ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.6.13 ある新聞記事から

2010-06-13 12:34:19 | 日記
 ネットの新聞記事を見ていた夫から、「ちょっと読んでみて。」と言われた。以下記事の全文である。

嘱託殺人 「苦しむ父、見かねた」容疑の少年
 6月13日2時33分配信  毎日新聞
大阪市鶴見区のマンションで12日、少年(17)が病気の父親(44)を殺害した容疑で逮捕された事件で、父親が少なくとも数カ月前から、少年に「しんどい。殺してくれ」と殺害を懇願していたことがわかった。また、大阪府警鶴見署によると、少年は父親からの殺害の依頼に従った理由を、「父親が苦しむ姿を見るに見かねてやった」という趣旨の言葉で説明しているという。父親は肝臓を患うなど最近になって体調を悪化させており、同署は、体調に悩んだ父親が少年に繰り返し殺害を頼んでいたとみて、さらに詳しく調べている。
 父親の知人らによると、父親は体調の悪化で、最近は寝たきり状態だった。次第に弱音も吐くようになっていたという。父親は今年に入り、近所の飲食店を訪れた際、一緒に食事をしていた少年に「もうしんどい。おれを殺してくれ」と漏らした。これを聞いた店の経営者がすぐに「大事な息子に何させるんや」とたしなめたという。【安藤龍朗、向畑泰司】
 ◇母は数年前に病死
 「(少年は)父親のことがとても好きで尊敬していた。父親にとっても自慢の息子だった」。仲が良かった父子を知る人らは一様にこう話した。しかし、少年は自らの手で父親の命を絶った。
 父親の知人らによると、少年は一人っ子で、母親は数年前に病死した。父親は当時、「(母親を)幸せにしてやれなかった」と落ち込む一方で、「(少年と)2人で頑張る」とも話していたという。父親はこのころから「眠れない」と言って、睡眠導入剤を服用するようにもなった。
 父親と親しい運送業の男性(26)は「とにかく、父親は(少年を)かわいがっていた。小学生のころは我流でキックボクシングを教え、礼儀もきちんとしつけていた」と話す。また、父子が食事のために通っていた近くの居酒屋の店長(40)は「父親はいつも『あいつはええ男や』と息子を自慢した。(少年は)近所の人に会うと、きちんとした言葉であいさつする礼儀正しい子だった」と語った。
 しかし、父親は体調を崩しながらも好きな酒をやめることはなく、症状は悪化する一方だった。近所の住人によると、事件前日の11日夕にも、日本酒3ケースが自宅に届けられていたという。
 事件を知った知人らは少年の動機について、口々にこう推し量った。「大好きな父親がどんどん弱っていくのが、しんどかったんだと思う」--。(記事ここまで)

 やり切れなさを思う。そして家族構成も私が病気を抱えていることも同じ、と、どうしても我が家の状況と照らし合わせて冷静でいられない。
 夫は3年ほど前、3人で近くのレストランでワインつきの夕食をとった後、スーパーで買い物中貧血で倒れ、後頭部を打って救急車で運ばれて以来、すっかりお酒を絶っていた。それでもやむを得ないお付き合いもあり、最近ではウーロン茶だけで過ごしている、ということはないようだ。
 息子が産まれる前、私が半年間欧州研修で家を空けた時も、だんだん酒量が増えていったといい、当時は殆ど下戸だったはずが、帰宅した時にはかなりイケル口になっていた。

 前にも書いたが、息子は結構さばさばしているし、あまり後ろを振り向かない性格なので(というか反省しない性格)、心配していないのだが、夫についてはとても気がかり。
 これでこの新聞記事のようなことになりでもしたら、と胸がかきむしられる思いだ。
 自慢の息子、尊敬する父・・・その2人の間に起きた悲劇。十分分別もあるだろう17歳の少年が、大好きなお父さんを殺めればこの後自分はどうなるのか想像できただろうに、それでもそうしなければならなかった気持ちを思うと本当にやり切れない。

 夫は「息子にはこんなことはさせてはいけないよな。」と一言。
 そう、お父さん、私がもしこの後具合が悪くなってあなたたちを置いて先に逝くことになっても、ちゃんと2人で前を向いて生きていってくれないと、私は死ぬに死ねません。という気持ちだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010.6.12 プロセスは無関係?

