保津川下りの船頭さん

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秦氏、保津に進出の足跡を残す・請田神社

2005-06-20 15:58:45 | シリーズ・京都を歩く
有史以来の壮大な渓谷を今に残す保津峡。
その入口の山裾に建てられているのが、
この川の氏神を祀る請田神社です。

保津川下り・乗船場前の保津大橋を渡り、川沿いの細道(府道嵯峨亀岡線)を
京都方面に進んで行けば、小さな石の鳥居が見えてきます。
それを越え200~300m行った所、山の木々に囲まれて小高い山裾に
ひっそりと佇みその社は建っています。

和銅二年(709)に当時の丹波国守・朝臣狛呂(あそんこままろ)に
より創建されたと云われるこの神社は、保津峡を切り開いた
神様‘大山咋命’と市杵島姫命が祀られています。

これらの神様は保津川峡の出口である嵐山・渡月橋の
少し下流・桂川右岸沿いにある‘松尾大社’と同じ神様を祀っているのです。

この松尾大社、京都最古の神社と云われ酒の神様で有名ですが、
5世紀頃から今の嵯峨野・桂川流域に巨大な勢力を誇っていた
渡来系豪族・秦氏の氏神でもあるのです。

秦氏は川に井堰をつくるという当時では最先端の土木技術を
駆使して、葛野一帯を田園地帯に変え、平安京遷都の基礎を
築いたとされる一族。

その秦氏の氏神である大山咋命を祀る神社が、丹波国である
保津峡の入口と保津峡の出口をわずか下がったところに川沿いに
造られているのは大変興味深いことなのです。

昔、保津峡を介してこの両社にはなんらかの繋がりがあった
と想像できるところです。

松尾大社は大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が
創建したとされるが、元は背後の山中にある巨岩を祭祀していたようです。
そしてその巨岩の周辺一帯に秦氏の先祖が造った松尾山古墳群が点在しています。
その全てが横穴式石室をもつ円墳であり、西暦600年前後に築造されたとものと思われます。

対して保津の請田神社の裏山にも、松尾大社・裏山の古墳群と
同じ横穴式石室を持つ円墳群・保津山東古墳群が存在していることから、
秦氏の先祖の墓地だと推測されているのです。

また、請田神社がある場所を「立石」と呼び、社殿背後の岩を
祭祀していた向きもあるようです。
これら多くの共通点をもち、同じ神様を祀る両神社は、
当時の保津川を巡る支配圏の構図を現しているようです。

保津川の材木水運事業は奈良時代にはすでに始まっていたという記録が残っています。

建築用木材の産地である丹波を上流に持つ保津川は、
国造りの木材を輸送する重要な流通水路だったことから、
川の木材輸送の利権が当時から存在していたと予想できると思います。
この利権に絡んで松尾の秦氏が保津に進出して来た証が
請田神社建立に関係しているのではないかと云われているのです。

保津に古くから残る資料によると、水量が少なく川幅の狭い上流は
一本流しといわれる丸太一本で流してくるスタイルで運び、
今の保津の浜である丹波国滝額津に集められ、
急流用の荒作りの筏を組んで下流の大井津・今の松尾大社が
ある梅津に運ばれていた記してあります。

しかし、平安時代には殆ど全ての木材が大井津で引き上げられ
都内まで運ばれているのに較べ、それ以前の奈良時代には長岡京、平城京の
造営用の木材ということから大井津で揚げられる事無く、
素通りされていたようです。

だから下流の秦氏は、上流の保津の浜・滝額津を押える必要があって
川を上ってきたものと思われるのです。

ここを押えることで、保津川の木材輸送を独占することが出来たのです。

秦氏の丹波保津の進出の意義は、保津川の流通支配にあった。

後に平安京遷都計画に活躍する秦氏。彼等は今も変わる事のない
この川の流れに何を感じ、何を見ていたのでしょう?

思いを馳せるだけでも楽しくなるのでした。