春の恒例(高齢?)の温泉旅行。早すぎる桜の満開情報、11日(土)まで持ってくれよと祈る日々。土曜の朝、何時ものように小雨降る秋葉原中央口からワゴンで出発。高速の途中から雨も止み、心配した渋滞もなくスムースに高崎ICに到着。
最初の目的地は、高崎の倉渕町の「相間川温泉」、塩分と鉄分が多くくみ上げて暫くすると茶色に変色する特色のある温泉だ。昼の時間も近く昼食兼立ち寄り湯とする。塩分が多いためか体が浮く珍しい湯である。
食事も済ませ、次の立ち寄り地は江戸時代終焉時の偉人「小栗上野介」の菩提寺「東善寺」。明治維新の歴史に寄ってたかって封印された「小栗上野介」についての薀蓄を述べなければこの先進めない。暫し、ご静聴あれ・・
そもそも、小栗上野介とは、江戸時代の終焉の勘定奉行、江戸町奉行、軍艦奉行を歴任、横須賀に日本初の近代的製鉄所を建造、軍艦製造を幕府内の反対にも関わらず進めた。財政立て直しの才にも優れ、海外渡航の実績から日本に江戸時代にも関わらず三井財閥などの株式会社の原型も創設させた。
海外渡航では、日米通商条約の締結、日本から流出し続けている金の兌換レートの不平等条約の解消交渉など、明治政府でも困難な交渉も彼が中心で行ってきた。
江戸城開城の評議の中で、主戦論を展開するも開城に決定。その後、将軍が官軍に恭順を決め水戸に隠遁した後は、上野の山での彰義隊の隊長に推挙されるも、大義(将軍)のない戦はするべきでないと知行地の現高崎市の山奥(倉渕町)に隠居。しかし、徳川埋蔵金を狙った近隣の武士や土豪数千人が襲いかかるも、優れた戦術で僅か200名の手勢で撃退。官軍を恐怖させる。時折、蒸し返させられている徳川埋蔵金伝説のその人である。
その後、官軍の前に抵抗する気はない旨の申し開きに赴くが、その場で拘束、官軍によって十分な詮議もされずに翌日には相間川の川原で斬首された。申し開きに高崎に出向いた息子も斬首された。明治政府の元勲達が如何に彼の能力を恐れていたかを物語っている。しかし、僅かの部下に守られて身重の婦人は会津に逃れ、その後、娘は遠戚にあった大隈重信に保護されたと聞く。
その後、彼の功績は歴史的に封殺され、西南戦争で明治政府に対立した西郷隆盛などの復権はあっても、小栗上野介が未だ義務教育の教科書に記されることが無い。長州出身の世襲代議士が総理になっている限り期待はできないだろう。
寺から5分ほどの本堂裏山中腹の墓に参拝した後、本堂の資料館で小栗の業績の資料を拝観する。小栗上野介の復権にご住職の熱い思いが感じられた。オジンも然り!!
参拝後、本来の温泉旅行に復帰。旧草津街道沿いの権田の分岐から少し走って牧野酒造に寄る。女将さんの推奨する「大盃 袋絞り馥露酣」を二本購入。山の仕事で泊まる時はいつも大盃を仕入れて宿に向う。今回、仲間の人数から少々少ない気がしたが、旅館の食事時に注文する日本酒やビール、その他の酒も大分仕入れてあるので十分だろう。
暫く走ると上州を代表するの義侠の親分「国定忠治の墓」に立ち寄る。「赤城の山も今宵限り・・」の名セリフは有名だ。小栗の後で、国定忠治も語らなければ片手落ち。そこで一節。
時は江戸後期、上州は国定村(現伊勢崎市)に生を発した忠治は、持ち前の度量と剣術の腕で地元の親分「大前田栄五郎」に見込まれ跡目を継いだ。以降、上州と信州の一部に勢力を広げ、天保の飢饉の際には農民に銭や米を分け与え義侠として人気を集める。しかし、無法者の重要人物として幕府から追われ続け、追求の手が厳しくなり、とうとう一家を解散せざるを得なくなった。その時の言葉が先の「赤城の・・・」である。その後、流浪の旅に出て、江戸では千葉周作に真剣勝負を挑むなど剣の腕前は、切った博徒の数からも相当な剣士であったと推測されている。流浪の旅先で清水の次郎長とも親交があったという。
信州から「大戸の関」を何度も破り上州に出没したため、幕府も忠治の追及の手を緩めなかった。忠治は捕縛され小伝馬町の牢に送られ関所破りに対して死罪としての判決を受け、「大戸の関」で磔の刑を受ける。ほぼ同じ時期に子分12人も同じ場所で処断されたと聞く。木枯らし紋次郎など、上州人と博打好きを結びつける人物でもある。なるほどとも思える輩もいるが、交誼のある多くの人は真面目な人であることを申し添える。
温川温泉郷に入り、「薬師温泉」の「旅籠」の長屋門に到着。茅葺の古民家の里を復元、立ち寄り温泉施設と宿泊施設を併設。蒐集した古民具の数々、箪笥、人形、焼き物、武具等の収集品が半端な博物館のそれを上回る。宿の雰囲気も古民家そのものである。黒光りした引太い梁に、引き出し階段、テレビも冷蔵庫も木の扉の裏に収まる構造になっている。掘りごたつのある板敷きの奥座敷はオンドルである。ひとつひとつに拘りを感じ入る。
到着し部屋に案内されると、旅館の知り合いからウェルカムドリンクの氷付けシャンパンボトルが二本が届いていた。乾いた喉に大変旨い。温泉は、宿泊者専用のかけ流しの「滝見の湯」の他は、沸かし湯の薬湯である。貸切が2湯あるが、全部で7つの風呂がある。
食事処は、別棟の囲炉裏の個室。専任の仲居さんが付いて炉端焼きの世話をしてくれる。お酒は持ち込みの「大盃」と宿の酒「純米大吟醸 旅籠」、川場村の地酒に宿の名前を冠して販売しているとのこと。てきぱきとと料理が出てくる。旨い料理に旨い酒、ビールを4本、四合瓶を4本をあっという間に空けてしまった。食事処を後にして、あとは部屋で飲み会の続きへ。
温泉は露天風呂の温川の広い堰堤から落ちる水を眺めながら入る「滝見乃湯」。堰堤がチト寂しいが開放感はある。薬師温泉は約200余年前に旅の行者が見つけ開湯をしたそうだ。旅館は古民家はもとより、蒐集した家具や陶器、武具、時代人形などをそれぞれの棟に、何時でも鑑賞できるように陳列してある。古民家の梁や柱は時代を感じさせるが、時代と共に丈夫になってきたような感さえ抱かせる。
翌朝は時代宿に別れを告げて旧草津街道を草津方面に走る。須賀尾峠を越えると向かいの草津方面の山の中腹以上には残雪が多く青空に映えて美しい。峠道の途中、道の真ん中で日本カモシカが佇み車を見つめている。昨年春の長野は七味温泉でも道でカモシカに遭遇した。やはり、餌を求めて巷で言う里近くに下りてきているのだろう。
二日目の立ち寄り湯は、中之条の奥の「四万温泉」。草津温泉を上回るとも言える群馬を代表する名湯である。泉質は草津の硫黄泉と違い、無色透明の炭酸硫酸泉で肌に柔らかい。国民保養地第一号の温泉でもある。四万温泉では「積善館」の重要文化財の風呂に入るのが目的だ。重要文化財の風呂はジブリ作品の「千と千尋の神隠し」の温泉宿のモデルとも言われている。赤い橋を渡った1階がその風呂である。
当時はモダンな浴室だったろう、タイル貼りクラッシックな風呂が6ツ。蛇口周りに石灰の結晶がこびり付き歴史を感じさせる。風呂の入り口を開けると直ぐに脱衣所、風呂場も丸見えである。しかし、泉質は柔らかく、体の芯まで優しく暖める。「いい湯」とは四万温泉を言うのだろう。
積善館を後にし、四万温泉の起源といわれている「日向見薬師」の共同浴場「虚無想の湯」に行くが先客で一杯。3人入れば一杯の風呂、致し方ない。直ぐ近くの四万ダムの公園でダムの堂々とした景観に見とれる。ダムサイトの駐車場では、本日二回目のカモシカに出会う。近くの急な崖の擁壁の上で草を啄ばんでいた。
寄る年波に車の旅行は疲れるが、交代しながらの運転で無事に秋葉原に到着。運転で禁酒状態のオジン、運転の相方と地元で一杯となったのは当然の成り行きである。