2010-06-12 22:21:22 | 日記
 週の半ばに担任から電話があった。今回の友人との喧嘩についての処分が決まったとのこと。息子は「保護者同伴学年主任厳重注意」、相手のお子さんは「保護者抜きの本人のみ学年主任注意」ということで、一目瞭然息子がより重い処分だ。
 土曜日に学校までご足労願いたいとのこと。授業が終わる時間を指定され、今日、夫が出向いた。

 このお子さんとは昨年の初め頃にもトラブルがあり(この時も息子は「保護者同伴学年主任厳重注意」だった。当時復職したてでめっきり体力が落ちていた私は、とても耐えられそうになく夫に行ってもらった。)、「お互いに今後はもう近づかない方がいい。」とまで言われ、以来付き合っていないのかと思いきや、何やらお互い惹かれる所があるのかないのか、不思議なことにその後また縒りを戻したようで、昨年の担任も「何なんですかねー。」と首を傾げていたところだった。
 今回もトラブルに至るまでにはもろもろの経緯があって、結果として相手から言葉の暴力で挑発され、それに我慢しきれずに先に手を出したのは息子、というその部分にのみ焦点を当てての処分のようだ。

 夫とも随分話をしたのだが、男子校なので、トラブルにはどうしても暴力が絡むことが多い。昨年、このお子さんとのトラブルに加え、1年次の部活での先輩とのトラブル、2年次の部活での後輩とのトラブルについても、共通することは“経過については一切不問で「先に手を出した」”ということにより、重い処分を受けている。
 部活でのトラブルについては、いずれも顧問が不在だったため、周りにいた生徒たちのヒアリングをしただけ。特に初回の先輩とのトラブルについては、私たち夫婦への報告は一切なかったのに、学年の担任全員が見る指導記録に顧問がしっかり記録を残して回覧していたようだ。校長までその書類が上げられていたらしく、「2年の担任になった際(その記録だけ見て)一体どんなとんでもない奴なのかと身構えた。」と昨年の担任に言われた。こちらは全く知らなかったことが記録され、その記録によって担任が息子に対してマイナスの先入観を持ったことに酷く驚き、不信感というか実に一方的な印象を受けた。

 今回のトラブルも経過を聞けば、どう冷静に考えても息子だけが一方的に悪いということではなさそうなのだが、これまでの学校の対応を見ている限り、とにかく「私立であり、高い授業料を頂いているので、苛めなどがあるのはもってのほか、安全安心な学校づくりが一番、たとえ何があっても(経過は関係なく)暴力は絶対厳禁である。」という強い姿勢を感じる。そのため、私は息子には「とにかく自分から手を出したら絶対にダメ。」ということは常々言って来たのだが・・・。
 もちろん私は正しい暴力があるなどとは言うつもりはないし、苛めがあっていいとも思わない。(この辺りは男の子同士なのだから、多数対1ということでない1対1でのトラブルについては、やられたらやり返せ、そうしないと次からナメられて苛められる!的な持論を持つ夫とはちょっとスタンスが違う。)それでも物事は結果だけでなく、プロセスが大事だ、という教育が必要なのでは・・・と、とても疑問に感じる。

 喧嘩の当日は息子の首筋には赤い指の跡のような痣(内出血)、手首には大きな歯型が残っていた。「手首からは結構出血したが、消毒してもらったから大丈夫。」と言っていた。かたや相手のお子さんには息子いわく“ヘッドロックをかけて頭を殴ったら泣き出した”そうだ。

 去年の部活のトラブルも、先輩たちを含めその場にいた全員で一緒に行っていたゲームのからかいから始まったのに、結果としてそれを止めなかった年長者である先輩たちは不問で、下級生である息子一人が処分を一手に引き受けた感じを受ける。親だから息子の話は半分割り引くにしても、どうも納得がいかない。
 部活の顧問を含め、どの教員と話しても、プロセスについてとりあえず双方の話は聞くものの、実際のところ最初から処分は決まっているような印象を受ける。学校としての方針が行き渡っているのだろうと実感する。

