Q2・11「心理学において、野生児のような特殊な事例はどのように位置づけられているのですか」---特殊事例研究
野生児とは生後まもなく何らかの理由で人間的な環境を剥奪されたまま成長した子どものことです。世界で30例くらい報告されています。人が育つためには人間的な環境がいかに大切かを示す事例として、心理学でも貴重なデータとしてよく引用されます。
こうした特殊事例研究は、統計処理を行なう研究法の対極に位置づけられます。統計処理に基づく研究が主流ですが、こうした特殊な事例の研究も決して否定されているわけではありません。 たとえば、最近、吉村浩一氏らは「特殊事例がひらく心の世界」(ナカニシヤ出版)という本を出版しています。その目次の一部を挙げておきます。野生児以外にどんな特殊事例があるかをうかがい知ることができます。
「超人的な記憶力の持ち主」 「自らが語る自閉症の世界」 「チンパンジーに言語を教える」 「逆さに見える世界への知覚順応」 「視覚機能に選択的な脳の障害」 「心の病かパーソナリティか」 「多重人格」
では、こうした特殊事例は、心理学の中でどのような意味を持っているのでしょうか。
一つには、人あるいは心をみる基本的で根源的なテーマへのヒントを提供してくれる意味があります。
「記憶とは一体どういう意味があるのか」「周囲の人々と交流することによって何を得ているのか」「言語習得とは何をどのように学ぶことなのか」「外界を認識するとはどういうことか」「心と脳の関係はどうなっているのか」「心を病むとはどういうことなのか」「人格と何か」といったような基本的なことは、あまりにわかりきったことであると思い込んでいるのか、それとも手に余るビッグテーマと諦めているのか、あらためて問い直すことをせずに、日々の「蛸つぼ的な」研究をしているようなところがあります。しかし、こうした特殊事例を見せつけられることによって、こうしたビッグテーマについての研究心があらためて刺激されます。
2つには、特殊事例には、普通の人が普通に持っているがゆえに見逃されてきた心の機能が突出して出現しているとみることができます。
超人的な記憶力の持ち主が何をどのように記憶しているかがわかれば、その中には、普通の人でも使える記憶方略があるかもしれません。あるいは、自閉症者の語りの中に、家族や周囲とのより良いかかわり方のヒントが得られるかもしれません。
いわば、特殊の中に普遍(普通)をみるわけです。医学で言うなら、病気を調べることでその器官の働きがわかってくるようなものです。
3つには、心理学の伝道師としての意味です。
授業をするときなどに、こうした特殊事例をまず紹介しますと、学生の興味関心を引きつけることができます。人は、自分とはなはだしく違った存在には注意を向けるからです。
ただ、特殊事例はそうたくさんはありません。「アーまたあの話」となりがちです。そこで、心理学の研究者は、自分の心の観察も含めて、観察力をもっとアップして、日常の中に、特殊事例を発掘する必要があります。そこには新たな実験研究への芽があります。
***** 心の実験室「円周率を4万桁記憶してしまう!」 次の円周率をどこまで記憶できるか挑戦してみよう。
3.1 4 1 5 9 2 6 5 3 5 8 9 7 9 3 2-----
「解説」 友寄英哲氏は、円周率を4万桁まで記憶してギネスブックに登録された人としてよく知られている記憶術者です。本職はサラリーマンですが。
その記憶術の骨子は、数字を2個ずつに区切り、それに音の類似した具体名詞を結びつけます。ついで、それを次々に文にして場面をイメージ化しながら、つないでいきます。たとえば、 「14」「15」---<石>を使って<イナゴ>を砕く 「15」「92」---<イナゴ>を<靴>に入れる 「92」「65」---<靴>で<婿>を殴る 「65」「35」---<婿>が<サンゴ>の上に乗る これを延々と続けると、最後は4万桁の記憶ができるというわけです。友寄氏のなみなみならぬ苦労を綴った本(「すーぱー記憶術」読売新聞社)もあります。 これができるようになるためには、00から99までの数字に具体物を割り付ける記憶表が必要となります。「00ならおわん」「42なら死人」「99なら救急車」というように。
記憶術を使うために記憶表を記憶をしなければならないのも、おかしなものです。
なお、歴史の年号を覚えたりするときに使う「ごろ合わせ」も、意味のない数字列に無理に意味を付与して記憶させようというのですから、その点ではこれと同根です。 記憶術には、私たちが効率よく記憶するためのノウハウがありますが、記憶術そのものは知的大道芸に過ぎません。基本は、意味づけしながら覚えるための良質な知識を豊潤にすることです。