先般、ネットで見つけた同じ転移性乳がんを患うひよこさんのブログで「告知」がテーマになっていたので、ふと、自分のことを思い出してみた。
そもそも告知という言葉は「お知らせする」という意味だから、自治体の広報誌等にも「告知」欄があるが、こと患者である私たちが「告知」と言うときは間違いなく「がんの告知」「再発の告知」「余命の告知」等の意味だ。だから「告知」という言葉はとても重たい。不思議なことに他の病気ではあまり「告知」とは言わないように思う。やはり余命なり生死にかかわるということなのだろうか。
初発の告知。
毎年12月には職場の検診を欠かさず受けていた私が、11月頃、自分でしこりを見つけ、近所のクリニックに行くと、視触診と超音波検査をし、その場で紹介状を書いてくれ、このあたりでは一番大きな総合病院へ予約を入れた。ちょうど今から6年前の12月初めのことだ。
そして、受診。何分、年末も押し迫っていたので、各種精密検査の予約がすぐにも取れず、造影CTなど大きい検査は年明けになった。年末は年明けに控えた大きな仕事の準備に追われており、仕事納めの日を過ぎても仕事に出た。そして、年が明けてすぐに検査。主治医の話の様子では限りなくクロに近いグレーという感じだったが、私はまだ青天の霹靂で、どこか他人事のようだった。針生検や細胞診はせずに、日帰りの腫瘤摘出術をお願いした。「セカンドオピニオンはいいですか?」と言われたけれど、また病院を探して一から予約をとって検査をしていく時間がもったいなかった。何度もしこりの一部を取ってみて、はっきりしないよりもさっさとしこりを全部とってしまい、良性ならそのまま仕事が出来るし、万一悪性だというならあきらめるので、先生にお任せします、ということで。
その10日後に手術。1月19日だった。その時は局所麻酔だったので、意識はしっかりしており、先生とはお話もできた。電気メスで皮膚が焼けるにおいや、局所麻酔が切れたときの痛み等は今もしっかり覚えている。取ったものを見ながら「やはり硬いので・・・」としこりをカットした面も見せてくれた。周りの脂肪なのかやけに黄色っぽかったことを覚えている。本当に恥ずかしいことだが、私はこの時にガンがとても硬いものだという認識すらなかった。しっかり創部の痛みはあるし、意識ははっきりしているのに、相変わらずどこか上の空な感じだった。
手術翌日だけ消毒のため通院、休暇をとり、2日後には職場へ。ガンかもしれない、ということを考えられないほどの忙しさで(今思えばそれが精神衛生上よかったのかもしれないが)大きな仕事を一応クリアしてから結果を聴きに行った。当然1人で診察室に入った。「・・・悪いものでした」と言われた。「ガン」という言葉は一回も使われなかった。「家族の方にもお話をしたいので、日を換えていらしてください」と言われた。この辺のことはもうぼんやりとしている。
パソコンの画面には早手回しに「もうメスを入れてしまったので、追加切除の手術はなるべく早い方がいいです。予約をしておきました。」ということで、「2月4日 左乳がん温存手術 9時~3時間手術室予約」という文字が見えた。そんなわけで、あれよあれよと有無を言わさず入院、手術の日程が決まってしまった。職場に帰って事情を話し、入院の前日まで残業してなんとか引き継ぎをしたが、仕事中「私、ガンなんです。来週入院して手術なんです。」と大声で叫び出してしまいそうな精神状態になることもあった。もちろんそんなことはしなかったけれど・・・)、年度末の一番の繁忙期。本当にご迷惑をかけたなあ、と今でもその時の後任者には負い目がある。
そして約3年後。途中卵巣転移かもしれない、と言われた卵巣のう腫の手術から1年も経たずして、今度は再発転移の告知。
息子の中学受験が始まってすぐ、やはり1月。術後2年半後の8月の検査までは異常なしだったのに、腫瘍マーカーCA15-3は秋口からぐんぐん上がっていたし、両肺のCT画像、骨シンチの画像をパソコン上で見るにつけ、私にも十分異常がわかった。胸部のしぶとい痛みから骨転移では、という予感はしていたが、両肺・縦隔リンパ節等の多発転移までは予想外だった。「・・・解せないが、この肺のたくさんの影は転移に間違いない」だった。
先生はとても苦しそうだった。同じように最初は1人で受診。翌日以降、夫を連れて来るように言われ、これからのことを話した。即入院、抗がん剤治療を始めましょう、と。きわめて穏やかで寡黙な先生だったけれど、外科が専門だったからもう手術の適応ではない、ということでなんとなく目の前からすーっと離れて行くような気がした。「あとどのくらい・・・」と訊きかけて結局怖くて訊けなかったけれど、無治療のままでは年単位の延命は保障できないようだった。
その後、セカンドオピニオンを得た病院で治療を始めてもうすぐ3年。転院当時は空咳も息切れもあり、もちろん胸部の痛みも今より強かった。今のところ余命の告知はされていない。それでも主治医からは最初にきちんと気持ちを聴かれた。再発で完治は極めて難しいということについてどう考えるか、と。もちろんこれまで真面目に治療してきたので、なぜ、という気持ちがないと言えばうそになるけれど、もうそれは言っても詮無いこと、と分かっていたから口ごもった。
告知が酷知になってはいけないというドクターがいるという。
別に負け惜しみではないけれど、私は上に書いたようにそれほど酷い告知をされてきたとは思っていない。きちんと人として尊重して告知してもらったと思う。そして私もその告知を自分なりに精一杯誠実に受け入れてきたと思うし、今後も受け入れていきたいと思う。
