つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

マジックの相談受けます

2015年04月14日 | マジック
                        マジック披露

私はマジックを修練しております。
「マジック披露」、「マジック教室」の要望がありましたらご相談ください。
子ども会、小学校、幼稚園、市民活動、町内会、商店会、会社、お店、老人会、ディサービス、病院等。

(出演依頼について)
(1)希望日時
(2)場所
(3)住所
(4)最寄駅
(5)担当者名
(6)連絡先
(7)団体名
※交通費等謝礼については打合せをさせていただきます。

◆連絡先
⇒ikeuchi@cap.ocn.ne.jp 池内和彦あて

(4月14日記)
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銭形平次の碑

2015年04月13日 | 日記
                      銭形平次の碑(神田明神)

神田明神の境内に「銭形平次の碑」があります。

野村胡堂(1882~1963)の名作『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立した。
胡堂の『捕物控』は昭和6年『文藝春秋オール読物』に第1作「金色の処女」が発表されて以来、27年間で383編にもおよんだ。
神田明神から明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分・がらっ八の小さな碑もある。


(4月13日記)
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整理しております

2015年04月12日 | 日記

facebookに登録をしております。
掲載内容についてのコメントを頂き有難うございます。
とても嬉しく感謝しております。

一方、掲載内容とは異なるコメントや挨拶文等のコピペはあまり嬉しくありません。
長い間コメントのない人は半分以上おります。ご縁が無いものと判断し整理しております。
今後、facebookでの友達を残念ながら解除させていただきます。
また池内和彦との友達不要の方はどうぞ削除してください。

(4月12日記)
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美空ひばりの自宅

2015年04月11日 | 日記
                      美空ひばりの自宅

代官山から青葉台1丁目の坂を少し下ったところに「美空ひばりの自宅」があります。
今はひばり記念館として見学できるようになっています(予約制)

この自宅は、美空ひばりさんが昭和48年に移り住み、その後、建て替えたものでひばりさんは亡くなるまでこの家で過ごしていました。
家具や調度品は亡くなった当時のまま残されております。

「ファンがより近くでひばりさんを偲ぶことができるよう、自宅の一部を記念館として一般に公開することにしました」(事務局)

ひばりファンのご婦人たちが集まっていました。
家の前で記念の写真を撮っています。
ガレージには高級な乗用車が駐車していました。

(4月11日記)
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尾崎豊と躰道のエピソード(3)

2015年04月10日 | 躰道


尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「尾崎豊と躰道のエピソード(3)」 尾崎健一

豊が歌手デビュー後結婚して、男の子供ができたとき、子供にも是非躰道を教えようと思ったようです。
忙しいツアーの間をぬって、新目白通りの円形のガスタンクの隣にある練馬体育館に時々顔を出してどなたかにご指導を受けたこともあるらしい。
『久しぶりに(躰道を)やったので、今日は体の節々が痛くてしょうがないヨ』などとツアーの合間に、事務所を守っていた私と母の傍らにきて、満更でもない顔をして話していった記憶が残っています。

また、どうせ一人の子供に教える位なら道場を持とうという考えに到達した豊は、少しばかり資金もできたせいで、早々とその実現を思い描くようになったようです。
ツアーの合間に、事務所へ戻る度に、私にむかって『よい道場みつけといてくれた?』と、本気に聞く有様です。
こちらは当面の彼のツアー完走のみが素人経営者の私にとっては目前の大問題で、それどころではない切迫した気分でしたが、豊の気持も察して『あちこち当っている最中』と答えておりました。

豊がもう少し存命したならば、必ずどこかに道場をもったことは間違いなかったと思います。
豊の思い描く道場は、大きな二階建で下が「躰道の道場」、上は「学習塾」でこちらの方は兄の康に任せる、とかなり具体性を帯びていました。
当時兄の方はかなり大きな学習塾の理事候補で、塾講師を兼務しておりました。