 今でも合点がいかないのは、1年次の初回、息子が相手の制服を汚したという部活トラブルでは“汚した”という結果のみが重視され、弁償するように言われた。しかし昨年の2回目は初回と逆で息子が被害者なのだから、初回と同じ判断(相手から弁償をしてもらう)をするのだろう、それなら何も言うまい、と思っていたのだが、その時は「こういうことになったのはきっかけが息子さんにもありますから。」という言葉がついた。「前回はきっかけなど一切不問だったのに、今回息子のケースではそれを言うのですか。」と喉元まで言葉が出かかった。結局「弁償は結構です。」と引き下がらざるを得なかった。よほど目をつけられているのか。逆もまた真なり、お互い様、とはならないのか。

 それでも息子は「学校に行きたくない。」とは決して言わずに毎日通学している。ただし肝心の勉強に関しては、不思議なほどすっかりやる気がなくなっており、先日の中間テストの成績は目を覆うばかり。
 このまま高校へ内部進学できずに放り出されでもしたら、何のために小学校生活を我慢させ、3年間も塾に通って中学受験をしたのか、と暗澹たる気持ちになる。

 夫が学校から帰ってきた。担任からは「本来は同じ相手とのトラブルは2回目になると学年主任厳重注意ではなく、その上の生活指導部長厳重注意相当(次のステップが校長厳重注意だそうだ。)だ。」と言われたらしい。今回学年主任厳重注意の処分で済んだのは、言ってみれば経緯を加味しての温情判決だそうだ。
 とすれば、今回は多少なりとも、経緯が大切ではないかというこちらの言い分を学校側も理解してくれたということか。

 何よりも多感な中学高校という6年間に生涯の友人を作って欲しい、と入学させた中高一貫校である。リサーチ不足といえばリサーチ不足で、押さえ校とはいえ進学する可能性もあったのだから、受験させた親の責任に尽きるのだが、このまま引っかかりを感じながら、二度と戻ってこない大切な時期、あと3年半をこの学校に預け続けて本当に良いのだろうか。
 もちろんこの中途半端な時期に外に出て、公立の中学に編入して高校入試を受け直す、ということは現実論としてあまりにハードルが高い。

 真剣に悩むこの頃である。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010.6.11 あけぼの会東京支部活動休止

2010-06-11 19:27:41 | あけぼの会
 先日、あけぼの会東京支部から「東京支部休止のお知らせ」というはがきが届いた。

 「東京支部は2005年2月5日に発足以来(今思えば、この日は奇しくも私の初発の手術の翌日だ。)5年間にわたり活動を続けてきましたが、このたびあけぼの会本部との話し合いの結果、活動を中止することになりました。これまで続けてこられましたのも、皆様の前向きに取り組む姿勢とパワーと笑顔に励まされてのことと、スタッフ一同感謝しております。・・・・・・2010年6月 東京支部スタッフ一同」とのこと。

 4月に喫茶店の貴賓室で開かれた「虹のサロン」に参加した後、5月の母の日キャンペーンには参加できなかったので、次回は6月か7月、と思っていた矢先のことだった。とても残念だ。結局参加できたのは去年の11月と今年の4月の2回だけだった。
 きちんと病気に向き合って、前向きに治療を続けている「虹のサロン」の諸先輩方には沢山の元気と勇気を頂いた。本当に感謝している。そして多忙な中、その都度こうしたお知らせを出し、支部便りを発行し、サロン当日の準備や片付け等をされていたスタッフの方たちにも、心からお礼と「お疲れ様でした。」を言いたいと思う。

 そんなわけで5月に原稿依頼があった支部便り「虹色紙風船」の原稿もお蔵入りになった。今日は、広報担当の方からご丁寧なお詫びのお手紙を頂戴した。

 7月には会員の皆様に届くはずだったものだが、自分で書いたものなので、ちょっと早いけれど掲載させて頂く。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

