認知活動は最終的には行為として実現される
しかし、認知と行為の間には微妙なズレがある。そのズレがエラー、事故につながる。
また、行為そのものも、機械ほどの信頼性はないので、思わぬエラー、事故が起こってしまう。
行為は目に見えるので、認知活動よりも管理が容易に思えるが、それを支えている認知
活動と一体である。
行為だけでなく認知活動にも思いをはせ最適管理が必要である。
都会も田舎も、いたるところ、
実に整然と整備されている
とりわけ道路や公園や駅
さらに、エスカレータ、エレベータなども
やや完璧度、清潔度が高すぎないか<<変な言い方だが
地震がくれば一瞬にして瓦礫
その落差が恐い
構築した社会資本より
自然のままに存在する社会資本
たとえば、土の見えるところ
自然の草木
低層の建築物
などを蓄積してバランスをとる考えも必要ではないか
「思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的にも飢え、精神的にも飢えている状態に必要なのですね。飢えているからこそ、壮大なフィクションの中に入ることができる(司馬遼太郎)
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司馬語録である。
飢えが思想を生む。
毛沢東
マルクス
そして、数々の哲学者も、飢えが生んだあだ花なのか。
かれらにとって代わる思想が生まれるためには、
またまた飢えの時代を必要としているのだろうか。
飽食は、怠惰、退廃しか生み出せないのか。