彼の夢の原型になったモデル校が今も朝霞にあります。
下が剣道道場で上は学習塾となっております。
ちなみに、彼の死後、豊のこうした意志をきかれた躰道創始者・祝嶺正献最高師範から『躰道五段・教士』の免状と『黒帯』を贈って頂きました。
今は大切に私が保管し、やがて豊の遺児裕哉(ひろや)が青年になった時、こうした父・豊の志を告げてこれを渡そうと思っております。

更にデビュー後の豊に躰道が益したのは、躰道の技――身のこなし――の美しさです。
ロックアーチストというのは、すべてが自作自演の世界のようです。
作詞、作曲、歌唱までの自作自演は誰も知るところですが、舞台でのフリまですべて自前です。
『廻し蹴り』は豊の得意技で、時々舞台ではマイクを相手に披露していました。マイクすれすれのケリは中々難しかろうと、私は若干ハラハラし乍ら観ていたものです。
その頃、他のアーチストの中でも次第にそのフリをまねる者が出てきて『あいつ、俺のマネをしている』などとテレビを見ながらつぶやいているのを覚えています。
ただ私が見ると、空手の心得のない人の廻しゲリは、実にサマになっていないものが多かったのですが、最近は皆がうまくなったような気がします。
当時豊が、深夜、創作の合い間に、自分の部屋に立てかけた大鏡にむかって、ギターを抱えたり、持たなかったりし乍ら、懸命にフリの研究をしていた姿を思い出します。

(4月10日記)
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尾崎豊と躰道のエピソード(2)

2015年04月09日 | 躰道
                           尾崎豊

尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「尾崎豊と躰道のエピソード(2)」 尾崎健一

豊が小5の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。 
当時の朝霞は、33年経った今では考えられないほどの田舎で、都内から転校してきた豊はさすがに目立つ存在であったようです。
面白くないのは、クラスの男の子ということになります。
直接的な暴力行為はなかったようですが『シカト(皆で無視する)』されたり、知らぬ間に机の上に白い花を飾られたりしたことを、後年、彼自身何らかの中で書いています。
女子や、男子のおとなしい子供たちも、番長格の男の子には従わざるを得なかったのでしょう。
そこで前記の「ずる休み」です。

当時、転勤で土浦の部隊へ遠距離通勤していた私は、朝は四時起き、北朝霞から一番電車に乗って通勤していました。
帰宅すれば、翌朝早いからと早々と就寝する生活で、妻も仕事に出ていた関係で、9月から新学期が始まって約一ヶ月、豊のこうした変化に気づかずにおりました。
先生が訪問されて、そのことを告げられて始めて知り大いに驚きました。
職場にかかってきた妻の電話を聞いて、私は急きょ休暇ををとってとんで帰り、早速豊に問いただすと、日記のような答えです。
 
『何故、やり返さないのか』と、私は問い返しました。
『だって、お父さんは、喧嘩に躰道を使ってはいけないって、何時も言っているでしょう』という答え。
『正当防衛ならいいから、相手に傷つけないように注意してなら、やってもよい』

翌日、豊は意気揚々と学校から帰ってきたらしい。
何しろ子供どうしである。
番長といえども、翌年は埼玉県躰道大会で優勝する腕前の豊である。
苦もなくねじ伏せられた番長は潔く降参したらしい。
豊の死後、友人と共に焼香にきてくれたこの方は『あの時は豊君に首をしめられて、まいりましたヨ』と笑い乍ら語っていかれた。

番長が代われば、クラスの空気は一転。
翌日からはクラスの人気者。
女の子にはモテモテの日が始まったらしい。
翌年、クラスの皆におされて6年生の学級委員に立候補し、当選したことが日記に残っております。
自らの力によって困難を乗り越えたというこの経験は、その後の彼の人生全般に、強烈な影響を与えたものと私は考えています。(つづく)

(4月9日記)

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尾崎豊と躰道のエピソード(1)

2015年04月08日 | 躰道
                       尾崎豊

尾崎健一氏は祝嶺正献最高師範に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「息子・尾崎豊のエピソード(1)」 尾崎健一

