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外向性対内向性」講義ノートより

2014-04-23 | 心理学辞典
●精神分析学者K.ユングによる
●外向的なほうが西洋社会では好まれるが、日本の社会では、内向的なほうが好まれる場面が多い。
●H.アイゼンクによると、神経系の機能によって、外向vs内向が分かれる。
  外向的な人は、タフな神経系をもつので、刺激をほしがり、創造的。



精神分析」心理学ってどんなもの

2014-04-23 | 認知心理学

Q2・12「社会の授業で、フロイトの話を聞きました。非常におもしろかったのですが、先生は、これは’心理学ではなく、一つの思想’と言われました。どういうことでしょうか」----精神分析

 精神分析の評価は大変難しいものがあります。20世紀初頭に、S.フロイト
(Freud;1856-1939)が精神分析の理論を提唱したときもそうですが、今でも、その評価は割れています。
 かつてアメリカの心理学者100名に心理学史上最も影響のあった著作を問うたところ、J.フロイトの著作がダントツのトップになりました。ちなみに、第2位は、人間の意識の機能を重視して、アメリカ機能主義心理学の祖となったW.ジェームズ(James)でした。
 かといって、精神分析が、今の心理学界に「正統な形で」受け入れられているわけではありません。学会での発表も皆無です。しかし、2100名を擁する日本精神分析学会がありますから、心理学としての評価とはまた違った評価もあるはずです。
 というわけで、精神分析全体の包括的な評価となると手にあまりますので、ここでは、「科学としての心理学」の立場からという限定をして、フロイトの精神分析の評価をしてみます。
 精神分析の考え方の基本は、自然科学の基本である、因果律に従って、人の心にかかわる現象を説明しようとするところにあります。この点で、精神分析はきわめて「科学的」と言えます。J.フロイトは医者ですから、因果思考の訓練は充分にうけていたはずですから、当然かもしれません。
 さまざまな心的事象の原因として措定するのは、無意識の世界にため込まれる、乳幼児期における欲求不満や心的なショック体験(精神的な外傷;trauma)によって作り出される抑圧されたエネルギ(リビドー)です。それが、青年期になって、神経症などの多様な情緒的な不適応行動を引き起こします。これが結果になります。

 さて、因果律に従ったモデル構築は問題ないのですが、次のような点は、大いに問題とされます。 
 一つは、原因と結果との間の時間的な関係にかかわる問題です。
 フロイトは、乳幼児期の精神的外傷を、原因として重視します。それが、長い潜伏期間を経て、青年期にいろいろの悪さを引き起こすと考えます。
 しかし、それほどの長い間、原因としての力を保持し続けることが、いかに心の世界とはいえ、ありうるのでしょうか。ある原因が次の結果を引き起こし、それが原因となって次の結果を引き起こし---というような因果の連鎖を仮定するほうが自然です。その連鎖が人によって異なるからこそ、同じ精神的外傷を受けても、ある人は神経症になり、ある人は普通に適応しているのではないでしょうか。そう考えないと、人の一生は、きわめて決定論的なものとなってしまいます。
 2つ目の問題は、因果的な「説明」にかかわるものです。
 精神分析における因果的説明の特徴は、今現在起こっている症状の原因を説明するために幼児期まで遡るところにあります。時間を逆に遡る形で結果の説明をするわけです。これは、結果論とか、後付け説明(Q2.8参照)、あるいは、逆問題解法と呼ばれています。
 これも、精神分析特有の説明ではありませんが、前述したように、自然科学と違って、精神分析では、かなり危ない面があります。いくらでも「こじつけ説明」ができてしまうからです。交通事故を起こしたときの原因追及と比較してみてください。この場合の逆問題解法にも、もちろん危ない面はありますが、最終的には実験的な検証ができる形で決着がつけることができます。精神分析的な説明には、その正しさを保証するものがないのです。
<<1行あき
 科学的な因果モデルとしての精神分析の問題を2つあげてみました。それほどの問題がありながら、なぜ、J.フロイトの著作は読まれるのでしょうか。筆者も大学に入ってすぐに夢中で読みました。
 それは、質問にある「それは一つの思想」という表現に凝縮されています。つまり、精神分析は、人間を考えるための大きな枠組を提供してくれる点で大いに役立っているのです。科学をめざす心理学では、ともすると忘れがちな人間をとらえる大きな枠組、もっと言うなら、グランドセオリーを提供してくれているのです。
 そして、理論そのものではないのですが、その中にあるいくつかの鍵概念をめぐっては、科学的心理学の研究のまな板にのせることも行われています。
 一度は、J.フロイトにのめり込むのもいいかもしれません。ただ、そこから脱出してサイエンスの世界に戻ってきてもらわないと困ります。

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心の談話室「精神分析してみる」

次のような男性恐怖症を主訴とする38才の女性について、精神分析してみます。
ただし、あくまで精神分析を知ってもらうためもので事例も分析も本物ではありません。

「ケース」
「****別添***」

(次郎丸睦子氏による。一部省略)

「分析結果」
 トラウマになっているのは、不本意な性的体験。それを家族や人に相談できなかったために抑圧されたエネルギーが内向した。また、父親からの溺愛は、幼児期における異性への安定した感情形成にネガティブな影響を与えた可能性がある。つまり、父親の溺愛がエレクトラ・コンプレックスを十分に解消されないままにさせた可能性が考えられる。その気持ちを隠すため、男性から逃避しなければとの防衛機制が働いて男性への異常な恐怖心を抱くようになったと考えられる。

 
 











