散日拾遺

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似蘭斯馨 如松之盛 ~ 千字文 034/香りのこと

2014-03-03 12:59:00 | 日記
2014年3月3日(月)

○ 似蘭斯馨 如松之盛

蘭の馨(香)ばしさのように、松の盛んに生い茂るように。
斯と之は語調を整える助字。

 これまた人徳に関わる格言で、

人がその高名を留めるのは、蘭の香りのようであり/
君子が志を守り操を保つことは、松柏の霜雪にあっても緑を保つ姿のようだ/

 ということらしい。

***

 「香り」に注意を引かれる。
 嗅覚というのは不思議なもので、臭いや香りはほぼ例外なく、何かしら情緒的な意味を伴っている。それもかなり微妙に弁別される情緒的な色合いである。
 「草いきれ」の香りは、切なさを帯びた懐かしさであり、味噌汁のそれは、ひたすらに温かい懐かしさというような。あるいは、前者が田舎の親族や幼年期の友達につながり、後者はひたすらに家庭の食卓を想起させるという具合に。むろん、負の感情と結びついた臭いもあるし、情緒的な連合以前に臭いそのものに芳香と悪臭の別がある。中立的な臭いというものは、存在しない/しにくい。
 これもまた脳の構造から理解しやすいことで、大脳新皮質で処理される視覚・聴覚・体性感覚などと異なり、嗅覚はいわゆる辺縁系で処理される。辺縁系は情動や本能、価値判断などの中枢でもあるから、嗅覚が情緒的な色合いを帯びやすいことには解剖学的な理由があるわけだ。
 かつ、これには系統発生的な必然性がある。嗅覚は最も原始的な(ということは根源的に重要な)感覚であり、大脳はそもそも嗅覚上皮から発生するインパルスの処理中枢として出発した。嗅覚の伝える情報を快・不快に弁別して記憶にとどめ、これと照合しながら接近/回避を選択することによって、環境への適応が為されてきたのである。それが今に引き継がれた結果、香りは決して中立的なものであることなく常に快と不快に分かたれ、かつ何らかの情緒を伴うのだ。

 ・・・などと悦にいってしゃべっていたら、「先生!」と手を挙げた学生があった。いつも和服で通学し、授業に出席していた女子学生である。年配の社会人入学者ではない、ごく普通の高校新卒で、ただ自分のポリシーとして常に ~ 裾を割って脚を動かさねばならないオルガン実習以外は ~ 和服で通していた。
 彼女が、いかにも不本意といった表情で反論したものだ。
 「ゼンゼン分かりません。良くも悪くもない中間的な臭いって、そこらじゅうにいっぱいあると思いますけど。」
 う~ん、そうかなあ、僕の思い込みなんだろうか。

・・・あ、この香り、お昼は焼きそばだ!

***

 蘭の香りのような人徳とはどんなものか、よく分からないが、人徳を香りに喩えるのは「あり」だと思う。そのくせ他人をそのように形容したことは、あまり記憶にない。それこそ香りにはかなり濃密な情緒が伴い得るので、ツボを外すと地雷を踏む ~ というか、そうした形容自体が相当に親密な接近行為であり、今流に言えばハラスメントすれすれのきわどさを持つからかと思う。
 桜美林時代、信徒教員には教授会の開会祈祷が順繰りに当てられた。ある時の祈祷で「学生がこのキャンパスの生活を通して、キリストの香りを身に帯びるものとなるように」と言ったところ、後でひどく褒めてくれた人があった。
 この人は、ある日エレベーターの中で「先生のおデコは本当につやつやと綺麗ですね」と曰(のたま)い、また別の時にはメールで「先生はキリストの香りを漂わせる人のように感じます」と書いてこられるなど、どうも調子の狂う御仁だった。(中年男性である。念のため。)日頃から親密という間柄ではなく、それだけにこうした御託宣には少々驚かされたものだ。

***

 神は感謝すべきかな、いつもキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちを通して至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせてくださるのである。
 わたしたちはキリストによって神に捧げられる香りである。滅びる者には、死から死に至らせるかおりであり、救われる者には、命から命に至らせる香りなのだ。このような務めに、いったい誰が耐え得ようか。
(第二コリント 2:14-16)