ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.6.19 ヒスロンHスタート

2010-06-19 13:10:59 | 日記
 昨日無事CT検査が終わったので、今日からホルモン治療薬のチェンジだ。副作用のことは気にならないと言えば嘘になるが、とにかく今日からのスタートは自分で決めたことだ。気持ちがぶれないで飲み続けていけますように・・・。

 初発のとき、術後補助療法としてノルバデックスは3年弱飲んだ。朝夕1錠ずつだった。その間少なくとも1,2回は飲み損なった記憶がある。数を数えていたはずなのにふと気づくとなぜか1錠余っていることがあった。飲み忘れても1回で2錠は飲まないように、と注意書きにもあったし、薬局でも言われていた。
 ちょうど放射線治療と並行して服用していたからかどうか今となっては原因はわからないけれど、飲み始めて少し経った頃、顔中に赤い発疹が出来て顔がぱんぱんに腫れたことがある。マスクをしないと外に出られないほどで、いや、マスクをしてもマスクから顔がはみ出していたほどの記憶がある。かなりショックだった。前にも書いたけれど、病気になっても泣かなかったのに、この時初めて涙が溢れた。このままの顔で5年間・・・、と思うと治療を続けていく気持ちが萎えた。それでも放射線治療中の1ヶ月間、この薬を一時中断して、治療終了後再度開始してからは、発疹も腫れも出ることはなかった。吐き気、だるさ、気分の落ち込みといった副作用は出たものの、飲み続けることができた。

 その後、もうすぐ初発から3年後という1月に再発が確定し、2月に転院して7月にハーセプチンを始めるまで、ナサニール点鼻薬とあわせてフェマーラを5ヶ月ちょっと飲んだ。ホットフラッシュはすぐに出たが、関節痛は少し経ってからで、それほど気にはならなかった。 その間、相変わらず腫瘍マーカーの上昇等が見られたため、フェマーラはそこで中止。ハーセプチン開始とともにアロマシンにチェンジになった。11月から3月まで18週間のタキソテール治療の間のお休みをはさみ1年半ほど飲み続けた。
 フェマーラもアロマシンも両方ともごくごく小さな錠剤。朝食後1錠のみだったので、薬の管理としては実に世話なしだった。昼、夜が不要だったから出先で飲み忘れることもなく、とにかく朝食と一緒に食卓に出してほぼ忘れずに飲めていた。
 それにしてもこんな小さな薬でこれだけ体に影響があるのだから、本当に凄い。
 今日からヒスロンHを飲むことで、これまでのフェマーラやアロマシンの副作用である関節痛、手指のこわばりが緩和されるであろうことが唯一の楽しみだ。

 さて、今回のヒスロンHは200ミリグラム1錠を朝昼夕食後各1錠で1日3錠から開始。最大で1回2錠で1日1200ミリグラムまでが許容範囲だそうだ。休日、ブランチをとることになってしまったり、外食した際には注意しなくては、と思う。それでもこの薬もこれまでと同様1回飲み忘れても次回2倍飲んではいけないこととされている。

 とにもかくにも、ホルモン剤の最後のカードであるこの薬が効いてくれること、あわせて、薬の感受性がとても強く実に単純な作りの私であるが、副作用があまり酷く出ないことを祈りたい。

 今日は2日遅れで夫と買い物に行き、誕生日プレゼントに真珠とプラチナで花びらをあしらったペンダントを買ってもらった。アジャスターで調整すればチョーカーのようにも使える。
 真珠は6月の誕生石。その意味する“健康、長寿”に少しでもあやかりたいものだ。これからは出来るだけ毎日身に着けていこうと思っている。
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2010.6.18 造影CT検査 頚部から骨盤

2010-06-18 19:28:10 | 治療日記
 今日も前回2月末の検査時と同様、午前中の仕事を終えて急ぎ足で電車に乗り、CT検査に出向いた。職場を出た時にはまだ日傘代わりにさしていた傘は、病院の最寄り駅ではパラパラと小雨になっていたため、雨傘に変身した。
 ここでのCT検査も回を重ね、7回目になる。受付後、いつものようにCT準備室で検査着に着替え、血管確保をして(何回やっても針が太いので腕が痛む。最近ではポートでの点滴にすっかり慣れているので、右手をまっすぐにしたまま点滴台を押すのはなんだかとても病人になった気分だ。)生理食塩水を点滴で落としながら廊下で呼ばれるのを待つ。
 今日は思いのほか電車の接続が良く、予定の時間より早めに病院に入って受け付け出来たが、検査自体は予約時間どおりだろうと少し待つつもりでいると、殆ど待つことなく検査室に入れた。いまだ咳が結構出るので、息を止めている間が長く感じた。造影剤が入って体中が熱くなっている時間もやはり長く感じた。頚部まで撮るため、上あごをのけぞらせるように万歳の姿勢。咳が出そうで困った。それでも無事検査終了。
 病院に入ってから1時間弱で会計まで終わった。病院を出るときには外は本降りになっていた。
 その後、遅いランチの際、少しでも早く造影剤を体外排出するためたっぷり水分を取って帰宅した。
 自宅の最寄り駅に到着した頃にはかなりの土砂降りで、濡れ鼠で帰宅した。やはり梅雨である。