勉強の習慣

2014-04-23 | 教育
「勉強の習慣」 
●圧倒的に少ない勉強時間
 ベネッセ教育研究開発センターの調査によると、45か国中、日本の中学生の1日あたりの勉強時間は1時間で最低。
 さらに、同センターは、もっとショッキングなデータも公表している。
 高校2年生4464人を対象におこなった調査データである。
偏差値45~55の中間層の生徒(人数割合で4割弱)の勉強時間が、1990年と比較すると、2006年時点でほぼ半減している。トップ層の勉強時間は高いレベルで一定なので、知的格差が拡大していることになる。
これは、「知的」中間層の消失を予兆するきわめて深刻なデータといってよい。「経済的」中流層が解体されつつあるらしい昨今、「知的」中間層まで解体されてしまうと、日本、これからどうなるのか。大いに心配である。

●勉強の習慣をつけさせないもの
 勉強するには、習慣化していてもそれなりの努力がいるもの。だから「強」いて「勉」めるのである。習慣化してなければ、その努力は何倍も必要となる。机に座る前から怖気づいてしまう。
 中高校生の頃から、試験を意識させながらの勉強の習慣づけが一番やりやすいのだが、勉強することから降りても上の学校に入学できる制度(推薦入学やAO入試)が定着してしまったのが痛い。
 さらに、勉強以外にやることや楽しみが多すぎる。TV、ITゲーム、携帯などなど、勉強そっちのけにさせてしまうもの、それも手軽なものがありすぎる。
 そしてとどめは、勉強がより豊かな人生へと導くという認識が、飢えとは無縁の世代では極めて薄いことも、勉強への動機づけを低下させる。
 というわけで、日本の子ども、若者の勉強時間が圧倒的に少なくなってしまったのだ。これでは、日本の将来が不安。なんとか勉強の習慣を身につけさせたいもの。そのためのいくつかの提案をしてみたいのだが、その前に、習慣について一言。

●習慣とは
 「第二の天性」とも言われている習慣。
 しかし、習慣は天性ではなく、生まれてから後に努力によって形成されたものである。習慣の完成までの間は、かなり意識的な努力を必要とするし、技能が伴う時には、その訓練も必要となる。
どれほどつらく長くかかったものでも、ひとたび獲得されてしまえば(習慣化されてしまえば)、行動的にも認知的にもコストがかからない。だからこそ天性のごとくみえるのである。したがって、その習慣が好ましいならーー好ましくない習慣も山ほどあるーー身につけて、あるいは身につけさせてしまうに越したことはない。
 そのようにして形成された習慣の行動的なレベルでの特徴を挙げてみると、次の2つになる。
 1つは、その時その場に臨めばいつも同じ行為をする。
 2つは、その行為は最初のきっかけ(トリガー刺激)によって自動的に要素行為が進行していく。多くは、時間がトリガー刺激になるが、場(状況)や声かけなどによっても自動的に進行する。
 さらに、行動は認知によってもガイドされている。習慣的な行動も同じである。その認知レベルでの習慣の特徴は、2つある。
 1つは、認知的な努力がほとんど払われることはないことである。あたかも、状況にガイドされて動く自動機械のようなものである。
 2つは、したがって、行為全体は意識的であっても、要素行為は無意識的なことである。いつもと同じ状況であれば、何も考えずにいつもの行動ができる。
 こうした習慣が、勉強についても身についてほしいというのが、今回の話である。

●勉強の習慣を身につけさせる
 大きな話としては、「学校の」勉強があまり好きでない子ども、学校の勉強の習慣がつかない子どもは、無理に「学校の」勉強をしないでもすむような制度、社会づくりが必要なのだと思う。つまり、やみくもに高い学歴を求めて進学しなくとも自尊心をもって生きていけるような社会にすることだと思う。
人は学ぶ動物である。学ばねばならない状況になれば学ぶ。学校では学べなくとも社会のしかるべき状況ではすんなりと学べる子どもは多い。多くの職人がそうして大成してきた。
大学進学率、いや大学卒業率――日本の大学では、両者がほぼ同じ、というのも問題――はせいぜい40%程度が上限ではないかと思う。今の日本の大学進学率50%越えはやや行き過ぎだと思う。
 こんなことを言っていても始まらない。商品の普及もそうだが、50%を超えると爆発的に普及するから、大学進学率も60%くらいまではあっというまにいくかもしれない。それはさておき、本題の勉強の習慣作りの勧めを4つほど。
① 家庭の雰囲気を知的に
 家庭の雰囲気が知的でなければ、勉強の習慣を子どもだけに望んでもうまくいかない。勉強しないとその知的雰囲気に入れない、つまり、家族のメンバーとしての居心地が悪いように思わせるのである。
② 毎日決まったことを決まった時間と場所で
いつでもどこでも勉強できるようになるのが望ましのだが、そうなるためには、まずは、きっちりとした手順に従って勉強するようになれることが先決である。
③ 習慣になるまでは小うるさく介入
 子どもの自律心を育てるためには、最初から自律させたいところであるが、それは無理。習慣形成に関していうなら、まずは、小さいことから叱ったりほめたり、次第にその頻度を減らし、大きい単位で介入すればよいようになってはじめて自律できるのだ。

● 勉強の習慣の中で陶冶されるものが大事
見かけの上で(行動的に)勉強の習慣が形成されるまでの間に、心の中でも(認知的にも)習慣が形成されることが実は大事なのである。
たとえば、わからないことをわかるための思考方略、注意集中の仕方、大事な情報を見つけ出すコツ、覚えこんだり、思い出したりするコツなどなど。いわゆる勉強のための心の活用の仕方についても習慣が出来上がることが大切なのである。これが勉強をさらに高度化したものに導いてくれるからである。

図書館時報より