つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

名古屋城天守閣

2024年09月05日 | 名所
    名古屋城天守閣

    名古屋城は徳川家康が西国大名20家(加藤清正・福島正則ら)に土木工事を命じ、天守閣や櫓の建築工事は小堀遠州・中井正清ら命じ、1612年(慶長17年)に完成しました。

    天守閣の屋根に飾られている「金の鯱」は、空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚と言われております。

    名古屋城の中に高くそびえる天守閣は荘厳な趣を感じさせてくれます。その後、向かいにあるウエスティン名古屋キャッスルホテルの最上階のレストランから天守閣を景観を楽しみました。

 日本のお城は天守閣があるとその重みを感じます。江戸城にも天守閣と本丸御殿の復元を願っております。


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深川不動堂について

2024年09月04日 | 池さんぽ
 深川不動堂本堂

 門前仲町を散歩しました。
 深川不動堂は、 新しい本堂が開創310年記念事業として建立されて、参拝見学が無料開放されております。おねがい不動尊、大日如来蓮池図天井画、祈りの回廊、阿字橋などが見学できます。

 成田山 東京別院 深川不動堂は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂。

 江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まりました。
 これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりであります。
 江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となっていました。

 永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となりましたが、しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められたものであります。明治14年(1881年)に本堂が完成。

 その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れました。永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年(1896年)に再興され、名跡を継いものです。

 なお、地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味であります。


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人形町の由来

2024年09月03日 | 名所
 武蔵坊弁慶像

 人形町を散策していると緑道があり、その一角に武蔵坊弁慶の像が建っている。その横の掲示板に人形町の由来が書いてあります。

 江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋の中村座と市村座があった。また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)も行われていた。
 
 一般には人形遣いが多く住んでいたから人形町と名付けられたとされている。江戸時代においては、人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通りに面していたが、1933年(昭和8年)に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に変更されました。

 江戸時代初期には、遊郭で有名な吉原(元吉原)が人形町通り東側の辺りにありました。「大門通り」はその名残である。
 1657年(明暦3年)1月の明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失した事を機会に、幕府の命で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転したものです(新吉原)。


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旧岩崎邸庭園

2024年09月02日 | 名所

 旧岩崎邸洋館南面

 台東区池之端にある「旧岩崎邸庭園」に行ってきました。洋館、和館大広間、撞球(ビリヤード)室の3棟ならびに宅地が国の重要文化財に指定されています。

 洋館は、明治29年に竣工し、迎賓館として用いられていました。木造2階建、屋根はスレート葺き、外壁は下見板張りです。北面を正面とし、正面玄関部分は平面四角形の塔屋となっています。反対側の南面は1階、2階とも列柱のある大きなベランダを設けています。

 和館は、書院造を基調とした和風建築であります。明治期の大邸宅の岩崎邸では、迎賓館としての洋館に対し、生活の場としては和館が使用されていました。洋館と和館は船底天井の渡り廊下で結ばれ、当時の和洋折衷の生活スタイルを伝えています。

 撞球室は、木造ゴシック様式のビリヤード室となっています。校倉造の外観はスイスの山小屋風。洋館の地下室とは地下通路で結ばれています。

 庭園は、広大な芝庭とし、庭石・灯篭・築山などを配した和洋併置式の庭園となっています。今も残る雪見灯篭や亭跡の石敷が往時の姿を偲ばせています。

 邸宅の館内はすべて豪華な造りとなっていて感動しました。しかし撮影禁止となっており、庭園からの写真撮影のみとなりました。

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寄席発祥の地 下谷神社

2024年09月01日 | 演芸
 上野駅から 浅草通りを東におよそ500m。通りから20mほど 南に引っ込んだところに下谷神社があり、 その門前に「寄席発祥之碑」が建っています。
 
 1798年(寛永10年)、初代 三笑亭可楽が 下谷神社の境内に寄席の看板をあげたのが、 江戸で最初の 噺家による落語の席だったと言われています。

 寄席発祥の地碑は この200周年を記念して 1998年(平成10年)に建てられました。「寄席発祥之地」の文字は 柳家小さん師匠が書いたものである。

 発祥の碑の隣に、「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」という 正岡子規の句碑も建てられています。
 演芸人たちの千社札が沢山貼ってありました。
 