尾崎豊と躰道

これを書くために、古い日記をひっぱり出して、その中から豊が躰道にかかわった記事を探してみました。
豊の方についていえば
昭和44年3月20日(3才)『将来の希望は、自衛隊の隊長になることと、空手の先生になること』と言ったと書いています。
子供のことだからハッキリしたことをいった訳では勿論ありませんが、少なくとも父親や兄の影響で、空手に対して幼少時から関心を示していたことは、みていたと思います。
また、昭和50年9月26日 小3(9才)『躰道の練習に(練馬区役所裏の)タコ公園へいき、河内銑重郎先生から勢命の法形を習った』とあります。

実は、日記には残していませんが、豊が5才位のとき、私は当時の練馬都営住宅の庭先に一坪位の空き地を作り、巻藁を立て、地面には莚を敷いて子供たち二人に躰道の手ほどきを教え始めたのです。
先ず座り方から始め、あとは立川自衛隊で初めて祝嶺正献先生に習ったことを思い出し乍ら、かつ先生の書かれた『新空手道教範』を頼りに指導したことを思い出します。
この一坪ほどの庭先は、かつて練馬大根を作ったであろう豊饒な畠土です。
以前私も家庭菜園をしていた場所なので、敷いた莚に座ってみると莚の下にふかふかと柔かい土の弾力を感じ、気持が良かったことを思い出します。
指導は、先生から教えられた時のように、子供乍ら師弟として対した記憶があります。
親には普段余りみせない生真面目な顔をして座礼する豊をみて、内心嬉しくもあり若干オカシクもあり、頼もしくもありました。

この、父子の師弟的関係は、その後の家庭教育に極めて良好かつ効果的な影響を及ぼしたと思っております。
小学校の頃の学習指導をする際にも、子供は父を仰ぎ見る姿勢をとるようになり、これはその後の基本的父子関係に好影響を及ぼしているように思っております。
正に躰道の五条訓にいう『態端正にして心形の一体を図り、態位正しきを得れば侮られる事なし』で、この言葉は私の信条となって一生の心の支えとなってきたようにさえ感じています。

また、日記にある幼い頃、豊が通っていたタコ公園では、この公園のほど近くに住んでおられた河内先生ご兄弟(銑重郎氏、重典氏)に指導をして頂いたのです。恐らくご兄弟のボランテア的活動であったろうと、今更申し訳なく有難く思っております。

昭和51年9月29日(豊 小5)『今日、僕はずる休みした。皆が余りイジメルからだーー』
昭和52年10月16日(豊 小6)『朝霞(埼玉)躰道大会、少年の部個人法形で優勝。カップを貰う』
※昭和51年8月。豊が小5の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。(つづく)

(4月8日記)
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躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(2)

2015年04月07日 | 躰道
                 祝嶺正献最高師範の瓦割り演武

尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(2)」尾崎健一

(2)祝嶺正献先生の武道家へのデビュー

祝嶺正献先生が自衛隊を去られて間もなく、恐らく昭和31年春だったと思います。
先生は満を持した如く、武道家へのデビューを華々しく果たされたのです。
当日の思い出を再現します。
ところは、神田共立講堂。舞台正面には三十数枚の瓦が積まれている。
客席の私からはよく見えないが、たぶん数枚のコンクリートブロックがその下に敷かれている筈である。
舞台右ソデから、道着姿も凛々しい先生が静かに現われ、積まれた瓦を前にして客席に一礼された。
この頃は、まだ白黒のテレビが漸く町角などに出始めた頃で、場内には武道新聞の記者らしい人たちは多くきていたが、テレビ撮影は勿論ない。
今なら早速民放でライブ放映されるはずの名場面である。
それに、残念乍ら私もまだカメラなど持っていなかった。

