保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

デモテープが完成!‘保津川舟歌’CD化実現に向け・・・

2005-06-21 17:14:31 | 船頭
ハァ~、一度おいでよ~保津川峡へ、愛し彼女と激流下り~
ではじまる‘保津川舟歌’のデモテープがコロンビア
レコードさんのご協力を頂き、この度、完成いたしました。

この舟歌については、一度このブログ(5月12日付け)
こちらを見てね!
で紹介しましたが、みなさん覚えておいでしょうか?

そうです!この歌は、以前、はっちんの船にお乗りなられた
お客さん・内田鐵雄さんが歌詞を書いて下さり、
私達がメロディーを付け、CD化を目指し動いていたものなのです。

内田さんは、サラリーマンを定年後、日本各地を旅して
周られている方で、過去にも岸和田だんじりや
四万十川の歌の歌詞をお作りなられた経験が
御ありになるそうです。

保津川下りには、お寺の檀家衆の集まりで来られて
いましたが、私はっちんが後部で舵を操縦している時
偶然に「保津川も来年は400年目の節目を迎えるので、
記念の歌などがあればいいのですがね・・・」と何気なく
話したことから始まった企画なのです。

後日、送って頂いた歌詩を、歌謡界に顔が広い
先輩船頭・関 賢(さかし)さんが、コロンビア関係者に
持ち込んで、今回のデモ・テープ完成に至ったというわけです。

はっちんも今日聞きましたが、まさにこれぞ演歌の王道!
といえるメロディーで、デモ・テープといっても
踊りの囃しにもなる様に編曲も施してある本格的なものです。

たくさんの人達の熱い思いとご協力を得て、
何とかここまで出来てきました。

後はレコード会社やプロダクション
との本格的な交渉に入り、何とかCD化実現まで
漕ぎ付けたいと思っています。

しかし、たまたま乗り合わせたお客さんとの出会いが
こんな形となって、縁を結んでいくなんて、
保津川下りはなんて素敵なお仕事でしょう!

改めて人との出会いの素晴らしさに感謝、観光業に
携われる喜びをヒシヒシと感じさせてもらった
一日でした。

*内田さんが書かれた歌詞は、私はっちんのポスターと
 なって、乗船所内の売店に飾ってありますので、
 保津川下りにお越しの際はご覧下さい。


秦氏、保津に進出の足跡を残す・請田神社

2005-06-20 15:58:45 | シリーズ・京都を歩く
有史以来の壮大な渓谷を今に残す保津峡。
その入口の山裾に建てられているのが、
この川の氏神を祀る請田神社です。

保津川下り・乗船場前の保津大橋を渡り、川沿いの細道(府道嵯峨亀岡線)を
京都方面に進んで行けば、小さな石の鳥居が見えてきます。
それを越え200~300m行った所、山の木々に囲まれて小高い山裾に
ひっそりと佇みその社は建っています。

和銅二年(709)に当時の丹波国守・朝臣狛呂(あそんこままろ)に
より創建されたと云われるこの神社は、保津峡を切り開いた
神様‘大山咋命’と市杵島姫命が祀られています。

これらの神様は保津川峡の出口である嵐山・渡月橋の
少し下流・桂川右岸沿いにある‘松尾大社’と同じ神様を祀っているのです。

この松尾大社、京都最古の神社と云われ酒の神様で有名ですが、
5世紀頃から今の嵯峨野・桂川流域に巨大な勢力を誇っていた
渡来系豪族・秦氏の氏神でもあるのです。

秦氏は川に井堰をつくるという当時では最先端の土木技術を
駆使して、葛野一帯を田園地帯に変え、平安京遷都の基礎を
築いたとされる一族。

その秦氏の氏神である大山咋命を祀る神社が、丹波国である
保津峡の入口と保津峡の出口をわずか下がったところに川沿いに
造られているのは大変興味深いことなのです。

昔、保津峡を介してこの両社にはなんらかの繋がりがあった
と想像できるところです。

松尾大社は大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が
創建したとされるが、元は背後の山中にある巨岩を祭祀していたようです。
そしてその巨岩の周辺一帯に秦氏の先祖が造った松尾山古墳群が点在しています。
その全てが横穴式石室をもつ円墳であり、西暦600年前後に築造されたとものと思われます。