が、余命の告知はやはり、要らないかな、と思っている。
そもそも告知という言葉は「お知らせする」という意味だから、自治体の広報誌等にも「告知」欄があるが、こと患者である私たちが「告知」と言うときは間違いなく「がんの告知」「再発の告知」「余命の告知」等の意味だ。だから「告知」という言葉はとても重たい。不思議なことに他の病気ではあまり「告知」とは言わないように思う。やはり余命なり生死にかかわるということなのだろうか。
初発の告知。
毎年12月には職場の検診を欠かさず受けていた私が、11月頃、自分でしこりを見つけ、近所のクリニックに行くと、視触診と超音波検査をし、その場で紹介状を書いてくれ、このあたりでは一番大きな総合病院へ予約を入れた。ちょうど今から6年前の12月初めのことだ。
そして、受診。何分、年末も押し迫っていたので、各種精密検査の予約がすぐにも取れず、造影CTなど大きい検査は年明けになった。年末は年明けに控えた大きな仕事の準備に追われており、仕事納めの日を過ぎても仕事に出た。そして、年が明けてすぐに検査。主治医の話の様子では限りなくクロに近いグレーという感じだったが、私はまだ青天の霹靂で、どこか他人事のようだった。針生検や細胞診はせずに、日帰りの腫瘤摘出術をお願いした。「セカンドオピニオンはいいですか?」と言われたけれど、また病院を探して一から予約をとって検査をしていく時間がもったいなかった。何度もしこりの一部を取ってみて、はっきりしないよりもさっさとしこりを全部とってしまい、良性ならそのまま仕事が出来るし、万一悪性だというならあきらめるので、先生にお任せします、ということで。
その10日後に手術。1月19日だった。その時は局所麻酔だったので、意識はしっかりしており、先生とはお話もできた。電気メスで皮膚が焼けるにおいや、局所麻酔が切れたときの痛み等は今もしっかり覚えている。取ったものを見ながら「やはり硬いので・・・」としこりをカットした面も見せてくれた。周りの脂肪なのかやけに黄色っぽかったことを覚えている。本当に恥ずかしいことだが、私はこの時にガンがとても硬いものだという認識すらなかった。しっかり創部の痛みはあるし、意識ははっきりしているのに、相変わらずどこか上の空な感じだった。
手術翌日だけ消毒のため通院、休暇をとり、2日後には職場へ。ガンかもしれない、ということを考えられないほどの忙しさで(今思えばそれが精神衛生上よかったのかもしれないが)大きな仕事を一応クリアしてから結果を聴きに行った。当然1人で診察室に入った。「・・・悪いものでした」と言われた。「ガン」という言葉は一回も使われなかった。「家族の方にもお話をしたいので、日を換えていらしてください」と言われた。この辺のことはもうぼんやりとしている。
パソコンの画面には早手回しに「もうメスを入れてしまったので、追加切除の手術はなるべく早い方がいいです。予約をしておきました。」ということで、「2月4日 左乳がん温存手術 9時~3時間手術室予約」という文字が見えた。そんなわけで、あれよあれよと有無を言わさず入院、手術の日程が決まってしまった。職場に帰って事情を話し、入院の前日まで残業してなんとか引き継ぎをしたが、仕事中「私、ガンなんです。来週入院して手術なんです。」と大声で叫び出してしまいそうな精神状態になることもあった。もちろんそんなことはしなかったけれど・・・)、年度末の一番の繁忙期。本当にご迷惑をかけたなあ、と今でもその時の後任者には負い目がある。
そして約3年後。途中卵巣転移かもしれない、と言われた卵巣のう腫の手術から1年も経たずして、今度は再発転移の告知。
息子の中学受験が始まってすぐ、やはり1月。術後2年半後の8月の検査までは異常なしだったのに、腫瘍マーカーCA15-3は秋口からぐんぐん上がっていたし、両肺のCT画像、骨シンチの画像をパソコン上で見るにつけ、私にも十分異常がわかった。胸部のしぶとい痛みから骨転移では、という予感はしていたが、両肺・縦隔リンパ節等の多発転移までは予想外だった。「・・・解せないが、この肺のたくさんの影は転移に間違いない」だった。
先生はとても苦しそうだった。同じように最初は1人で受診。翌日以降、夫を連れて来るように言われ、これからのことを話した。即入院、抗がん剤治療を始めましょう、と。きわめて穏やかで寡黙な先生だったけれど、外科が専門だったからもう手術の適応ではない、ということでなんとなく目の前からすーっと離れて行くような気がした。「あとどのくらい・・・」と訊きかけて結局怖くて訊けなかったけれど、無治療のままでは年単位の延命は保障できないようだった。
その後、セカンドオピニオンを得た病院で治療を始めてもうすぐ3年。転院当時は空咳も息切れもあり、もちろん胸部の痛みも今より強かった。今のところ余命の告知はされていない。それでも主治医からは最初にきちんと気持ちを聴かれた。再発で完治は極めて難しいということについてどう考えるか、と。もちろんこれまで真面目に治療してきたので、なぜ、という気持ちがないと言えばうそになるけれど、もうそれは言っても詮無いこと、と分かっていたから口ごもった。
告知が酷知になってはいけないというドクターがいるという。
別に負け惜しみではないけれど、私は上に書いたようにそれほど酷い告知をされてきたとは思っていない。きちんと人として尊重して告知してもらったと思う。そして私もその告知を自分なりに精一杯誠実に受け入れてきたと思うし、今後も受け入れていきたいと思う。
が、余命の告知はやはり、要らないかな、と思っている。