 今日の画像の結果はこれまでのホルモン治療剤アロマシンの結果、ということだが、明日からはヒスロンHに薬を変更する。来週の通院日に今日のCTの結果が判るが、レントゲンの肺の影が濃くなっているという結果に加えてどこもあまり悪化していなければ良いのだが・・・。ただしこれは気に病んでも仕方ないので、土日はとにかく風邪をしっかり治した後、リフレッシュして過ごすつもりだ。

 今日は1冊読めた。スティーブンソン著・田中西二郎さん訳の「ジーキル博士とハイド氏」(新潮文庫)。いわずと知れた「二重人格」の代名詞として今なお名高い怪奇小説の傑作。確か中学生の頃、やはりこの新潮文庫で読んだと思うのだが、実家にまだあるのかどうかもわからない。奥付を見ると、昭和42年2月に発行後、平成21年6月に81刷というのだから凄いことだ。
 それにしても詳しい記述等殆ど何も覚えていないことに愕然としてしまった。こんなお話だったのだ、と。原題が“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde” ということすら知らなかった。もちろん薬によって姿を変えたジーキル博士その人がハイド氏で元の姿に戻れなくなって・・・、ということは覚えていたのだが。結構新鮮な数時間だった。
 ふとスティーブンソンの没年を見ると、彼はなんと44歳で亡くなっている。子どもの頃から病弱であったということだが、我が身を思うと複雑な気持ちだ。

 
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2010.6.17 40代最後の誕生日

2010-06-17 20:26:36 | 日記
 今日で40代最後の誕生日を迎えた。
 産まれた時も入院中はカラリと晴れていたそうだが、いざ退院して帰宅すると毎日雨続きでオムツの洗濯が大変だったそうだ。それでも今まで誕生日当日が1日雨降り、という記憶はない。
 今日も真夏日。朝からすごい日差しだった。咳も鼻水もまだ止まらないし、すっかりガラガラ声で冴えない誕生日であった。

 人生50年、と言われた時代を思えば、もう十分、という年まわりなのだな、と実に感慨深い。それでも若い頃は女性で「50歳間近・・・」などというと、もっと重厚で落ち着いたマダムのようなイメージだったけれど、今や“アラフィフ”などという呼称で実に軽いノリになっているし、昔に比べて50代の男性も女性もとても若々しく元気になっているから、いざ自分が迎える段になると(こんなに軽いものか・・・)という何やらあっけないような感じもある。それは30歳になったとき、40歳になったときも同じだったけれど。

 再発した時、46歳だったから、50歳まで生きられるかなあ・・・、とぼんやり思った。それでもこうしてなんとか治療を続けてきて早くも50歳まであと1年となった。よほどのことがない限り50代突入も大丈夫だろう、という気がしている。

 いつだったかあけぼの会の事務局のTさんが「50歳の誕生日を迎えられたことが本当に嬉しかった。」と言っておられたことを思い出す。ちょうど初発も再発も私と同じくらいの年まわりであったので、前を元気に走ってくださっているのがとても心強い。

 いくら平均寿命が男性80歳超え、女性85歳超え、となっても、50年という半世紀の重み、たとえ何らかの病気を抱えていようが病気と共存しつつ、とにかく50歳を迎えられるということは凄いことだと思う。

 生まれたときのことを少し。
 母から預かった母子手帳がここにある。身長51センチ、体重3500グラム、胸囲・頭囲34センチという大きな赤ん坊だった。母は小さかったので、それは難産で、三日三晩苦しんだと聞いている。(ちなみに息子の母子手帳を並べてみると、身長51.9センチ、体重3315グラム、胸囲32.5センチ、頭囲34センチだ。頭囲だけ一緒、身長以外は私の勝ちだ。)それでも私のように力尽きて帝王切開、でなく、自然分娩で頑張ったというのだから、敬意を表する。出産後のげっそりやつれた病室でのセピア色の写真は、今思い出しても実に痛々しい。

 あまりに重そうで「誰もだっこしてくれなかった・・・」というほどのおデブちゃんで、小さい母がいつも顎を出して背負っているほどだったという。「赤ちゃんコンテストに出してみたら・・・」という声に推されて出かけて行ったところ、上には上というか、もっと大きくて立派な赤ちゃんが沢山で、すごすごと帰ってきたそうだ。