対して保津の請田神社の裏山にも、松尾大社・裏山の古墳群と
同じ横穴式石室を持つ円墳群・保津山東古墳群が存在していることから、
秦氏の先祖の墓地だと推測されているのです。

また、請田神社がある場所を「立石」と呼び、社殿背後の岩を
祭祀していた向きもあるようです。
これら多くの共通点をもち、同じ神様を祀る両神社は、
当時の保津川を巡る支配圏の構図を現しているようです。

保津川の材木水運事業は奈良時代にはすでに始まっていたという記録が残っています。

建築用木材の産地である丹波を上流に持つ保津川は、
国造りの木材を輸送する重要な流通水路だったことから、
川の木材輸送の利権が当時から存在していたと予想できると思います。
この利権に絡んで松尾の秦氏が保津に進出して来た証が
請田神社建立に関係しているのではないかと云われているのです。

保津に古くから残る資料によると、水量が少なく川幅の狭い上流は
一本流しといわれる丸太一本で流してくるスタイルで運び、
今の保津の浜である丹波国滝額津に集められ、
急流用の荒作りの筏を組んで下流の大井津・今の松尾大社が
ある梅津に運ばれていた記してあります。

しかし、平安時代には殆ど全ての木材が大井津で引き上げられ
都内まで運ばれているのに較べ、それ以前の奈良時代には長岡京、平城京の
造営用の木材ということから大井津で揚げられる事無く、
素通りされていたようです。

だから下流の秦氏は、上流の保津の浜・滝額津を押える必要があって
川を上ってきたものと思われるのです。

ここを押えることで、保津川の木材輸送を独占することが出来たのです。

秦氏の丹波保津の進出の意義は、保津川の流通支配にあった。

後に平安京遷都計画に活躍する秦氏。彼等は今も変わる事のない
この川の流れに何を感じ、何を見ていたのでしょう?

思いを馳せるだけでも楽しくなるのでした。



シリーズ・保津川を下ろう!請田神社

2005-06-19 22:46:38 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下り・乗船所を出発して約15分、亀岡盆地をのんびり下っていくと
両側を大きな山々が囲む保津峡の入口が見えてきます。

その渓谷入口左岸上に保津川の氏神であり守り神でもある
‘請田神社’が見えてきます。

「請田神社・保津の火祭り」という大きな看板が
JR山陰線からも見る事が出来る、古刹感漂う神社。

実はこの神社ほど保津川の成り立ちに重要な関わりがある
神社は無いといってもいいでしょう。

和銅二年(709)、時の丹波国守・朝臣狛呂(あそんこままろ)が
創建したと伝わる古い社には、祭神として保津峡の開削を請け負われた
‘大山咋命’(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)
のニ柱が祀られています。

京都の歴史に少しでも興味のある方ならもう、お気付きだと思います。
この二柱の神様は保津峡の下流少し下ったところにある
酒の神様で有名な‘松尾大社’と同じ神様をお祀りしているのです。

亀岡に伝わる太古の神話によると、今の亀岡盆地が昔、巨大な湖だった頃、
この国を治めていた出雲の神・大国主命(オオクニヌシ)が
湖水を山背の国(やましろ・今の京都)に流すことで、
ここに肥沃な田地を創造することを計画。
国の東南部にある明神岳の頂に多くの神々を集められ、
保津峡を切り開く相談がもたれたそうです。

その時、開削一切の費用を請け負われたと云われるのが、
この社の祭神・大山咋命だったのです。
開削一切を‘請けた’→‘請田’になったとも、また湖水が流れた後、
田地が浮き出た様を見て‘浮いた’→‘請田’になったとも伝えられています。