最前列の席で、私はその瞬間を待った。
場内寂として、観客は息を殺し、一瞬静寂が凍りつく。
下から見上げると、三十数枚の瓦は先生の腰の辺りにまで及んでいる。
何しろ、五枚の瓦割りに苦労している私である。
祈る気持ちであった。
裂帛の気合が、凍りついた静寂を破った。
全身の力が、右肩から腕に流れ先生の手刀はグズッとにぶい音をたてて瓦の上にくいこんだ。

万雷の拍手が湧く。
だが、私はまだ心配だった。
高さの半分位までは左右に割れているが、更に下方の状態がよく判らない。
成否は。
と客席は固唾をのむ。
やがて介助者が現われて、積まれた瓦の片側を静かに引き離すと、積み重ねた瓦の中心線は見事に最下部の一枚まで左右に割れたのである。

成功。
再び場内には割れんばかりの拍手が鳴りひびいた。
先生は、再び静かに一礼して舞台を去られた。
安心と、喜びが余りに大きかったせいか、遠い日の事でもあり、このあとのことを私はよく思い出せない。
先生が、武道家として躰道をひっさげて、見事にデビューされた一瞬であった。

(4月7日記)
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躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(1)

2015年04月06日 | 躰道
                      尾崎健一さん

私の親しい知人に尾崎健一さんがおります。
躰道では、ともに躰道創始者・祝嶺正献最高師範に指導を受けた同志であります。
躰道師範協議会の役員会では、副会長として長年その運営に携わっておりました。
尾崎健一さんは、ロック歌手として活躍していた尾崎豊氏の父親であります。
躰道も学んでいた尾崎豊さんが亡くなり23年が経過しております。
躰道の創始者である祝嶺正献先生も逝去して14年目を迎えております。
尾崎健一さんが「躰道壮年倶楽部」の講演会の原稿としてまとめた資料があります。
尾崎健一さんの許可を得て、この度私のブログで公開をすることとなりました。
テーマ「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(尾崎健一著)です。
暫くの間、連載をさせていただきます。
どうぞご愛読下さい。(池内和彦)

************************************

「躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(1)」 尾崎健一

1.(前おき)
 実は今、ここに立って私は少し困惑しております。
 先日「思い出話でもしてくれませんか」と池内和彦先生からお電話を頂いた時は、草創当時の祝嶺正献先生との思い出を話させて頂くのは光栄だな、でももっと他にも、例えば横堀登さん亡きあとといえば、峯村千徳さんあり、牧野力さんありですから、そうした方々と十五分づつ位なら、思い出話しをさせて頂きます。とご返事した――つもりだったのですが、送られた予定表ゲラを見ると一時間にわたる私の「講演会」ということになっているので、びっくりした訳です。
躰道についての講演できる人は、宗家・祝嶺正献先生をおいて他にありません。
語の厳密な意味から言えば『講演とは弟子に対して教えさとす』ことだからであります。――と堅苦しくいえば、まァそ-いうことになります。
――だからいって『一諾を重んずる』ことは宗家から教えられてきた、躰道の伝統的徳目でもあります。
そこで、今日の私の話しは年寄りが昔の思い出話しを囲炉裏ばたでボソボソと語る、言うならば『炉返談話』として気楽にお聞き頂ければ幸いと思います。
何しろ半世紀ほど前の話しになる訳ですから記憶に若干の思い違いもあると思いますが、その辺はお許し頂きたいと思う次第であります。(つづく)

(4月6日記)
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アトリエクラブ「マジック教室」

2015年04月05日 | マジック
               佐々木洋之さんによる「ロープマジック」

アトリエクラブの「マジック教室」は4月から2年目の新講座が始まりました。
15名の登録者のうち新規会員は6名であり、他の人は前期からの継続受講となっております。
皆さんマジックにとても興味があり、習得も早いので驚いております。

この日は両親指をひもで縛ってもらい手拭いを被せると指が抜けているマジックを披露しました。
次に数字パズルのマジックを担当しました。4枠の数字を足して合計の数を紙にメモしてもらい、その4つの数字を隠してもらうがピタリと当てるもの。足し算に電卓を必要とするかと思いましたが、皆さん暗算で計算をしておりました。種明かしの解説をしてもよく理解しておりました。

