保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

シリーズ・保津川を下ろう!請田神社

2005-06-19 22:46:38 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下り・乗船所を出発して約15分、亀岡盆地をのんびり下っていくと
両側を大きな山々が囲む保津峡の入口が見えてきます。

その渓谷入口左岸上に保津川の氏神であり守り神でもある
‘請田神社’が見えてきます。

「請田神社・保津の火祭り」という大きな看板が
JR山陰線からも見る事が出来る、古刹感漂う神社。

実はこの神社ほど保津川の成り立ちに重要な関わりがある
神社は無いといってもいいでしょう。

和銅二年(709)、時の丹波国守・朝臣狛呂(あそんこままろ)が
創建したと伝わる古い社には、祭神として保津峡の開削を請け負われた
‘大山咋命’(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)
のニ柱が祀られています。

京都の歴史に少しでも興味のある方ならもう、お気付きだと思います。
この二柱の神様は保津峡の下流少し下ったところにある
酒の神様で有名な‘松尾大社’と同じ神様をお祀りしているのです。

亀岡に伝わる太古の神話によると、今の亀岡盆地が昔、巨大な湖だった頃、
この国を治めていた出雲の神・大国主命(オオクニヌシ)が
湖水を山背の国(やましろ・今の京都)に流すことで、
ここに肥沃な田地を創造することを計画。
国の東南部にある明神岳の頂に多くの神々を集められ、
保津峡を切り開く相談がもたれたそうです。

その時、開削一切の費用を請け負われたと云われるのが、
この社の祭神・大山咋命だったのです。
開削一切を‘請けた’→‘請田’になったとも、また湖水が流れた後、
田地が浮き出た様を見て‘浮いた’→‘請田’になったとも伝えられています。


これは神話だけの話では無く、亀岡盆地は100万年前、
巨大な湖であった事は現代地質学でも証明されています。

湖水の水が今の保津川から山背に流れたことでこの地に田地が
開けたというのはどうやら事実のようです。

実際の話はこうです。
太古の湖は、上流から流れてきた巨大な流木などが引っかかり
出口を塞いだ形で出来たもので、自然の井堰と化していました。

これを昔の統治者が、火を放って、巨大な堰を焼き払い、
湖水を山背に流した事業が、神話として伝わっと云われています。

この丹波の湖を切り開く方法として用いられた‘松明’は
今の保津の祭り「保津の火祭り」として残り、
毎年10月20日に豪快な炎を舞い上げています。

請田神社が鎮座する保津峡の入口を、保津川の船で
下られる際は是非「このあたりに巨大な流木の堰があった」
ということを想像しながら下って下さい。

太古が身近に感じることが出来き、一段と趣き深い船旅になることでしょう。

長い歴史と神話を今に演出している保津川渓谷の自然は
触れる者を太古に誘い、歴史的好奇心をくすぐります。

まさにロマンの世界が展開している、それが保津川なのです。