これは神話だけの話では無く、亀岡盆地は100万年前、
巨大な湖であった事は現代地質学でも証明されています。

湖水の水が今の保津川から山背に流れたことでこの地に田地が
開けたというのはどうやら事実のようです。

実際の話はこうです。
太古の湖は、上流から流れてきた巨大な流木などが引っかかり
出口を塞いだ形で出来たもので、自然の井堰と化していました。

これを昔の統治者が、火を放って、巨大な堰を焼き払い、
湖水を山背に流した事業が、神話として伝わっと云われています。

この丹波の湖を切り開く方法として用いられた‘松明’は
今の保津の祭り「保津の火祭り」として残り、
毎年10月20日に豪快な炎を舞い上げています。

請田神社が鎮座する保津峡の入口を、保津川の船で
下られる際は是非「このあたりに巨大な流木の堰があった」
ということを想像しながら下って下さい。

太古が身近に感じることが出来き、一段と趣き深い船旅になることでしょう。

長い歴史と神話を今に演出している保津川渓谷の自然は
触れる者を太古に誘い、歴史的好奇心をくすぐります。

まさにロマンの世界が展開している、それが保津川なのです。


保津川下りの船に「日よけ屋根」が付きました。

2005-06-18 22:45:16 | 船頭
梅雨に入った割には雨が少なく、連日、真夏のような
強い日差しが照りつける京都・保津川。

水面をつたう谷風は涼やかなものの、やはり船にお乗り
いただいているお客さんには、日差しが
厳しく感じる今日この頃でしょう。

どうやら今年は雨が少ないカラ梅雨なのでしょうか?

保津川下りの船も夏のスタイルである「日よけ屋根」
早速、取り付けてのUVカット運航を始めました。

本来、このスタイルでの運航は、梅雨明けの時期にあたる
7月頃から運航するのが普通なのですが、
今年はいまのところ、雨や曇りの梅雨空が少なく、
晴天日続きで、日差しも初夏を感じる日が多いこと
から、今日からの設置となりました。

保津川下りの日よけ屋根は渓谷の山々の新緑に
溶け込むように、薄い黄緑のビニールを使用し
涼しさを演出。
雨降り用屋根と同じく、竹と木の柱で骨組を組み立てて
作ります。つまり、固定した屋形船ではなく、
取り外し可能な屋根を付けた船なのです。

厳しい日差しもこれでしっかりシャットアウト!

あとは川面を渡る涼やかな谷風と舞い上がる水しぶきを
たっぷり浴びればこれぞ!‘天然のクーラー’しかも
マイナスイオン付きという贅沢さです。

うっとうしい梅雨気分も吹っ飛んで行く気がする
初夏の保津川下り。

是非、お楽しみ下さい。

なお、天候が曇り空の場合は、日よけ屋根を
付けずに運航することもあります。

転職で天職!その名も「転天会」集いに出席して来ました。

2005-06-17 08:54:12 | 船頭の目・・・雑感・雑記
年功序列や終身雇用制が崩壊しつつある今日、
日本人の職業に関する価値観も多様化の傾向を
みせてきています。

その様な、時代背景の中、新たな環境を求めて
「転職」という選択を選ぶ人も多いのではないでしょうか?

そんな「転職」により、まさに「天職」をつかんだ
人たちの集まり、その名も「転天会」の交流会が、
昨日16日に大阪中央区の「カフェ・カ・バー」
で開催され、私はっちんも出席してきました。

この会は、平成14年から16年にかけて「スポーツ・ニッポン」
に連載させた『転職で天職』というコラムに登場した
メンバーで構成された、いわば転職成功者の異業種交流会。

登場された方々はいずれも、人生の転機を自らの才覚と
努力で切り開いた、ユニーク且つバイタリティーあふれる
方ばかり。お互いが共感をもてる人生を歩まれていることから、
「同じ境遇を経験した者同士、転職して頑張る人達に
一度会って見たい!」という連載登場メンバーから
交流会発足を望む声が上がりました。
その思いを受けて、コラム執筆者のフリーライター池永美佐子さん
が中心となって、1年前に「転天会」という会を結成したものです。