佐々木洋之さんはロープマジックの指導をしました。
ロープをひょうたんに結んでいって両端のロープを左右にひくとほどけている不思議さ。
次は中指にからませたロープをさらに重ねて指に挟んでいってもロープをひくと指抜けができるもの。
難しい作品かと思いきや、受講者たちはすぐにマスターするから素晴らしいものです。

(4月5日記)



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天野史子さんについて

2015年04月04日 | 神田祭
                       天野屋の史子姐さん

神田明神前にある「あま酒の天野屋さん」に史子お姐さんがおります。
売店とあま酒茶店を仕切っております。
とてもさっぱりとした気風のいい女性です。

神田祭が近づくとそわそわとして気持ちが高ぶっていきます。
天星睦の女神輿の時も率先してリーダーの役目を務めていました。
いまは外神田の「金澤会」の神輿チームに力を入れております。

東京の神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭りとして名を連ねております。
江戸の三大祭りは、神田祭、山王祭、深川祭をいいます。
そのような由緒ある神田祭は5月10日に神田神社の神輿宮入が挙行されます。

神田祭に参加を希望する元気な男性、女性を募集しております。
◆参加希望者の申込み先⇒ikeuchi@cap.ocn.ne.jp(池内和彦宛)
①氏名 ②年齢 ③性別 ④連絡先メール ⑤携帯電話 ⑥住所を明記
4月12日まで受付けております。

(4月4日記)
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神田祭の参加者募集!

2015年04月03日 | 神田祭
                   日本三代祭「神田祭」

神田祭本祭の宮入が行われます。
「金澤会」の参加希望者を募集しております

5月10日(日)
午前7時30分集合
午前 神田神社本殿、神輿宮入
  午後 秋葉原中央通り神輿渡御
  夕刻 打上げ会参加

金澤会半纏(はんてん)は貸与します
募集 男性 女性 元気な人
参加費 1,000円(半纏クリーニング代として)
※祭り衣装は準備してください

参加応募者対象に4月下旬に「説明打合会」を開催します
※詳細は応募者へご連絡します

◆参加申込み先
池内和彦宛 Mail⇒ikeuchi@cap.ocn.ne.jp
①氏名 ②年齢 ③性別 ④連絡先メール ⑤電話 ⑥住所
締切 4月12日(日)
※希望者多数の場合は選抜します
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六義園のしだれ桜

2015年04月02日 | 日記
                       六義園のしだれ桜

山手線の駒込駅のそばに「六義園」があります。
六義園は柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した大名庭園です。
話題のしだれ桜を観に行きました。

六義園のシンボルであるしだれ桜は、ソメイヨシノよりも一足早く開花し、東京に春の訪れを告げてくれます。
しだれ桜は、高さ約15m、幅約20mもある大木で、「エドヒガン」という品種が変化したものです。
六義園にはしだれ桜、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラが75本植えられており、しだれ桜は4本あります。

4月5日まで、夜はライトアップされ、幻想的なしだれ桜を観ることが出来ます。
なお、豊島区駒込はソメイヨシノ桜の発祥の地であります。

(4月2日記)



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千鳥ヶ淵の満開の桜

2015年04月01日 | 日記
                       千鳥ヶ淵の満開の桜

毎年さくらの花が咲くと千鳥ヶ淵に観桜に出かけます。
頭上に咲く約260本のソメイヨシノがまるで桜のトンネルの中を歩いているような体験ができます。
ボート場屋上の展望台からの景観がとても素晴らしく撮影スポットとなっています。

千鳥ヶ淵の濠には遊覧ボートが人気で長い行列ができています。
ピンク色に咲いた桜の花と水面をスイスイと動くボートのコントラストがとてもいいものです。
桜の枝が水面まで垂れて花の間を楽しそうに進んでいくボートたち。

夜は千鳥ヶ淵緑道はライトアップされるので、昼間とはまた趣が異なり、会社帰りの人たちが楽しめる。

(4月1日記)


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