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浜離宮の三百年の松

2024年08月31日 | 名所
 浜離宮の三百年の松

 浜離宮の大手門を入ったところに「三百年の黒松」(男松)があります。

 今から300年前に徳川第六代将軍の家宣が、庭園を大改修したときに、その偉業をたたえて植えられた黒松。
 太い枝が低く張り出し、いまなお堂々たる姿を誇っている。

 すぐ隣には小ぶりの赤松(女松)がたっています。


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朝の散歩365日

2024年08月30日 | 池さんぽ

 朝の散歩365日

 今頃の日の出は5時ごろです。家を出て朝の散歩に出かけるとジョッギングをしている人や歩いて散歩をしている人、犬の散歩をしている人たちを多く見かけます。自分の散歩コースは北コースと南コースを交互に歩いております。
 朝の散歩も継続して365日となりました。雨の日は小雨なら傘をさして歩きます。大雨の時は近くのサンシャインシティや東池袋駅から豊島区役所に通じる地下通路を歩いています。歩数はスマホが記録してくれます。
 散歩の目的は、①体力維持、②老化防止、③体重減量としております。

 午前6時を過ぎると大塚駅前のトランパルひろばには、多くの人が集まってきます。犬を連れている人たちは犬の話題で盛り上がり和気あいあい話が進んでいます。夜の間、飲み物をした人が捨てたごみなどを清掃している人もおります。馴染みの人が多いようであちこちで朝の挨拶が交わされています。ひろばの横を都電さくらトラムが通っていきます。なかなか風情のある景色です。

 6時半からはラジオ体操が始まります。60名ほどの人が毎日参加しています。年配者が多く、女性が7割ほど占めます。10分間のラジオ体操を伸び伸びと試みて身体を柔らかくしております。
 このトランパルひろばには、多くの人のコミュニケーションの場所となっています。朝の散歩はとても気持ちが良いものです。

 
スマホの歩数計(365日継続)          大塚駅前トランパル広場

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亀の子たわし本店

2024年08月29日 | 店舗
 亀の子束子本店

 「亀の子たわし本店」は、旧中山道の北区滝野川6-14-8にあります。
 亀の子束子は明治40年、東京本郷真砂町で誕生しました。関東大震災の影響を免れた滝野川工場へと本社を移転して以来、現在の北区・滝野川にて操業しています。

 戦火での消失をまぬがれた社屋は西洋建築の姿を守り、昔ながらの愛好家の方はもちろん、近代建築の研究者やファンの方にも愛される観光スポットとなっています。

 1階には直営ショップも開設しており、歴史を感じながら定番商品からグッズ・アクセサリーまで、さまざまなたわしを手にとって見ることができます。
100年の歴史を誇る日本伝統の「たわし」を知ることができます。
たわし作りの体験もできます。


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坂の多い町

2024年08月28日 | 池さんぽ

 神楽坂付近を散歩していると多くの坂があり、楽しみました。
 神楽坂(かぐらざか)は、大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である。坂の周辺の地名でもあり、神楽坂一丁目から六丁目がある。大久保通りとの交差点が「坂上」、外堀通りとの交差点が「坂下」となる。

 庚嶺坂(ゆれいざか)は、徳川二代将軍、秀忠の時代、ここに広い梅林があり、中国の梅の名所「大庚嶺」にちなんで名づけられた急坂。幽霊坂とも呼ばれた。

 袖摺坂(そですりさか)は、横寺町と箪笥町の境界から大久保通りへと 続く、とても短い狭い坂道です。「俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の 狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わした」と説明文があります。階段状になっています。

 歌坂(うたさか)は、雅楽坂とも言う。一説には「善知鳥 [うとう] (海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であるからともいう。「うとう」が「うた」になり歌坂に転じたもの。法政大学市ヶ谷田町校舎前の坂。

 その他に、逢坂もありました。

 