私はっちんも2年前に登場させて頂いた縁で、
この交流会に出席させていただいているのです。

この会のメンバーは、本当にユニークな転職を
経験され現在活躍されている方ばかりで、
「松下電器人事部長→人材育成の経営コンサルタント」
「大手電気メーカー支店長→府立高校校長」
「大手銀行マン→世界100カ国に拠点をもつ
 海外情報調査会社経営者」
「大手損保社員→大阪市のカウンセラー」
「大手旅行会社→工務店経営者」
「大手家電メーカー技術者→政府諮問機関委員も
 努める大学教授(経営情報学部)」
「NHK報道記者→上方落語家」
「大手電気メーカー→和歌山のみかん農家」
「家電販売会社→起業支援会社経営者」
「転職20回以上の経験→WEBプランナー」
など、改めて書き連ねさせて頂いても
本当に凄い経歴の方ばかりで、それで
なお、今の社会の最前線で精力的に活躍
されている人ばかりなのです。

私はっちんはその中では、少し肌合いの
異なった人種に入るかと思いますが、
この方々と接していると、凄いパワーと
エネルギーをビンビンに感じさせてもらい
日常には味わえない刺激を受けます。

この会では「逆境をチャンスに変えて成功した
人の英知とパワーを結集すれば、新たな新事業や
文化を創造することが出来るはず。人のネットワークで
大阪から関西経済と文化を盛り上げて行こう」と
確認し合いました。

また、不動産経営で破産し一時は死を意識した
どん底状態から這い上がり、今、資産運用・管理
会社を経営するアーバンベネフェット会長・
木村勝男さんからは「これだけいろんな
経験と技術を持ったメンバーが集まっていれば
『起業家大学院』の設立も夢でない』と
今後の同会の進展構想も述べられていました。

はっちんも、小さな空手道場を経営しているから、
起業家といえば起業家かもしれません。
昨夜は皆さんから強いパワーを浴びせて頂いたので、
私の道場も世界に拠点を持つ空手組織してみたいな~
という夢が描けた‘大阪の夜’でした。

*今回、会合場所を提供頂いた大阪中央区玉造に
 あるカフェ・カ・バーは、この会のメンバーでもある
 小田切聡さんが日替わりで店長を勤めるバーです。
 小田切さんは若干30歳にして自動車販売会社社員から
 貸し自転車業を開業、それを軌道にのせ、
 現在は海外人向けの大阪観光ガイド会社を立ち上げ
 精力的な活躍をされている方です。

絵本・「あかちゃん∞のうまれるひ」‘いのち’のお話

2005-06-16 02:30:49 | 京都情報
今の理論物理学の世界の推定では、
この壮大な宇宙にただ一つ、地球にのみ‘いのち’が
あるといわれています。
故に‘いのち’の観点に立てば、地球は宇宙の一部では
なく、地球は宇宙の存在目的だといえ‘いのち’も
宇宙の一部ではなく‘いのち’こそが宇宙の創造の
意志ともいえるでしょう。

この宇宙でただ一つの私達の‘いのち’とは、一体
何処から来て、どの様に生まれてきたのでしょうか?
この生命の起源と進化を辿ることは、人間有史以来の
最高のロマンです。

その‘いのち’を見つめ、描き続けてきた、
一人の女性が昨日、‘いのち’をテーマにした
絵本「あかちゃん∞のうまれるひ」を出版されました。

ペンネームは「たんぽぽ」。

亀岡市在住のその方は、生命がどのように
生まれ、どの様に進化して行くのかを
子どもにもわかり易い絵本で表現されて
おられます。

その題名が示す通り‘いのち’の誕生ともいえる
母体での有性生殖から話は始まり、生まれた小さな細胞が
幾多の分裂を起こし自らを進化させながら、ヒトに成長する
プロセスを、可愛いくやさしいタッチの絵で描かれています。