 髪の毛が薄くて1歳を過ぎるまで殆どスキンヘッド状態だったらしい。心配して両親は海藻類をうんと食べさせたようだが、いつの頃からか太くて多くて硬い髪質になった。
 もちろん40代で再びスキンヘッドになるとは思わなかったけれど、髪質は再び生え始めたときのクリンクリンの柔らかなクセ毛だった頃に比べて大分元に戻ってきている。

 母は難産が原因でその後腎臓を患い、私が2歳になるかならないかで長期入院をした。その頃、私は母方の祖母に預けられ、毎晩のように「遠くの遠くのおうちに帰りたいなあ・・・」と外を見ながら言っていたそうだ。
 数ヶ月後、母が無事退院して帰宅したとき、「ママのところにおいで・・・」と両手を差し伸べて私を呼んでも、私は祖母の後ろに隠れて決して母のところに行かなかった、という。母は「あれほど辛かったことはなかった。子どもは絶対に手から離してはいけないと思った。」と涙を浮かべて話していた。

 さて、健康優良児候補だったおデブちゃんも幼稚園に上がる前には背高のっぽの痩せっぽちになっていたようで、それ以来ずっと身長や座高(!)は平均よりずっと上、体重と胸囲(!)は平均よりずっと下、ということで推移してきている。

 そんな母ももう70代後半。一時は減塩の食生活を送っていたのが嘘のように、量はそれほど多くなくとも何でも食べて、血圧が少し高いもののいちいちクヨクヨしないし、泣き虫ではあるが、5歳上の父に比べると実に元気である。

 子どもの誕生日というのは、実は母にとって名実ともに母になった日。「お母さんお疲れ様、産んでくれてありがとう。」と言わなければならない日なのだな、とこの年になって改めて思う。
 そして、母にとっても自分の子どもの誕生日はいくつになっても決して忘れることのできない日なのだろう、との思いを新たにする。
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2010.6.16 ハーセプチン97回目

2010-06-16 22:30:21 | 治療日記
 昨晩解熱剤を飲み、夜中にしっかり汗をかいたので今朝は平熱に戻り、ほっとした。雨のためか電車が少し遅れ、体力温存のため急ぎ足にもしなかったので、乗り継ぎ駅で普段より1台遅い電車になった。
 内科受付で今日は先生が休診ということを伺った。2年半近く通っているが、先生の当日休診は初めてだ。代診は一昨年11月タキソテール投与時の入院時、ポート設置の手術をして頂き、その後の緊急入院の時にもお世話になった先生だった。
 30分ほど待って診察室へ。「ご無沙汰しています。」とご挨拶をし、今回の風邪の状況=くしゃみ、鼻水、鼻づまり、咳、発熱=と飲んでいる薬についてお話した。のどの腫れ、頚部リンパ節の腫れを見て頂き、胸部、背中とも聴診器もあてて頂いて、特に異常なし、ということだった。その場で検温もし、平熱だった。
 先生からは「無理して(点滴)をやっていかなくてもいいですよ。金曜日にCTに来るときに午前中始めてもいいし・・・」と言って頂いたが、「(1時間半かけて)せっかく来たので・・・」とお願いした。1週間に1度をそれほどきちきちに考えなくて良いとのこと。確かに年末年始とGWは1週空くのだが、どうも貧乏性なので(融通が利かないとも言う。)それ以外は飛ばしたくないというのが本音である。「抗体で風邪症状が出ることもあるので・・・」と心配して頂いたが、「今日はずっと静かにしていますので・・・」と処置室へ移動した。
 血圧、針刺後、1時間ほど薬の到着を待って無事ハーセプチン開始。キャンセルすればこの薬も無駄になってしまうところだったので、ほっとする。そして、確かにハーセプチン初回の翌日は高熱が出たことを思い出す。もうすぐ2年になるのだなあ、と思う。
 2時間後、無事終了。再度血圧を測り、針を抜いて会計を済ませた。
 外に出るとすっかり日差しが強くなっており、雨傘を日傘にしてしまうほどだった。とても蒸し暑く、じっとりと汗をかいた。昨日は全く食欲がなかったのだが、さすがに動くと空腹を感じ、食事をして帰宅した。