「再発2年半 元気です!」
 「虹のサロン」を知ったのは去年の7月。再発治療の大きなヤマを超え、思い切ってあけぼの会に入会。初めて「初夏のお集まり」に参加した時だった。
 初発から3年を迎えようとしていた直前に両肺、リンパ節、骨転移の告知。セカンド・オピニオンを得て転院し、即ゾメタ開始。ホルモン治療だけでは抑え切れず週1ハーセプチン投与。更にタキソテール6クール。
 よれよれになって職場復帰したものの、これから如何に病気と少しでも長く共存していくか、と考えざるを得なかった。
 そんな私に勇気をくれたのが「虹のサロン」。何の前置きも要らない、すぐ本音で話が出来るサロンだった。一人じゃないって素晴らしい。40代、まだまだやりたいことばかり。無理はしないけれど、決して諦めずきちんと受け止め受け容れ生きていく。“先行きをあれこれ不安に思い煩うより、何かあってから考える”。これが一番。今の正直な気持ちだ。
 治療日記を中心に身辺雑記を綴っているブログ『ロッキングチェアに揺られて』、よろしければ覗いて下さいね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
 何よりこの短文の中で言いたかったのは、再発したら“先行きをあれこれ不安に思い煩うより、何かあってから考える”こと、それが一番ということだ。

 そうは言いつつも、今回ヒスロンHへの薬の変更に伴い、ネットサーフィンしながらいろいろ情報検索して、一喜一憂どころか一憂一憂している自分がいて情けない。

 先生がおっしゃるように効果と副作用を天秤にかけて、やはり効果が上回るなら副作用は問わない・・・ということは頭ではわかっているけれど、副作用とつきあっていくのは自分自身。それも効き続ければ何年も、ということになかなかすっきり割り切れず、が実際のところだ。しかも(今から考えても仕方ないことだ、ということも重々わかっており、原稿で言っていることと相反しているのに)もし、効かなければ今度は抗がん剤治療のみ、という事実にも正直なところ落ち込みは隠せない。また薬に慣れるまではちょっと辛いな、と思う。

 これからも再発仲間で話が出来る場が何らかの形で復活してくれれば本当に嬉しい。(再発するかもしれない・・・)という不安と、「実際に再発する」ということは当然ながら全く違うことなので、やはり「虹のサロン」のような場はあり続けてほしいというのが一会員としての切なる願いだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010.6.10 ハーセプチン96回目、ゾメタ37回目

2010-06-10 20:49:07 | 治療日記
 今日は梅雨入り前の貴重な快晴の青空。乗換駅で電車が遅れており、病院最寄り駅の到着がいつもより5分ほど遅れた。レントゲン撮影から開始で、受付後15分ほど待って終了。内科受付後、中待合を経て診察室に入るまで小一時間待った。
 「先週は特に変わりなく・・・」と報告した後、先生から「(レントゲン画像を見せてくださりながら)左肺の影が濃くなっていますね。マーカーは(前回お知らせしたとおり)1回下がったのがまた4月並に戻っているので、治療を変更してもいいかな、ということで、ヒスロンですね。」とのお話があった。
 「(初発時に使ったタモキシフェンのノルバデックス、再発後に使ってきたアロマターゼ阻害剤のフェマーラ、アロマシンからの変更なので、)今回のヒスロンはホルモン治療薬最後の選択肢になる(その後の治療は抗がん剤のみ)と思いますが、(再発後の)2つの薬が各々半年、1年半しか効かなかったということと、副作用を考えるとどうでしょうか。」と尋ねたところ、タモキシフェンと同系列の薬だが、状況によってはトレミフェンを使うこともある、しかし、やはり今は使っていない系列の薬からということで、ヒスロンの方が優先順位が高いこと、現在、他にも(ヒスロンを)3,4年(効いていて)飲んでいる方、1,2年飲んでいる方がいること、副作用の血栓等についてもCTを撮っていくので(症状が出なくても)わかる等の説明をして頂いた。
 「この病気には肥満が大敵なのに、エストロゲンを抑えて普通より脂肪が蓄積しやすくなっていることに加え、今回のヒスロンで体重増加、顔面膨張、食欲増進という相反する副作用が判っていながら(効き続けている間)何年も服用することについて(仕方ないとは思うが)どうしても割り切れないものがある。」ことをお話する。先生いわく(副作用と効果の)両者を天秤にかけて効果の方が多いということで副作用が許容される、とのこと。マーカーの上昇はゆっくりなので、薬の変更は今日決めても次回まで残りの薬を飲み終わってから決めても遅くないとのこと。治療変更になれば区切りの段階でまたCT撮影が必要だと思うが、というお話になり、翌週末にCTの予約をして頂いた。いずれにせよ、引っかかるものがあるなら、“納得することが大事”で、納得してから治療変更をしたほうがよい、と言われたが、観念して薬を処方して頂いた。
 今回の薬は最大1日6錠まで使えるが、初回は1日3回、1回1錠からスタートで、とのこと。