ヒトは最初、小さな小さな‘いのち’の誕生から
始まるが、凄い潜在的な力を秘めている存在なのです。
それが母体という大きな懐に抱かれて、進化することで
細胞が一人のヒトに成長し、母体から光を目指して
生まれ出してくる。

ヒトとは本来、生まれながらにして神秘とも
いえる進化の体験を経ており、誰もが無限の可能性を
秘めた‘存在’なのだという
ことをこの絵本は教えてくています。



私達は日頃、生まれてきた事や生きている事を
至極当たり前の事として、その神秘に深い目を
向けることを怠りがちです。

しかし、いくら近代科学技術が進歩しても
人間はこの‘いのち’を創ることは絶対に
不可能です。
近年流行りの遺伝子操作にしても、元から
ある‘細胞’の操作に過ぎず、決して
細胞を無の状態から創り出した訳では
ないのです。

ヒトにまで成長するこの遺伝子細胞は、
原始地球に‘いのち’が誕生する為、
全宇宙のあらゆる条件の一切が余す所なく
整い、必然的に誕生してきたといわれています。

まさに‘いのち’とは生まれるべくして生まれたのです。

そしてそれは単に原始地球の話ではなく
‘いま、ここ’に
私達の姿として実在しているのです。

9億年前の有性生殖以来、単細胞生物から多細胞生物へ
進化し、原始魚類から虫、鳥、畜類、サルからヒトへと
生物進化の絢爛たる‘いのち’の舞台。
その一つ一つのいのちに、創造の意志、宇宙の意志が
自己実現している姿が、ヒトを頂点にするこの地球上に
生きる‘いのち’の本真実だと思われます。

この絵本を見ながら、そんな壮大な‘いのち’の
ロマンにまで気を馳せてしまうはっちんです。


今回紹介した「あかちゃん∞のうまれるひ」という
絵本は新風舎から出版され、6月15日より
全国書店にて発売しております。

定価は1,050円(税込み)

書店にない場合は店頭にてご注文下されば
「お取りよせ」も出来ます。

*「あかちゃん∞のうまれるひ」の出版を記念して
  作者たんぽぽさんが描いた原画展を開催します。
  場所は亀岡市ガレリア・カメオカ子ども図書館横
  日時は7月22日(金)~26日(火)
     10時~18時まで。
  当日は絵本の紙芝居も行われます。
  ①11:00  ②2:00
  入場無料です。

保津川下りで、岩つつじの植付け作業が行われました。

2005-06-15 23:05:55 | 船頭
今の季節、保津川を下られるお客さんの目を
楽しませているのが、朱色をした可愛い花・岩つつじです。

今日、保津川ではこの岩つつじを守り、さらに増やそうとの思いから
「岩つつじの植付け」が行われました。

この企画は、亀岡山野草を守る会、亀岡市観光協会、
保津川遊船企業組合の3者が協力して行われるもので、
今年で34回目を迎える、初夏の保津川の恒例行事です。

植付け作業は、保津川下りの船に参加者全員が乗り込み
下りながら行います。
途中、渓谷の岩壁数箇所に船を横付けさせ、
参加者が手作業で、約1,500本の岩つつじの苗を植えていくのです。

植付け方法は、亀岡山野草を守る会が育てたつつじの苗を
土と水コケで包み、生育に適した場所を慎重に選びながら
一つ一つ丁寧に岩の割れ目に植え付けていくのです。
 
保津川渓谷ではこれまでに、延べ約5万本の岩つつじを
この様な複植方法で植え付けてきましたが、
洪水が多い保津川では、毎年の増水で折角植え付けた
苗が流されるなどして、実際には全体の約2割程度しか
根付かない厳しさです。

でも「あの可憐で可愛い朱色の花で、この川縁を
埋め尽くしたい!」という熱い思いで、参加者方は
毎年、挫けることなく頑張って取り組んで頂いてます。

昔、洪水で種が流されたり、鳥が運んで来て根付いた
という大変珍しい保津川の岩つつじを今度は人の手で守り、
後世に残していこうという参加者方の熱い思いには
本当に頭が下がる思いです。

毎年、保津川を岩壁を可憐な朱色で彩る岩つつじは
この様な花を愛し環境を大事にする、人々の熱情に
支えられていることを私達船頭も決して忘れては
ならないと思っているところです。

不気味な霊気が漂う、老ノ坂の首塚大明神

2005-06-14 17:50:53 | スピリチュアル
国道9号線の京都洛西と亀岡の境に老ノ坂峠があります。
その峠の頂上近く、木の根道沿いに
酒呑童子の「首塚大明神」があります。

京都市方面から来ると、老ノ坂トンネルの手前に左に
入る小さな山道があり、その一本道を進むと
おのずと「首塚大明神」に行き当たります。

「首塚大明神」は、平安時代、丹波大江山を棲み家と
していた酒呑童子という鬼の首を、埋めたと伝えられる
場所に建てられています。

伝説によるとこの酒呑童子、夜な夜な都に現れては
金銀財宝を強奪、婦女子をかどわかすなどの
悪行の数々を行い、当時の都人を恐怖に陥れていました。

そこで武勇に長けた源頼光率いる当時の四天王に
酒呑童子討伐の命が当時の天皇から発せられたのです。

源頼光以下四天王は大江山千丈ヶ嶽に攻め上り、
苦心の末、酒呑童子とその一派を征伐したのです。

成敗した証拠となる酒呑童子の首を、都の持ち帰る
道中、この老ノ坂まで来るとその首が急に重たくなり
持ち上がらなくなったといいます。
四天王の一人力自慢で知られた坂田金時をもってしても
その首は動かなかったといいます。

やむを得ずその地に首を埋めた、その場所に
今の「首塚大明神」が祀られているのです。

首塚大明神の社は深い山の中腹にあり、小さな鳥居が
迎えてくれます。その鳥居をくぐると、やま道の様な
登りの参道が付けてあって、周囲の木々の影が覆い被さり
一気に道は薄暗くなってきます。
地面にも木の根が露出し、湿気をかき分けるような
なにやら不気味な気配が漂ってくるまさに木の根道です。

祠も小さく、なんとも寂しいたたずまいの‘社’です。

はっちんは、「首塚大明神」に行く時、亀岡側から入って行きますが、
道中も荒れた竹やぶや大きな木々がうっそうと茂り、薄暗く
社を目指して、奥に進めば進むほど、不気味な霊気が強くなる感じがして
背筋がさむくなる所でもあります。

説話では酒呑童子は、大江山を根城とする
盗賊や山賊の集団だったのではないか?と
云われており、華やかで雅な王朝文化の栄華のみが
伝わる平安時代で、その時代の影で漏れた人々の
暗部の真実、象徴だったのかもしれませんね。

今の神社は、源頼光に討たれる時、酒呑童子が
「死して後は首の患いの人達の為になりたい」と
これまでの罪を懺悔したことから、
首の病に霊験があると云われ、参拝されてるようです。

この「首塚大明神」から10歩程歩くと
「従是東山城」という道標が建てられており、
そこが京都と丹波(亀岡)の境をなしていたことを
今に教えてくれています。

シリーズ・保津川を下ろう!山本浜

2005-06-13 17:37:45 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下りの乗船場から出発して15分ほどすると、
いよいよ前方に保津川渓谷の入口が見えてきます。

この保津峡の入口右岸側、川岸が平坦に整備された
ところが‘山本浜’と呼ばれる場所です。

‘浜’という呼び名が付いていることでも分かる様に
ここには昔、保津川下りの前身である遊船の船着場が
造ってあった所なのです。

この‘山本’という名前は、保津峡入口・右岸すぐ横の山裾に
ある小さな集落の地名で、太古の昔、保津峡を切り開いたと
伝えられる‘大山咋命(おおやまくいのかみ)’を祭神とする
桑田神社がある、古くから保津川に縁深い集落の名前を
取った浜なのです。

