お寺のオバサンのひとりごと

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死んで逝くこと

2007年01月29日 | 仏教
 先日、総代さんのS氏がしみじみ言われていたこと。
 「(仏法を)聴聞してきて、自分が死ぬことが恐くなくなった・・・」と。

 それは、仏教にふれてこられたことで、
「自分は死んで無になる」でもない。
「死んだらどうなるのか?」と畏れるでもない。
「死」を忌み嫌うものでもない。
「死」を単なる不幸としない。
 
 生死を超越できる仏さまの心を受けとられたということです。
 
 世間では「死ぬ」なんてことを口に出すだけで、「縁起でもない」と不快に思われますが、私の身近な人々の中では、「死」は禁句ではありません。
 いつ死んでも後悔しない、明るい「死」をお互い話すことができます。

 仏さまの願いと共に生きて、死ぬ。
 
 何時どんな死に方をしようとも、死んで骨だけ残るでもなく、死んで彷徨う霊魂になるでもなく。
 
 こんなお粗末な私が、人間としての「死」と同時に、浄土(仏の世界)に生まれる。
 自分が完全な悟りを得るだけじゃなく、自由に人々を救う(悟りに導く)はたらきに成る。
 後の者を導く「仏」となる。

 いやあ、すばらしい、尊い、明るい「死」ではありませんか

 あ、もちろん、自分の山あり谷ありの人生を精一杯、強く生き抜いた後の「浄土」ですよ。
 「楽になりたい」という現実逃避で自殺しての「あの世」ではないことを申し添えます。

 
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2 コメント

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 (くれまちす)
2007-01-29 23:46:37
私の母は、事故で亡くなりました。母は、生前、私に「私が死んでも、悲しまなくてよい。仏様のそばにいくのだから。」と、よく、言っていました。火葬場で母が燃えている煙を眺めているとき、この言葉のおかげで、どんなに救われたことでしょう。
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Unknown (法専寺)
2007-01-30 09:24:38
くれまちすさん、元気なうちに生死の解決ができていることは、幸せなことだと思います。
今、宗教に無縁で生きてきた人が、いざ、自分の、或いは最愛の人の死に直面して、初めて動揺、狼狽えられることが多いので・・・
「浄土に往生して、仏となる」・・本当に「救い」ですよね。
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