最後にふれておきたいのは、下山事件というより、この「下山事件(シモヤマ・ケース)」という本の成り立ちについて。
森は本職がTVディレクターである以上、シモヤマ・ケースはまず映像作品として企画されている。途中でTBSが「報道特集」の枠を提供することになり、森が身銭を切って取材する状況からは脱却できた。しかし、50年も前の事件の調査という性格上いつまでも番組として完成しないことにTBSは業を煮やし、契約は破棄される。ふたたび森は自分のチームだけで動かなければならなくなった。そこへ「ウチの記事にしませんか」と申し出てきたのが週刊朝日。優秀な記者がサポートについて、取材は再開。
だが、編集部内の暗闘が森の思いをねじ曲げる。見切り発車の形でネタにされ、そしてなんと“優秀な記者”が自分の名前でこの事件のルポを上梓してしまうのだ。
何より驚かされるのは、この事態を「よくあること」と森が恬淡と総括していることか。今回は新潮社が森に「もう一つの下山事件ルポ」を発表する機会を与えたからまだいい。しかしこの僥倖がなかったとしたら?
おそらくは、多くの無名ライターの嘆きの上にこの国の出版界は成り立っている。そのことをまず、わたしたちは認識しておこう。
森の弁護が続いたようだけれど、もうひとつ指摘しておきたい。一連の取材で森がとった手法は反則すれすれ、というか歴然とルール違反だ。下山事件のしの字も出さずに情報源に取り入ることはもちろん、「主観的事実」という便利なことばで裏をとりきれていない部分まで露わにしてしまっている。(これは後に特集する「職業欄はエスパー」にも通じる)
こんなことも、「よくあること」なんだろうか。オウム取材では圧倒的に有効だったこの手法が、反撃の機会をもたない無名の個人に向かうとき、ジャーナリストは、はっきりと『民衆の敵』になるだろうに。
※週刊朝日の記者だけでなく、“孫”もなぜか自発的に下山事件について語った作品を発表している。事件の闇は、現代人をまきこみながら、なお深い。
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