京都・嵯峨野に春をつげる嵯峨清涼寺の
涅槃会お松明式が明日3月15日に行われます。
地元では嵯峨釈迦堂と呼ばれ親しまれる清涼寺の
お松明は、入滅されたお釈迦さんを荼毘に付した
様子を再現したものといわれ、大文字、鞍馬の火祭り
とともに京都の三大火祭と呼ばれています。
本堂の前に高さ7mの逆円錐形をした大きな松明を
3基立てて、護摩木を投げ込んで点火します。
芝木と藤蔓で組み立て、中に松葉を詰めたお松明の
炎は次第に大きな火柱となって春の夜空を焦がす
壮大な火祭りです。
昔から嵯峨周辺では、このお松明の燃え具合によって、
今年の、京都の農作物の豊凶を占う儀式でもあり、
お松明式には地元の人をはじめ多くの見物客に賑わい
参道や境内には夜店も多く並びます。
清涼寺には、奈良・東大寺の学僧だった然(ちょうねん)が、
宋へ渡り密教を学んでいる際に、持ち帰った「生身の釈迦像」
が安置されています。然(ちょうねん)は
印度の優填王(うでんおう)が造ったという
釈迦の生前の姿を再現した像と出会い感動。
早速、日本に持ち帰るために同じ釈迦像を造らせた像で
国宝・釈迦如来像として今なお篤い信仰が脈々と続いています。
然は帰国後の永延元年(987)、愛宕山麓に中国五台山を再現して
清涼寺を建立することを進めますが、志半ばで没してしまいます。
その思いは弟子の盛算が引継ぎ、天慶8年(945)、既に
愛宕山麓に存在した棲霞寺の釈迦堂に、然の釈迦像を安置して
清涼寺を建立しました。
この国宝・釈迦如来像が、生身の釈迦を再現したものであること、
また昭和28年の修理の際に、仏像の胎内から衣を縫い合わせた
実物にかなり近い五臓六腑が出てきたことから
「生身の釈迦」といわれているのです。
清涼寺には、釈迦堂(本堂)の他に阿弥陀堂、
聖徳太子殿、多宝塔や4月に行われる念仏狂言の
狂言台も建ち並んでいます。
また、古くは源氏物語の主人公・源融(みなもとのとおる)が
別荘として住まいをしていた場所ともいわれることから
源融とその子昇の墓も建っているのです。
*写真は清涼寺の仁王門です。両側には十六羅漢像と金剛力士像が
睨みを利かし、幼い頃のはっちんは恐ろしくて、この門を
くぐれなかった思い出があります。
嵯峨清涼寺 京都市右京区嵯峨釈迦堂町藤ノ木町46
電 話:075-861-0343
バス停:嵯峨釈迦堂前
涅槃会お松明式は午後8時30分頃に点火します。
見学無料です。
涅槃会お松明式が明日3月15日に行われます。
地元では嵯峨釈迦堂と呼ばれ親しまれる清涼寺の
お松明は、入滅されたお釈迦さんを荼毘に付した
様子を再現したものといわれ、大文字、鞍馬の火祭り
とともに京都の三大火祭と呼ばれています。
本堂の前に高さ7mの逆円錐形をした大きな松明を
3基立てて、護摩木を投げ込んで点火します。
芝木と藤蔓で組み立て、中に松葉を詰めたお松明の
炎は次第に大きな火柱となって春の夜空を焦がす
壮大な火祭りです。
昔から嵯峨周辺では、このお松明の燃え具合によって、
今年の、京都の農作物の豊凶を占う儀式でもあり、
お松明式には地元の人をはじめ多くの見物客に賑わい
参道や境内には夜店も多く並びます。
清涼寺には、奈良・東大寺の学僧だった然(ちょうねん)が、
宋へ渡り密教を学んでいる際に、持ち帰った「生身の釈迦像」
が安置されています。然(ちょうねん)は
印度の優填王(うでんおう)が造ったという
釈迦の生前の姿を再現した像と出会い感動。
早速、日本に持ち帰るために同じ釈迦像を造らせた像で
国宝・釈迦如来像として今なお篤い信仰が脈々と続いています。
然は帰国後の永延元年(987)、愛宕山麓に中国五台山を再現して
清涼寺を建立することを進めますが、志半ばで没してしまいます。
その思いは弟子の盛算が引継ぎ、天慶8年(945)、既に
愛宕山麓に存在した棲霞寺の釈迦堂に、然の釈迦像を安置して
清涼寺を建立しました。
この国宝・釈迦如来像が、生身の釈迦を再現したものであること、
また昭和28年の修理の際に、仏像の胎内から衣を縫い合わせた
実物にかなり近い五臓六腑が出てきたことから
「生身の釈迦」といわれているのです。
清涼寺には、釈迦堂(本堂)の他に阿弥陀堂、
聖徳太子殿、多宝塔や4月に行われる念仏狂言の
狂言台も建ち並んでいます。
また、古くは源氏物語の主人公・源融(みなもとのとおる)が
別荘として住まいをしていた場所ともいわれることから
源融とその子昇の墓も建っているのです。
*写真は清涼寺の仁王門です。両側には十六羅漢像と金剛力士像が
睨みを利かし、幼い頃のはっちんは恐ろしくて、この門を
くぐれなかった思い出があります。
嵯峨清涼寺 京都市右京区嵯峨釈迦堂町藤ノ木町46
電 話:075-861-0343
バス停:嵯峨釈迦堂前
涅槃会お松明式は午後8時30分頃に点火します。
見学無料です。