 今日は休み休みだったので、2冊読んだ。
 1冊目は池谷裕二さんの「脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできている?!」(新潮文庫)。“「馬の鼻先に人参」というように報酬を使う方法はやはり仕事の能率を高める手段として有効であり、それは眼に見えるご褒美である必要はなく、何かをやり遂げたという達成感もまた外発的動機となる。「目標は高いほうがよい」と言われるが、大きな仕事を成し遂げるためには、最終目標以外にも、小さな目標、達成可能な目標を随時、掲げていくことが大切”や、“「あなたはいつでもストレスから逃げられる」と教えてもらうだけで、ストレスが減じる。逃げ道がない状況こそ本当に怖いストレスである。”、“そもそも人が生きていられるのは「未来」が未確定だからではないだろうか。筋書き通りの決まりきった将来は脳をダメにする。逆説的だが「将来への不安こそが脳にとっての栄養源」なのである”など実にわかりやすく興味深く読んだ。中村うさぎさんの解説にも同感だ。   
 2冊目は東郷雄二さんの「打たれ強くなるための読書術」(ちくま新書)。“『知的に打たれ強い』といいうのは、いろいろなことについて知識を豊富に持っていて、議論で常に相手を言い負かすことではなく、『正解のない世界に耐える』ということであり、ビター・チョコレートのように苦み走った大人の態度なのだ”と表紙にあるとおり、本の探し方、段階を踏んだ読書、読んだ本の活用法などの使える技術を伝授するものであった。私などは濫読の極みなので受動的読書であることを痛感する。それにしても、かつて書店に行くと、あまりに本が多すぎてくらくらして退散することもあったが、最近では本を探すときにだんだんと鼻が利く感じになってくるのは実感している。私は別に論文を書くわけでもなく趣味と実用をかねての読書なので、ここまでビターでなくてもよいのだが勉強になった。
 奇しくも今日の本は2冊とも“ユウジさん”の著作だった。

 明日は2日連続で休みをとってしまった後の出勤だ。朝、メールを開けることを思うとちょっとブルーだ。入梅と同時に本当に蒸し暑いが、今回に懲りて体調管理はきちんとしなければ、と思う。

 日曜日にお会いしようと約束していたあけぼの会のSさんからメールを頂いた。何ということか・・・ご自宅がもらい火で焼けてしまい、翌日お父さまが倒れて入院されたという。そのため当日は行けない、と伝えてきてくださった。ご本人も今日はハーセプチンの点滴だというのに。それ以上の詳細はわからないのだが、本当に言葉もない。神様はなんて意地悪なんだろう、と思う。とにかくお父さまともどもくれぐれもお大事に、無理だけはしないでくださいね、と陰ながら祈るばかりだ。
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2010.6.15 休みがないのに・・・

2010-06-15 20:37:22 | 日記
 週末に、あれ、ちょっと喉が痛いなと思った。うがい手洗いはいつも気をつけているので念入りにしていたのだが。日曜日、今度は鼻水も出る感じ(鼻毛がないので、情けないことに下を向くと鼻水が滴り落ちる。)で、調子が悪いので葛根湯を飲み始めた。昨日は普通に出勤したけれど、昼あたりからどんどん調子が悪くなった。鼻水は止まらないし、くしゃみをすると胸骨に響いて痛いし、痰の絡んだ咳も出始めた。だるくて頭が痛い。夕方は座っているのがやっとで、定時にそそくさと退庁した。

 何とか帰宅して、簡単に夕食の支度をしてそのままベッドに横になった。案の定7度台後半の熱があった。薬を飲むために少しだけおかずをつまんで、クリニックで前にもらっていた風邪薬を4種類飲んでそのまま寝た。

 とにかく病気休職の関係で有給休暇が殆ど残っていないので、体調管理には本当に気を使ってきた。週1回の通院も体調が悪かったり、熱が出ていたりしては肝心の点滴をしてもらえない。

 今朝、いつものとおり目覚ましをかけて起きたが、ふらついて咳も鼻水も鼻づまりも熱っぽさも全く良くなっていなかった。息子のお弁当だけ適当に作って、朝食の支度をして、私は水分だけとって薬を飲んで休みをとることで観念した。

 再発以来、とにかく週1の通院は絶対動かせないこともあり、それに向けて体調を整えておくことが至上命題のようになっていた。だからあくまでも休暇は事前申請に限っており、当日の朝になって「具合が悪いので」と電話一本で休みをとったのは記憶にある限り、今回2回目。1回目は、2年半近く前、ゾメタ初回投与の翌日9度の熱が出て動けなかったときだ。それ以来2回目だ。

 夕食は夫に頼んでお弁当を買ってきてもらう始末。
 ほぼ24時間以上ずっとベッドに張り付いていた。うつらうつらして変な夢を沢山見た。
 熱自体は7度台なので普段ならばこのくらいなんともない、という程度なのだが、なんとも体に力が入らない。

 明日はなんとか通院して無事に点滴が行えるように祈るのみだ。
 それにしても、いざ体調が悪くなると、やはり体力が落ちているな・・・と思わざるを得ない。
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