 処置室に移動して、針刺・血圧測定後、点滴薬到着まで1時間。点滴が始まったのはお昼を回っていた。4本の点滴が終了するのには最短でも3時間はたっぷりかかる。お昼は点滴椅子でサンドイッチをかじった。
 待っている間、「先生は(区切りの段階で)CTを撮るタイミングは新しい薬を飲み始めてからでも問題ないとのことでしたが、やはり自分としてはスッキリけじめをつけるためにCT当日までは今の薬を飲んで(CTの結果は今の薬の影響のみ、という状態にして)その翌日から薬を変えたいのですが・・・」ということを先生に伝えて頂いたところ、帰りには問題なく了承されました、とお返事があった。
 今日は窓際の椅子が満席だったので、カーテンの仕切りの中、部屋の中央の椅子だった。隣のベッドから「あまりに辛くて・・・」と声を押し殺した泣き声が聞こえてきたり、隣の椅子から「そんな副作用があるなんて聞いていない」という不機嫌そうな声等、あまり嬉しくない音がいろいろ聞こえてしまい、正直滅入った。看護師さんも受け止めて対応するのは本当に大変だ。看護師さんたちの定期的なメンタルケアが必要だろう、と思う。
 とにもかくにも無事終了して会計。病院を出て薬局に寄って薬を受け取り、やはり家に着いたのは仕事を終えて帰宅するのと変わらない時間になった。

 今日は3冊読めた。
 1冊目は夏樹静子さんの「腰痛放浪記 椅子がこわい」(新潮文庫)。夏樹さんが腰痛で苦しんでおられたのは知っていたけれど、実際この本を読んで本当に大変だったのだ、と怖くなった。裏表紙には「時には死までを思い浮かべた鋭い腰の疼痛は、実は抑制された内なる魂の叫びだった。3年間の地獄の責め苦は、指一本触れられずに完治した。」とあるが、心と体の表裏一体ともいえる関係を思い知らされた。私も30歳の時に仕事で重いカメラを担いで以来、椎間板ヘルニアになり、一時は歩けなくなった。コルセットを作り、自分の体重と同じ重さで牽引し、電気をあて、薬を飲み・・・と丸々2年以上通院した。医師には妊娠出産で良くなるかもしれないと言われたが、今では調子が悪くなりそうなときは決して無理をせず、何とかうまく付き合っている。それにしても腰は字のとおり本当にカラダの要である。
 2冊目は古荘純一さんの「日本子どもの自尊感情はなぜ低いのか 児童精神科医の現場報告」(光文社新書)。「幸福度が世界最低レベルの日本の子ども。その心の中=調査の解答用紙を眼にしたときの衝撃が忘れられない=。何が子どもたちの「心の居場所」を奪っているのか。」という帯のとおり、多くの子どもたちが自分に自信がなく、自分自身や学校などの満足度に関する質問に対し、下から二番目の答えを選択しているという。最終章では子どもとどう関わったらよいのか。=子どもの話に耳を傾け、まずはお母さんが、そしてお父さんも自己を肯定する。親の期待を押し付けず、子どもを肯定的に受け止める。子ども自身が目標、希望を持てるようにする。規則正しい生活習慣の確立を、大人がみんなで子どもを育む社会を目指す。=とあったが、親自身の自尊感情が低いと子どものそれも低くなる、ということについてはさもありなん、と反省した。
 3冊目は池田清彦さんの「正しく生きるとはどういうことか」(新潮文庫)。“正しく生きることは、別に道徳や倫理を守ることではなく、自分なりの規範を設け、その中でうまく欲望を開放しながら楽しむこと、つまりまず“善く”生きること。だが社会で生きる以上、自分と他人の欲望を調停する必要がある。そしてこそ正しく生きることが出来る。眼からウロコの生き方指南。”と裏表紙にあるとおり、池田節を実に興味深く読んだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010.6.9 “M”サイズと“L”サイズ

