洛陽の紙価を高めるようなベストセラーは、刊行後間もなく弊履のように捨ててかえりみられなくなる。それと比べると古典は違うのである。
しかも、ネット時代に突入したことで、著作権の切れた書物は無料でキンドルで読めことができるようになった。本を購入しなくてもそこで多くのものを学ぶことができるのである。
今僕が読んでいるのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』である。紙の本も持っているが、携帯でも読むことができるのだから便利である。
改版序の和辻の「この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば。それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである」との文章も、薄汚れた文庫本や全集の重たい一冊を手にするのとは、まったく違った感じがする。
まだ僕は始めたばかりで、ライブラリに登録されているのは、泉鏡花全集、大川周明の『復興亜細亜の諸問題』、西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』などわずかしかない。
僕のことだから、今後は有料の本も含めて、日に日に増えていくことになるはずだ。垂涎の的である古典をどこでも自由に読めるというのは、本好きにとってはまさしく天国である。
折口信夫が『遠野物語』を上野の薄暗い公衆電話の下にしゃがみこんで、その明かりで読んだというのは、あまりにも有名な逸話である。携帯一つあれば、そこで何冊も読めるのである。
その一方で、紙の本でなければ味気ないという意見もあるだろうが、世の中は着実に変っており、そこには必ずプラスの面とマイナスの面があるのだと思う。