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荒井眞治氏「写真展」

2024年08月27日 | 芸術
 歌手の森山はるみさんの案内により写真家の荒井眞治先生の「写真展」を鑑賞してきました。

 会場は東京芸術劇場アトリエイーストで「東上線沿線の風景」です。
 このテーマによるワークショップ写真展としてお弟子さんたちの作品も一緒に展示されていました。

 東上線沿線の地区を選んで撮影をした写真をプリントアウトした後にみんなで見せ合うというもの。沿線地区として、池袋、大山、下赤塚、和光市、志木、柳瀬川、川越、越生、東松山、武蔵嵐山、寄居の11ヵ所を選んでおりました。どの作品も秀作です。

 荒井眞治先生は、千葉大学を卒業後、毎日新聞社入社し主に雑誌の写真撮影を担当していました。在職中には日本雑誌写真記者会賞として「世紀末漂流」「ゴミ問題」「元気な亀さん」(毎日グラフ)「日本工業倶楽部」(サンデー毎日)などを受賞しています。

 毎日新聞社に在職中から、写真の個展を積極的に開催していました。特に杉並区を中心に開催していました。私が初めて荒井眞治先生とお会いしたのも杉並区で開催された森山はるみさんのライブ会場でありました。その時に写真展をその会場で開催中でした。

 今回、写真展を鑑賞してその素晴らしさを堪能してきました。

 
写真展案内                東松山「箭弓稲荷神社」

 
池袋「自由学園」                  池袋「水族館」
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全国社会人躰道優勝大会

2024年08月26日 | 躰道
 第33回全国社会人躰道優勝大会が所沢市民武道館で開催されました。
 全国各地から144名の選手が参加しておりました。
 開会式では、山田重幸大会会長、祝嶺正献躰道宗家の挨拶後、前回最高師範杯を受賞した佐々木尚希選手(宮城県)が選手宣誓をして競技は始まりました。

 法形競技、実戦競技、展開競技の男女・壮年・個人・団体など13種目の競技に白熱な熱戦が繰り広げられていました。

 今大会の最高師範杯は、女子個人実戦競技と女子個人法形競技で優勝をした稲見安希子選手(千葉県)が選ばれて、祝嶺正献躰道宗家から授与されました。

 稲見安希子選手は千葉大学に入学して躰道部に入部し、中野哲爾監督から指導を受けてから上達していき、卒業後も仕事をしながらも精進してきました。

 その他優秀な選手として、木村雅和選手(愛知県)、佐々木尚希選手(宮城県)、金子智一選手(東京多摩)、土井光司選手(山梨県)、木間一紀選手(新潟)などがおりました。

 自分は全国社会人躰道優勝大会には第1回から第6回大会まで個人法形の部で出場をしておりました。
 
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大塚阿波おどり

2024年08月25日 | 豊島区
 大塚阿波おどりは50回目を迎えました。
 大塚大通りの都電16番(大塚~錦糸町)の線路が無くなってから大塚阿波おどりは始まりました。昭和45年から54年が経過しましたが途中コロナなどで中止の年がありましたが、今年は50回目という継続したイベントとなっております。

 十文字学園の吹奏楽部によるファンファーレからテープカットが行われ大塚阿波おどりはスタートしました。
 毎年出場して観客を魅了しているのは新粋連、盛和連、大塚商興連、サンモール大塚駅前連、空蝉連、巣鴨信用金庫連などです。
 桃李連は豊島岡女子高校のクラブ活動「阿波踊り部」の生徒たち、巣鴨小学校の児童たちは巣鴨っ子連で出場。

 大塚大通りを通行止めにして催される「阿波おどり流し踊り」は観覧している人たちを魅了しておりました。駅前のトランパル広場では「組踊り」の演舞会場となっています。

 なお、50回を記念して賛助出演をしたのが、沖縄エイサー、豊島フラダンス、東京よさこいチームのメンバーたち総勢150名ほどが華を添えておりました。

 今年も大塚阿波おどりは成功裏に終了しました。

 
新粋連                     桃李連

 
東京よさこいチーム               フラダンスチーム
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カテドラル関口聖堂