2010-06-09 21:22:16 | 日記
 今年も義母から誕生日プレゼントが届いた。いつの頃からか6月になると9月が誕生日である夫の分も前倒しでセットで届く。

 なぜか夫のものはずっと“M”サイズ、私には“L”サイズが届く。開けてみても残念ながら今回もあまりにガバガバで着られない。毎年頂くたびに「“L”サイズだと大きいので・・・」とお伝えしているはずなのに、どうして繰り返すのかなあ・・・と思う。

 今回はお礼の電話をした時に、夫からかなりしつこく(私には“L”サイズでは大きすぎて着られないことを)言ってもらったのだが、「そのままにしていてはもったいないし、義妹が着るのでボーナスを送ってくれるときにでも一緒に送り返して欲しい。」とのこと。ほっとした。電話を代わり「せっかくですみませんが、“M”で十分なのです。」と言ったら、「そんなに痩せて具合が悪いのか・・・」と逆に問い返された。
 去年までの頂き物も封は開けたけれど、結局のところ手は通さずにそのままなので、これも一緒にお返ししようか、とも思ったけれど、それではちょっと角が立つので止めておこうと思う。それにしても、実にもったいない話だ。母に譲ろうか、といっても母は私よりずっと小柄だ。

 私は上背はそれなりにあるけれど、上半身が特に貧弱なので、(初発の手術をする前から)“М”どころか“S”でもOKなのだが、「背が高いから、“L”がいい。」と思っておられるようだ。確かに袖丈やスカート丈については“S”では短いけれど、トップスはバストサイズ基準で着るのだから、哀しいかな、どう背伸びをしても“S”ないし“М”である。

 一方、夫は結婚前は痩せていて、若い頃のスーツはY体だった。その当時、私は男性のスーツのサイズなど殆ど知らなかったのだが、彼が「○体というのは、こう覚えると覚えやすい。」と教えてくれたには「Y:やせている、YA:やせているけど当たり前、A:当たり前、AB:当たり前だけどブタ 、B:ブタ」だそうで、実にインパクトが強かったため、以来しっかりその覚え方で刷り込まれてしまった。

 当時Y6だった夫は今やA6を着ている。さすがに身長は変わらないのでずっと数字は同じだが、アルファベットは2段階アップで、さらにウエストに至ってはA6の82センチがきつくなって、前回もウエストのお直しをしたばかり・・・。結婚以来、実に10キロ増だ。3年以上スポーツクラブの会員だったのに、一体何度通ったことか。会費だけは引き落としだったから幽霊会員として表彰ものだろう。退会手続きに行くのも面倒臭かったらしく、やっと届けを出すまでにいくらかかったことか。さらには最近、食後のデザートをやけに所望するなあ、と思っていたが、しつこく言っても体重計に乗りたがらない。やっと乗せてみたら案の定70キロの大台に乗っている。

 「自分だけは中年太りはしないし、絶対に腹は出ない。」と言っていたのが、今は昔・・・である。息子からは「パパは絶対メタボだよ。」と言われている。そのため、いまや上半身“М”サイズだとお腹の辺りがきついようだ。夫に届いたものは、今回一人になってもスポーツクラブの会員を続けているプリッツのような体型の息子へと流れることになった。

 それでも義母にとっては、息子はずっと痩せ型で“М”サイズ、私は背が高いし顔が丸いので“L”サイズ、とインプットされたままなのかもしれない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする