水晶のように透き通った美しい物語――この小説を読んで浮かんだことば。
時はロシア革命後から1954年まで。
貴族が亡命、流刑、投獄、銃殺刑といった運命をたどっていた時代、
ロストフ伯爵はかろうじて銃殺刑をまぬかれたものの、それまで暮していたホテル、
メトロポール・ホテルに死ぬまで幽閉処分となる。
部屋も、それまでの豪華なスイートではなく、狭い屋根裏部屋だ。
そこで暮した32年間の物語。
前に、空港で戻ることも出ることもかなわず、そこで暮した男の話があったが、
(トム・ハンクス主演で映画にもなった)それとはまったく印象が異なる。
ただ毎日を生きるだけでなく、伯爵はきちんと前を向き、日々を送る。
「自分の境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる」を指針として。
設定だけを見れば、重苦しい話かと思いそうだが、ユーモアにあふれ、
楽しく、とてもおもしろいエンターテイメント小説なのだ。
それは、作者がアメリカ人だというせいもあるかもしれない。
若い頃ロシア文学を読みふけり、20年以上投資家を職業としていたそうだ。
ホテルを出ることはまかり成らぬものの、そこは、パリのリッツ、ニューヨークのプラザ、
ロンドンのクラリッジに並び称される、モスクワきっての高級ホテル。
さまざまな人々がやってくる。有名女優と恋をし、アメリカ人外交官と親しくなり、
ソビエトの共産党幹部とも友人づきあいをする。
彼を取りまくホテルの従業員たちもまた魅力的だ。
だが、少女ニーナとの出会いは、他の誰にも増して、伯爵の運命を大きく変えていく。
ホテルの外ではスターリンによる恐怖政治の嵐が吹き荒れていても、
ホテルの内側には一種、温室のような穏やかさがある。
もちろん政治の影響はホテルにも及んでくるが、
軟禁されたゆえに、伯爵はそれらから守られてもいる。
最後はちょっぴりミステリー仕立てで、心がじんわり温かくなるようなラストである。