著者:オフィス北野 ニッポン放送 高田文夫事務所 太田プロダクション 兵庫慎司
ついに出た、という感じですかね。伝説の深夜番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」を採録するというコロンブスの卵のような企画本。編集を担当した兵庫慎司はロッキングオンの社員。【日本のAMラジオ史上、もっとも絶大なる支持と人気を誇り、もっとも巨大な影響力を集め、そしてそれがおそらく今後も、誰にも破られることのないであろう】と評価される(わたしも同意する)あの番組を、兵庫は“信者たち”……浅草キッド、さくらももこ、松尾スズキなどの証言をまじえて、あの頃の、あの感じの再現に成功している。テープを提供したのは全番組を録音していた水道橋博士である。
まずはわたしもたまたま聴いていて死ぬほど笑った1981年1月1日。かの有名な第1回の放送はこう始まったのだ……
たけし:「元旦や 餅で押し出す 二年グソ」 ビートたけしのオールナイトニッポン!
(テーマ曲~ビタースィートサンバ 協賛クレジット)
たけし:いやー、言っちゃったなあしかし。今日から始まったけど、いつまで続くかわかりませんけど、やりたいことはいっぱいあるんですけども、どうやったって何ヶ月で降ろされるかっていう問題でございましてね。
……前任者のダディ竹千代があっという間に降ろされたことをさしている。その証拠に
たけし:ダディが来て、たけしが来て、あと誰につなぐのか、あとが問題です。そいつのスケジュールがですね、今アメリカに行ってるとかそういうことがあってですね、何ヶ月かつないでおこうという、そういうのがミエミエなんですけどねえ。
……そのとおりだったのだろう。前に「深夜の人たち」で特集したように、浜田省吾がレコーディングで渡米したときに大友康平が代打に起用されたのと似たパターンか。ニッポン放送がたけしをパーソナリティに起用する上で、それほど大きな期待をもっていたはずがない。だって当時のたけしといえば、漫才ブームの渦中とはいえ、トップはB&Bだったりざ・ぼんちだったわけで、ツービートはあくの強い、それだけに通好みの存在にしかすぎなかったわけだから。おまけに、この番組がたけしにとってほとんど初のピン(ひとり)の仕事だったのだ。当時のたけしが、34才になったばかりのころである。今だから話せるが、との前置きでディレクターがばらしたところによると
「さすがに危ないんで、初回は録音でした。」
わかるなあ(笑)。以下次号。
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