つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

尾崎豊と躰道のエピソード(2)

2015年04月09日 | 躰道
                           尾崎豊

尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「尾崎豊と躰道のエピソード(2)」 尾崎健一

豊が小5の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。 
当時の朝霞は、33年経った今では考えられないほどの田舎で、都内から転校してきた豊はさすがに目立つ存在であったようです。
面白くないのは、クラスの男の子ということになります。
直接的な暴力行為はなかったようですが『シカト(皆で無視する)』されたり、知らぬ間に机の上に白い花を飾られたりしたことを、後年、彼自身何らかの中で書いています。
女子や、男子のおとなしい子供たちも、番長格の男の子には従わざるを得なかったのでしょう。
そこで前記の「ずる休み」です。

当時、転勤で土浦の部隊へ遠距離通勤していた私は、朝は四時起き、北朝霞から一番電車に乗って通勤していました。
帰宅すれば、翌朝早いからと早々と就寝する生活で、妻も仕事に出ていた関係で、9月から新学期が始まって約一ヶ月、豊のこうした変化に気づかずにおりました。
先生が訪問されて、そのことを告げられて始めて知り大いに驚きました。
職場にかかってきた妻の電話を聞いて、私は急きょ休暇ををとってとんで帰り、早速豊に問いただすと、日記のような答えです。
 
『何故、やり返さないのか』と、私は問い返しました。
『だって、お父さんは、喧嘩に躰道を使ってはいけないって、何時も言っているでしょう』という答え。
『正当防衛ならいいから、相手に傷つけないように注意してなら、やってもよい』

翌日、豊は意気揚々と学校から帰ってきたらしい。
何しろ子供どうしである。
番長といえども、翌年は埼玉県躰道大会で優勝する腕前の豊である。
苦もなくねじ伏せられた番長は潔く降参したらしい。
豊の死後、友人と共に焼香にきてくれたこの方は『あの時は豊君に首をしめられて、まいりましたヨ』と笑い乍ら語っていかれた。

番長が代われば、クラスの空気は一転。
翌日からはクラスの人気者。
女の子にはモテモテの日が始まったらしい。
翌年、クラスの皆におされて6年生の学級委員に立候補し、当選したことが日記に残っております。
自らの力によって困難を乗り越えたというこの経験は、その後の彼の人生全般に、強烈な影響を与えたものと私は考えています。(つづく)

(4月9日記)

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