この山本浜には大正時代「山本浜嵐峡遊船株式会社」という
観光船の会社が存在し、この浜から、遊船が出航して
いました。

この会社は、今の保津川下りの乗船場がある‘保津浜’から
出航していた遊船の会社とは全く別の組織で、山本の集落の
人々が独自で立ち上げた会社だったのです。

つまり、大正から第二次大戦後の昭和23年まで、
保津川下りの会社は2社、存在していたのです。

この保津峡の入口にある山本浜は、京都から行くと洛西と丹波の境、
老ノ坂峠を西へ越え、そのまま山裾伝いを下ったら一直線上に
位置するアクセスのよさから、京都の観光客に大変人気が
あったと聞いております。
しかも、この‘山本浜’は渓谷の入口にあるので、
船を出航させるとすぐに急流が楽しめることから
外国人観光客にとても人気があり、当時では珍しく
国際色豊かな賑わいをみせていた‘浜’だったのです。

昔の浜は、川岸まで石段がつけてあり、その下から
船が出られる様に整備されていたそうです。

今では、遊船が出ていた当時の面影は全く残ってなく、
京都府の桂川河川改修計画により、
護岸を平坦に広く整備した段差のある
川岸に改修されています。
休日にはラフティングの出発点に使用されたり、
家族連れや若者グループがバーベキューを楽しむ
憩いの浜として、姿を変えているようです。

周りにはトロッコ列車の亀岡駅やJR山陰線・馬堀駅が
あり、今では浜のすぐ近くにたくさんの住宅地も
できています。

この浜には私はっちんもいくつかの思い出があります。

幼かった頃、父に「船を見に行こうか!」と誘われ
よく、この浜の先端部で、下っていく保津川下りの
船を見に行きました。
この時のイメージが、私の船頭になった動機のひとつ
でもあるのです。

はっちんが遊船に入った当時も、まだ原風景が残っており
その‘山本浜’から、今度は我が妻に連れられて幼い頃の
息子が「おとうたん~」と叫びながら、手を振っていた
いたのもこの‘浜’でした。

そういえばTVの「人生の楽園」の撮影で、
夫婦のツーショットインタビューを撮ったのも
この‘山本浜’だったな~
番組のオープニングのシーンで、二人で語らいながら
歩いたりもしました。

本当にこの‘山本浜’は、人生で忘れることの出来ない、
色々な思い出が詰った‘浜’なのです。。

*写真は対岸から見た‘山本浜’。後方にトロッコ列車の
 駅も見えます。



はっちんのトレードマークは?

2005-06-12 23:17:57 | 船頭
このブログを始めて以来、ありがたいことに
私はっちんに会いに保津川下りまで来て頂く
方が少しですが、お越し頂いているようです。

しかし、保津川の乗船場には120人もの船頭が
同じ服装で待機しており、私はっちんが
「どの人なのか?わからない!」という声を
よく聞くようです。

私如き者に、このようなお言葉、恐縮の至り
ですが、わざわざ遠くからお越し頂いた方も
おられ、私とすぐに見分けられる特徴を
作り出すのも、こちらの礼儀と考えます。

そこで、今回、特別に夏限定、はっちん探しが
すぐできるトレードマークをお教えいたします。

私はっちん夏限定のスタイルとして、写真にあげた
白いパナマ・ハットを被り、その下の額には
「ナイキ」のヘアーバンドを装着しています。

このスタイルは3年前、テレビ朝日の「人生の楽園」
に出演した時にしていたもので、今やはっちん夏スタイル
として定着した感があります。

これから保津川下りにお越しのお客様!

夏スタイルのはっちんを見かけたら
気軽にお声をかけてくださいね~