく、社会でうまくやっていくためにも基礎となる力なので、子供のうちに身につけたいものです。
「うちの子は集中力がないから」と諦める必要はありません。幸いなことに、集中力は、才能ではなく、誰でも習得することができるものなのです。問題はそのやり方を知っているかどうかです。
 集中力とは自動車のガソリンのようなものです。アクセルを踏み込んで、エンジンにたくさんのガソリンを供給すれば馬力が出てスピードが上がります。同じように、集中すれば頭の働きや体の動きがよくなります。つまり、集中力は頭や体の働きをコントロールするエネルギー資源なのです。
 ただし、自動車ならスピードを出したければアクセルを深く踏めばよいのですが、集中力にはアクセルペダルはありません。そのために、集中のスイッチを入れるための様々な工夫が必要なのです。
 また、車を走らせればガソリンが減るように、集中力も使えば減ります。たくさん使えばそれだけ減り方も激しい。ガソリンも集中力も、補給しなければガス欠を起こします。
 集中力が無限にあれば、いつでもどこでも何にでも力を振り向けられます。しかし、有限である以上、闇雲には使えません。注意を何に振り向けるか(選択)、どれくらい配分するか(配分)、どれくらい持続させるか(持続)、をコントロールできることが大事になります。
 つまり、集中するための方法を知っていて、上手にエネルギーを配分でき、気分転換もうまい。そういう人が集中力がある人といえるのです。



絶対評価の導入は教育の何を変えるか

2006-12-22 | 教育

5/17  学校運営研究 明治図書 01/8
海保博之 筑波大学「心理学系」教授

絶対評価の導入は教育の何を変えるか

もうひとつの評価を活かす

●はじめに---「絶対」はおおげさだが
 絶対評価の導入が教師、子ども、親の何を変えるかを、変わってほしいとの期待を込めて考えてみたい。
 その前に「絶対評価」という用語をめぐって一言。
 平凡社の心理学辞典には、「絶対」を冠した用語として、次の3つがある。
・絶対音感 単音の音階がわかる
・絶対判断 単独の刺激に対する判断
・絶対尺度 絶対ゼロ点のある尺度
 いずれも、「他と比較することなくそれだけで孤立して」という意味では、絶対評価の「絶対」と共通している。
 「相対」評価の対語として自然に「絶対」評価となったのであろうが、それにしても、大げさで、あいまいで、威厳のありすぎる(?)用語ではある。
 「いわゆる」を冠して使われてきたのも、「絶対」の持つ威厳をやわらげる効果をねらったのかもしれない。
 渋谷提案にあるように、「目標準拠評価」が内実にあった妥当な用語であると思うが、しかし、これはこれで「相対評価」が流通している我が国では対になる「俗語」としては流通しにくい。ここでも、括弧内の「いわゆる絶対評価」が生きてくるのかも。
 本稿では、渋谷提案を支持する意味で、「目標準拠評価」を以後使っていく。

●教師を変える
 ---指導と評価の一体化を促す
 年度末や期末になって指導要録に、目標準拠評価の結果を記入する作業は簡単ではない。評価の信頼性や妥当性をまともに(?)考えたら、手がすくんでしまうかもしれない。
 手をすくませる事情は2つある。
 一つは、目標がマクロになるほど、あるいは、長期になるほど、抽象的になってしまうからである。評価のために準拠したい目標が抽象的になれば、目標の到達度を、テストや行動観察のような、具体的なところに落として評価するのは絶望的なほど難しくなる。
 2つは、教科の内容領域によって、子どもの達成度は異なるのが普通である。1学期で、一人の子どもの中で、あの単元では高い到達度に達しているのに、別の単元ではあまり高くないというようなことが起こる。となると、1学期を総括した評価をどのように記入すればよいのであろうか。
 こうした困惑を解消する決め手はないが、目標準拠型の標準学力検査のようなものが今後どんどん開発されてくれば、一つの有力な目安として活用できるかもしれない。
 しかしながら、指導要録に目標準拠評価を記載することが本質的な問題なのではない。それが象徴的に訴えている評価観と指導観のほうが、教師の日常的な教育活動では大事であるのだから、そちらのほうに目を向けるべきであろう。
 つまり、評価が目標準拠になれば、当然、指導のための目標分析とその到達度分析が行なわれなければならない。それをどうしたら有効なものにできるかを考えるほうが筋というものであろう。
 ここで、再び、あのブルームの教育目標の分類学が引き合いに出されることになるはずである。単元内容---こうした分析が可能なのは「単元」くらいまでが限界であろう---の内容目標と能力目標の分析とを組合わせた、周知の構造図の有効性が再び問われることになろう。
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表 内容ー目標(能力)構造図

       認 知 領 域     
  知識 理解 応用 分析 総合 評価





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 すべての教科のすべての単元について、こうした子細な目標分析ができるとは思えないが、具体的な指導や評価に落としこむことを想定したこうした分析の観点と枠組は、日常的な指導と評価の一体化のためには極めて有効なことは間違いない。とりわけ、基礎・基本領域については、不可欠といってよい。

●親/子どもを変える
 ---上との関係で子ども/自分をみる
 人と一緒のところでは、誰もが人との比較によって自分の位置づけをしたくなるのは、当然の心性である。これを比較心性と呼んでおく。相対評価はこの比較心性にかなったわかりやすくて納得のしやすい情報を提供してくれたわけである。
 さらに、世の中や教育の中にある競争的な要素が、相対評価を一層、重視させることになった。
 こんな状況のところに、目標準拠評価を導入することは、親や子どもに「横ばかり見ていないで、上も見なさい」というメッセージを伝えることになる。
 見上げた上に何があるかを見せるためにも、前述した目標分析が必要になる。そして、さらに、目前の目標のもっと先にある目標までが見えるようになっていればなお一層、親や子どもにとっては、学ぶ方向がみえてくるし、さらに生きていく道を知るためにも有効であろう。
 これによって、親や子どもは、横との比較とは違った視点から子ども(の学力)を位置づけることができることを知る。これを、比較心性に対して絶対心性と呼んでおく。目標準拠評価の導入は絶対心性の大事さを親や子どもに訴えることによって、子ども/自分の得意領域は何なのかに目を向けさせることになる。ときには、同じ土俵の上で勝負しなくとも勝てる土俵があることを知るきかっけになるかもしれない。

●おわりに---もう一つの見方を
 それでも、目標準拠評価が、お題目として提案されるのではなく、指導要録という公的書類の記録として導入されることの意義は大きい。これをどれだけ積極的に活かしていくかは、教育改革の正否を決めるであろう。その活かし方の一端をのべてみたつもりである。
 蛇足になるが、最後に、集団準拠評価をどうするかについて一言。
 学校から偏差値が駆逐されて久しい。だからといって、集団準拠評価が無用だと思っている人は子どもも含めて皆無であろう。ただ昔ほどには集団内の比較が協力かつ精緻ではなくなってきていることは確かである。入試の多様化がすすんできているからである。
 こんな状況のところへの目標準拠評価の導入である。子どもの評価の視点がもう一つ増えたこと、そして、両者の使い分けの適切さが問われることを知るべきであろう。

明日で年内授業終わり

2006-12-22 | 心の体験的日記
4月からの環境激変にもめげず、
よくがんばった。
年末年始は、ゆっくりとやすむことにしようと思うが、
ここで、一仕事、とためてしまったものがあるので、
朝の仕事はいつものようにやらざるをえない。
でも、通勤2時間がなくなるのが助かる。

写真 近所のゆず