創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

物語のかけら⑬

2006-07-18 21:19:15 | 創作日記
奥の部屋に二人は移った。事務机が一つ。机の上には何もなかった。コンピューターも、電話もなかった。小さな応接セット。簡易流し台。
「コーヒーを入れる。大丈夫」
「ええ、大丈夫です」
「廊下の奥はバスルーム。自由に使ってOK。ソファーを倒すと、ベットになる」
彼女は実際にソファーを倒して見せた。
「昼寝も出来る。泊まっていっていい。要するに何をしてもOK」

コーヒーはとても美味しかった。多分、今まで飲んだどんなコーヒーよりも。
「美味しい」
優は率直に言った。
「そう、うれしい。コーヒー豆は十分あると思うわ。でも、サイホンには少しコツがいるの。明日までに書いておきます」
優は頷いた。優は彼女の好意を断ることが出来なかった。
後は事務的な話になった。
報酬は多くも少なくもなかった。朝の掃除。優は掃除が得意だった。彼のアパートは清潔で、埃一つなかった。少し病的なほど。
「これは二階の部屋の鍵」
旧式な棒状の鍵。簡単な構造で、新米の泥棒でも簡単に開けてしまうだろう。
「二階は毎日でなくてもいいわ。そうね、三日に1回ぐらい。これは入口の鍵。一つしかないから、今日は一緒に出ましょ。私はスペアーキーは持たないの」
そして、楽しそうに笑った。
「何回も入れないことがあったわ。そんな時はどうすると思う?」
「窓から入る」
「正解」
「そのために窓の鍵はかけていない。私は泥棒には寛容なの」
二人は顔を見合わせて笑った。
「もし、3ヶ月経っても戻らなかったら、ここに電話をして。全て話してあるから」
「法律事務所ですか」
「そう、私は天涯孤独で、ふっと、この世に現れた感じ」
優は深く頷いた。
「よく分かる」
「そう、言い忘れるところだった。二階には肖像画があります」
彼女はそう言って、少し間をおいた。
「イローナという女性です。歌手だったらしい。詳しいことは分かっていません。この博物館でもっとも価値のあるものかも知れないわね。17世紀の作品と言われている」
彼女は、また、少し間をおいた。
「僕は何をしたらいいのですか」
「何も、只、二階の部屋で長居をしたら、帰れなくなるかも知れない」
「帰れなくなる…」
「時々彼女の歌が聞こえる。これは冗談」
優の目を見た。
「じゃないかも知れない」

二人は外へ出た。老女は鍵をかけ、優に鍵を渡した。雨は止んでいた。水を含んだ風景に青い光が反射していた。
「私はこちらなの」
通りに出ると老女は言った。
「それじゃ、お気をつけて」
優は言った。
彼女を少しの間見送りながら、きびすを返した。それが彼女を見た最後だった。二度と会うことはなかった。

次の日の朝、時の博物館の入り口に小さなメモが挟まっていた。
「美味しいサイホンコーヒーの入れ方」