2024年08月24日 | 名所

 カテドラル関口聖堂

 文京区関口3丁目に「カテドラル関口聖堂」があります。

 1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。第2次世界大戦時の東京大空襲で聖堂は消失しました。
 
 戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、世界的な建築設計者である丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が建設されました。丹下健三氏の葬儀もこの大聖堂で行われました。
 

 この大聖堂は上空から見るとキリスト教の象徴である十字架を象っています。大聖堂の中に入ると、重厚感のあるパイプオルガン、天井が高く、天窓から降り注ぐ光は神聖な空間をより神秘的に彩り厳粛厳かな感じを受けます。
 聖母マリア像や鐘の鳴る塔もあります。

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勝鬨橋の中央部

2024年08月23日 | 名所
 勝鬨橋の中央部

 かつて東京は「水の都」と呼ばれましたが、東京にはいったいいくつ橋があるか知ってますか? 東京都建設局が管理する道路橋は、なんと約1200もあるそうです。
 そのなかでもっとも人気なのを独断で決めれば、どう考えても隅田川にかかる「勝鬨橋(かちどきばし)」です。

 勝閧橋は、東京都中央区の築地と月島を結ぶ全長246mの可動橋で、船を航行させるため、橋の中央が「ハの字」に開きました。国内に現存する最古の「跳ね上げ橋」ですが、残念ながら、交通量が増大するにつれ開閉は減り、1970年11月29日午前7時すぎに橋が閉じて以降、2度と開いていないのです。

 勝鬨橋は、昭和15年(1940)に開催予定だった万国博覧会にあわせ造られました。博覧会は「紀元2600年」を記念し、東京オリンピックと並んで世界に日本の実力をアピールするために計画されました。
 現在の中央区晴海から江東区豊洲あたりを会場にする予定で、そのメインゲートとして作られたのが勝鬨橋でした。
 総工費418万円(当時)をかけ、1940年6月14日に開通。当時、その美しさと壮大さから「東洋一の跳開橋」と呼ばれました。

 勝鬨橋データ
 ●長さ246m、幅22m、可動部25.8m×2、固定部86m×2
 ●着工1933年6月10日、完成1940年6月14日(工事に7年間)
 ●1日5回開閉。昭和22年から1日3回、昭和36年から1日1回。最盛期(1950年)の開閉回数は年829回。
 ●安全装置として3系統のブレーキ
 ●設計:安宅(やすみ)勝(東京市技師)
 ●施工:東京市、錢高組、石川島播磨重工業、川崎重工業、横河ブリッジなど。外国の支援を断り、完全に国内企業だけで建造しました。


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中学時代の良き仲間たち(三和会)

2024年08月22日 | 友人
 三和会のメンバー3人

 武蔵野市立第三中学校の親しい仲間と懇談のひとときを過ごしました。
 会場は新宿副都心NSビル29階にある「とんかつ伊勢」です。とんかつ伊勢店からの展望は素晴らしい景観です。新宿副都心の全景が見え、東京都庁は眼前に大きく建っております。都議会議事堂は眼下に見えます。たそがれどきから夕景へと変化していく時間のながれが雰囲気を盛り上げます。
 
 高橋(川辺)和夫さん、秋元和治さん、そして池内和彦の3名です。3人とも名前に「和」が入っているので「三和会」と名付けております。中学校を卒業後はそれぞれの道を進みましたが、定期的に会合をもって情報交換をしております。

 岡 浩之さん(とんかつ伊勢社長)が挨拶にきてくれました。岡浩之さんとは東京国際大学の同窓会仲間であります。今回予約をしましたところ、美味しい料理メニューにこころ細かいおもてなしを受けました。
 石原和幸店長のホスピタリティ精神がとても嬉しかったです。岡浩之社長も話のなかに入ってコミュニケーションを図っておりました。タオルに日の丸を入れて普及させた社長のエピソードを話してくれました。

 話はどんどん盛り上がりインターナショナルの話題となっていきました。
50年間交流を継続して友の絆は固く結ばれております。(2014.9.20)


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